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第70話 Side.裕也

会長からの連絡は、俺の心を思いのほか踊らせた。



「あの…どなたか帰国するんですか?」


舞楽に聞かれ、思わず笑顔になる。


「幼なじみです。沙希…森原沙希は、生まれてはじめてできた友達で、小学校まで一緒でした。中学からは有名なお嬢さま学校に行ってしまいましたが、家が近かったので、何かと行き来してたんですよ」


いつになく饒舌になっている自覚はあった。


彼女はそれほど俺にとって大事な友達だ。


「バリキャリの典型みたいな人でね、3年前海外の支社へ栄転して、たまに連絡は取り合っていたんだけど…」


懐かしい…

話しながら、沙希とセミやカブトムシを捕りに行ったこと、小さい頃いじめられて、沙希がやり返しに行ったことを思い出して頬が緩んだ。


「…嬉しそうですね…こんな裕也専務、はじめて見ます」


良かったですね、と舞楽は言ったが、その表情を見て少し焦る。


少し寂しそうな、悲しそうな、そんな表情。


知らない人の話は、面白くなかったか。


「…君にも紹介しますよ。俺と仲がいいくらいだから、沙希はさっぱりしてて男勝りな人なので」


「…はい。ぜひ!」


可愛らしい笑顔が見えて、本音を言う勇気が出た。


「…君を婚約者として、紹介します。沙希と仲良くなってくれると…嬉しいです」


はい、とうなずく表情は、まだ憂いを帯びている…気がする。




ベランダに出てタバコを吸いながら、舞楽の表情の意味を考えた。



婚約者として紹介されることが、嫌なのだろうか…

星野さんが言ってたことが、頭をかすめる。


『順調に、至って順調に…偽装婚約関係は続いております!』


体を重ね、愛を確かめあった。

自分と同じ熱を感じて、それは熱く通じる体と共に、心も貫いたと思ったが…


偽装関係。

舞楽は確かにそう言ったらしい。


俺は彼女を抱きながら好きだと言ったが、本当はそんな生易しい言葉であらわせないほどの…熱くて強い気持ちを抱いている。


そんな気持ちを、わかってもらえたと思っていた。


だから…唯一無二の人として、俺のそばにいて欲しいと伝えるつもりだったが、その矢先に聞いた舞楽の言葉に、らしくない不安を抱いた。



熱い気持ちは、自分でも呆れるほどで、制御が効かなくて、困るほどなのに。




…だからテントと寝袋を買った。


同じベッドで毎日眠って、抱かない夜を作るのは、もう不可能だと思ったから。


さすがに引かれそうでそんなことは言えない。


俺はただ、「キャンプ好きの専務」という役を演じるだけだ。

そう思っていたのに…


たまには一緒に寝袋で寝たいとか言われて…俺がどれほど動揺するかわかっていない。

…また近く、説教してしまいそうだ。



「裕也専務、お風呂…先に入りますか?」


ベランダにいる俺に声をかける舞楽。


「あぁ…そうですね」


少し上を向いて、タバコの煙を吐きながら思う。


風呂かぁ…

『お風呂?ご飯?…それとも私?』とか言ってくれないものだろうか。


「…どうかしましたか?」


「…え?」


まさか…淫らな妄想をした脳内に気づかれたか。


タバコをもみ消し、窓に佇む舞楽の脇を…


大人しくすり抜けられるはずがない。


後頭部に手をやって、その唇にキスを落とす。

何度か啄みながら、深くならないように気をつけるのは至難の業…


だったらキスなんかするなよ。


心のなかで自分にそうツッコミながら、名残惜しく唇を離した。


キスの後に顔を見なかったのは、理性の糸が切れるのを防ぐため。


そんな俺を、舞楽がどんな思いで見ていたかなんて、まったく気づかなかった。


………


舞楽の作る食事は…うまい。


「今日は、和風きのこパスタと、冷しゃぶ、それから野菜スープです」


一緒に夕飯を囲めるのは、1週間の半分くらいか。

会食があると手料理が食べられないのが辛い。


「普通にうまいです…」


「普通…」


俺はどちらかというと、口下手な方かもしれないと、舞楽に出会って思う。


「普通というのはまぁ…うまい、ということですが…」


「はい…それならまぁ、良かったです」


「なんです?その『それならまぁ…』というのは」


追求してどうする…と思うものの、しどろもどろで答える舞楽が可愛くて、つい頬が緩む。



「片付けておくから、君は風呂に入りなさい」


食事を終え、後片付けを申し出た。


舞楽は食べてからゆっくり風呂に入ることが多い。

そんな彼女のリラックスタイムを増やしてやりたくて、よく皿洗いを引き受けようとするが…お願いされることはほぼない。



「いえ、裕也専務に洗わせたら、お皿が割れてしまうので」


「…いつの話ですか」


確かに、同居してすぐの頃、俺は皿を割った。

その時洗ったすべての皿を…



「このお皿は、ちょっと気に入ってるんです」


いつか、2人で買い物に行ったスーパーマーケットで、偶然見つけた安物の皿。


淡いピンクとブルーの皿を、舞楽が嬉しそうに手にしたのを思い出す。



「もし割ったら、また買えばいいじゃないですか」


…あんな可愛い表情を見せてくれるなら、もっと有名なメーカーの食器を見に行って、2人で選びたい…


そう思ったのに。



「ダメです。…あの時、裕也専務と一緒に行ったスーパーで見たこのお皿は、あの時だけものものなんですよ?」


「…は?」


「お金持ちだからって、物を粗末にしてはいけません」


「…」


…俺はまた、舞楽を好きになった。




そんなやり取りの中、俺の携帯が震え出したことに気づく。


この時間の連絡は、きっと星野さんだ。


明日の仕事の連絡か…そう思いながら携帯を取ろうとして、鳴っているのはブライベートの携帯だと気づく。


画面に映る着信相手の名前をそのまま読む…


「沙希…?」


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