「ツーリストロードの川田様より、新しいプランの打ち合わせに伺いたいとご連絡いただいております」
「…わかりました。明日の夕方、予定を入れてください」
「かしこまりました」
専務執務室を出て、自分のデスクに戻りながら、いつも通りの裕也専務に感心する。
今朝は焦った…
今までで一番焦った。
あんなことになっていたのに、今の裕也専務はまったくいつものクールさで、冷たいくらいの涼しさでいられるなんて…
私と同じ人間という種に分けていいのだろうかとさえ、思ってしまう。
週末、柳くんと飲んでいたはずが、いつの間にか裕也専務と手を繋いで夜の街を歩いたのは覚えている。
でも…後の記憶は飛び飛びで、ハッキリ我に返ったのは朝日が差し込む寝室で、目が覚めたとき。
隣にいるはずの裕也専務がいなくて、とっさに心臓がドクドク…と、嫌な騒ぎ方をした。
裕也専務が隣にいないことが、ただ不安で、慌てて寝室のドアを開ける。
「ゆ…や専務…」
ラグの上で、自分の腕を枕に寝転んでいた。それを見て心底ホッとして、横向きの体に添うように置かれている腕に手を掛ける。
それで目を覚ましてしまった祐也専務は、私に見下ろされていたのが不快だったのか、厳しい表情になった。
「すみません、昨日酔って…1人でベッドを使ってしまったみたいで…」
「あ…?もしかして、何も覚えていないとか?」
覚えていない…と、ハッキリ言っていいものか…
「ベッドで…寝ませんか?」
「…君は?」
「私は、もう起きます。洗濯したいし」
「…じゃあ、少し眠ります」
上体を起こして、至近距離で目が合った。…視線が何か物語っているようで、ほんのわずかに近寄ってその目を覗き込もうとしたら…
ハッとして、私と距離を取ろうと上半身を反らした祐也専務。
え。なんだろ…近寄るな、ってこと?
私から視線を外すことなく、ソロソロと立ち上がった祐也専務は、そのまま壁に背中をくっつけるようにして移動していく…
なに?目をそらしたら負けとか思ってる…?
というか、怖がってる?
…私、酔って何かやっちゃったのぉ!?
…結局昨日、祐也専務はほとんど寝室から出てこなかった。
何があったのか…聞けなかったけど、冷蔵庫に大量のコンビニおでんがあったので、私が何かやらかしたのはちがいない。
夕飯は肉じゃがと炊き込みご飯とほうれん草のゴマあえ、そしてだし巻き玉子を作ってみたら…無言でほとんど全部食べてしまった祐也専務。
ダブルベッドで肩を並べて眠る頃になって、ようやく話しかけてくれた。
「胃袋までつかむとか、あり得ませんからね?」
「…え?」
「夕食、美味しすぎます」
「あ、あの、すいません、いや…ありがとうございます…?」
ため息をつくところをみると、私の返事は見当違いだったのかな…
でも、褒められてるのか怒られてるのかわからなかったから仕方ない。
祐也専務によってライトが消されたので、私も同じタイミングで目を閉じる。
異変に気づいたのは、夜中だった。
ウエストに腕が巻き付いていることに気づかず、寝返りを打ったら、ストン…と、腕の中におさまってしまったのだ。
両手をあげて万歳の体勢で、祐也専務の方に向いてしまい…
寝ぼけながらも、両手の落ち着き先をどうしようか迷っていると、祐也専務の首に巻き付くように導かれる…
あぁ、接近…嬉しい。
チュッと…顎の辺りにキスした気がするけど、夢うつつのなかで、定かではない。
なのに…
私は祐也専務の唇に起こされることになる。
唇を柔らかく押し付けられ、チロチロと唇を舐められる。
下唇を食み、また舐められて…押し付けられて…
ほんのわずかに離れた瞬間、声を出してみた。
「ゆ…祐也専務…!」
ハッとしたように唇が離れたけど、抱き合っていることに変わらない。
肩を掴んで、祐也専務は私を、自分から離した。
「寝ぼけたのかもしれない…」
自分のデスクで1人、そんなことを言いながら、私は専務執務室をそっと見た。
「片瀬さん」
その瞬間、ドアが開いてドキッとして、返事をしながら思わず立ち上がった。
「…どうでした?」
「え、と…」
「ツーリストロードの川田さんです。予定組めましたか?」
「あ、いえ…まだ。今すぐ連絡を…」
祐也専務は眉間にしわを寄せて、あからさまにため息をつく。
「もういいです。次の会議の資料を作ってください。…星野さん」
アポイントは、星野さんに頼まれてしまった。
祐也専務とのキスとかハグばっかりに気を取られて、色ボケしてるみたいな自分を心のなかで殴る…
こんなんじゃダメだ。
仕事はちゃんとしなきゃ…!
強く強く、反省したつもり。
同じ失敗は繰り返さないぞって。
祐也専務にドキドキしないにはどうしたらいいか考えた。
それなのに…追い打ちをかける出来事。
早井さん運転の専用車に乗って帰宅する時、マンション前で降りたのは私だけだった。
「…ちょっと、会社に忘れ物をしました」
祐也専務はそう言って私だけ降ろすと、バタン…と閉じられたドアの向こう、視線をこちらに向けてくれることもなく走り去ってしまう。
そして…その日は結局、帰ってきてはくれなかった。