「舞楽…こっち見て」
「…ん?」
帰宅したとたん、テレビの前のラグに正座して、じっと番組を見始めた舞楽。
…その目には何も映していない。
とろん…として、俺が声をかければ、少しダルそうに視線を向けた。
…わかってるんだろうか。
俺を見る舞楽の目は、薄茶色で少しだけ目尻が上がっていて、まつ毛が上下とも綺麗に縁取られた…魅力的な瞳だということを。
そして、その目を向けられると、少し前から俺の様子がおかしくなることを。
「はんぺん食べる?…」
つい…たくさん買ってしまったおでん。その中から、好きだと言ったはんぺんを持ち上げて見せた。
「ん…。あーん…」
…殺す気か?
リップをつけていない紅い唇が、無防備に開けられて焦る。
唇に触れたい欲望を何とか抑え、希望通りはんぺんをそっと口に入れてやる…
箸が唇に触れて、口を閉じる舞楽…
「おいし…」
ニコッと笑うその顔から…目が離せない。
あぁ…もう、俺はいい加減…
「…大根は?」
「…は?」
はんぺんを飲み込んだらしい舞楽は、俺の気も知らずに大根を要求してきやがった…
「裕也…って言ってみ?」
望み通り大根を食べさせるために箸で切り分けながら言う。
どさくさにまぎれすぎだろ。
「裕也…?」
これは違う。ただのオウム返しだ。
そんなんで、俺が納得すると思って…
「裕也、大根は?」
「…熱いから、ヤケドすんなよ」
本当は、たいして熱くない。
大根にキスをして…それを舞楽の開いた唇にそっと入れる。
ジュワ…っと溢れる出汁が、唇の端から垂れるのを見て…
俺は、大きくため息をつく。
「…眠くなっちゃった…」
よく言うよ。
迎えに行ったら、俺にもたれてほとんど寝てたくせに。
「シャワーは?いいの?」
「…入って来る」
「…手伝おうか?」
変な意味で言ったわけではない。
まだ少しフラフラしていたから、心配で言ったことだ。
俺の言葉に答えることなく、舞楽はいたずらっぽい笑顔を残し、千鳥足でバスルームへ行ってしまう…
一緒に入ってもいいということだと…勝手に脳内変換してみたが、怒られたら嫌なので、ダブルベッドで大人しく待つことにする。
別に…何かを期待して待っているわけではない。
ただ、まったく眠くならないだけだ。
がちゃん…っと大きめの音が聞こえて、リビングを覗いてみる。
レースのカーテンが揺れていた。
…ベランダに出たのか?
「…何をしてる?」
「髪、乾くかなぁって…」
「無風だ。乾くわけないだろ」
「怖い…」
ごめん、と。
素直に謝りそうになってしまった。
…冗談じゃない。
なんで俺が、こんなに甘くならなきゃいけないんだ?
ふざけんな…俺はもう、先に寝…
「裕也…」
伏せた瞳が、少しずつ俺をとらえるようにあがってくる。スローモーションのように見せつけられて、動けない。
「…なに」
「ん…?」
「…今呼んだろ?」
あぁ…!と納得したように言いながら、胸元にぶつかってくる舞楽。
…背中に、細い手の感触。
「…大好きだよ?裕也…」
えへへ…と笑う声は、信用ならない。
でも…
嬉しい。可愛い。俺も好き。
もしかしたら、もう自力で止められないかもしれない。唇に触れたい欲求も愛しい想いも…ギリギリだ。
柔らかく唇を重ね、甘さを全身で感じる。
「は…ぁ、裕也…?」
「…ん?」
名前を呼んだあと、語尾をはね上げないでくれ。
酔っ払いのせいか、ちょっと舌先で突けば、唇は難なく開く。
声にならない小さな悲鳴が、俺の鼓膜を揺らすたび、こっちの理性はカウントダウンだ。
気づけば…理性を振り切って、Tシャツの背中に手を入れて…ハーフパンツの腰を撫でながら密着していた。
慌てて離れたのは、酔ってる舞楽を、俺の欲望だけで抱くわけにいかないと思ったから…
しかも、彼女は多分、経験がない。
そう意識すればするほど…早く自分のものにしたいと強く思ってしまうが…ダメだ。…今日じゃない。
「…先に寝てなさい」
寝室のベッドに寝かせて、俺は大きく息を吐いて…バスルームへと向かった。
酒に酔ったところを見たのは初めてだ。…あんなに変わるのか?
いつもはもっとキリッとしてて、しっかりした印象。
それが時々フワッと緩くなる瞬間があって、いつからか、それを見逃したくないと思うようになった。
緩くなる瞬間…あの時がそうだ。
フレンチトーストを作ってくれた時、フォークで食べさせてやろうとしたら素直に口に入れて、モグモグしながら敬礼してみせた。
…いや、いちご大福をかじらせた時も。それから、食べかけのたまごサンドを食べさせた時…。
「…俺が与えたものを素直に口に入れる時…か」
自分が動揺するキーワードは「唇」
それは自分でもわかっている…
ざっと髪を乾かして寝室に向かいながら、そういえば舞楽の髪を乾かしてやるのを忘れた…と思い出した。
いや待て。なんでそんなことを俺がやる必要がある?
「…末期か…」
風邪をひかせたくないと思う。
そんなことを人に対して思うのは、初めてかもしれない。
寝室のドアを開けて…一旦、閉めた。
…ライトを消さずに寝ている。
毛布を、掛けてやるのを忘れた。
ハーフパンツから白い足がむき出しになっていた。
裾がめくれて、太ももまで全部。
生地が悪い。
コットンじゃなかった。さっき触ったからわかる。
化学繊維でできた、サラサラと肌を滑るような生地のハーフパンツ。
膝を立てたことでスルリと生地が滑って…足がむき出しになったということだ。
…情けないが、もう本当に…今夜の俺を刺激しないでほしい…
それでもドアを開けたのは、別にもう一度綺麗な足を見たいからでは、決して…ない。
毛布をかけてやらなければ、本当に風邪を引く。
そう自分に言い聞かせて眠る舞楽を見下ろせば…スッと制御が効かない状態になって、焦る。
そっとベッドに近づいて、髪に触れる。…もうほとんど乾いていた。
ふっくらした頬に指先が触れ、迷いながら…唇に触れれば…
抗いがたい衝動が、下腹部から突き上げてくるような感覚…
まずい。非常にまずい…
そう思えるくらいには、理性が残っていたことに、我ながら感心する。
足元に座って、そっと太ももを片腕に抱き…膝小僧にキスを落とす。
…これくらいは、許される…はず。
俺は毛布を掛けて、ライトを消して寝室を出た。
絶対に理性が飛ぶのはわかっているので、俺の今日の寝床はリビングのラグで決まりだ。