会長からの連絡は、俺の心を思いのほか踊らせた。
「あの…どなたか帰国するんですか?」
舞楽に聞かれ、思わず笑顔になる。
「幼なじみです。沙希…森原沙希は、生まれてはじめてできた友達で、小学校まで一緒でした。中学からは有名なお嬢さま学校に行ってしまいましたが、家が近かったので、何かと行き来してたんですよ」
いつになく饒舌になっている自覚はあった。
彼女はそれほど俺にとって大事な友達だ。
「バリキャリの典型みたいな人でね、3年前海外の支社へ栄転して、たまに連絡は取り合っていたんだけど…」
懐かしい…
話しながら、沙希とセミやカブトムシを捕りに行ったこと、小さい頃いじめられて、沙希がやり返しに行ったことを思い出して頬が緩んだ。
「…嬉しそうですね…こんな裕也専務、はじめて見ます」
良かったですね、と舞楽は言ったが、その表情を見て少し焦る。
少し寂しそうな、悲しそうな、そんな表情。
知らない人の話は、面白くなかったか。
「…君にも紹介しますよ。俺と仲がいいくらいだから、沙希はさっぱりしてて男勝りな人なので」
「…はい。ぜひ!」
可愛らしい笑顔が見えて、本音を言う勇気が出た。
「…君を婚約者として、紹介します。沙希と仲良くなってくれると…嬉しいです」
はい、とうなずく表情は、まだ憂いを帯びている…気がする。
ベランダに出てタバコを吸いながら、舞楽の表情の意味を考えた。
婚約者として紹介されることが、嫌なのだろうか…
星野さんが言ってたことが、頭をかすめる。
『順調に、至って順調に…偽装婚約関係は続いております!』
体を重ね、愛を確かめあった。
自分と同じ熱を感じて、それは熱く通じる体と共に、心も貫いたと思ったが…
偽装関係。
舞楽は確かにそう言ったらしい。
俺は彼女を抱きながら好きだと言ったが、本当はそんな生易しい言葉であらわせないほどの…熱くて強い気持ちを抱いている。
そんな気持ちを、わかってもらえたと思っていた。
だから…唯一無二の人として、俺のそばにいて欲しいと伝えるつもりだったが、その矢先に聞いた舞楽の言葉に、らしくない不安を抱いた。
熱い気持ちは、自分でも呆れるほどで、制御が効かなくて、困るほどなのに。
…だからテントと寝袋を買った。
同じベッドで毎日眠って、抱かない夜を作るのは、もう不可能だと思ったから。
さすがに引かれそうでそんなことは言えない。
俺はただ、「キャンプ好きの専務」という役を演じるだけだ。
そう思っていたのに…
たまには一緒に寝袋で寝たいとか言われて…俺がどれほど動揺するかわかっていない。
…また近く、説教してしまいそうだ。
「裕也専務、お風呂…先に入りますか?」
ベランダにいる俺に声をかける舞楽。
「あぁ…そうですね」
少し上を向いて、タバコの煙を吐きながら思う。
風呂かぁ…
『お風呂?ご飯?…それとも私?』とか言ってくれないものだろうか。
「…どうかしましたか?」
「…え?」
まさか…淫らな妄想をした脳内に気づかれたか。
タバコをもみ消し、窓に佇む舞楽の脇を…
大人しくすり抜けられるはずがない。
後頭部に手をやって、その唇にキスを落とす。
何度か啄みながら、深くならないように気をつけるのは至難の業…
だったらキスなんかするなよ。
心のなかで自分にそうツッコミながら、名残惜しく唇を離した。
キスの後に顔を見なかったのは、理性の糸が切れるのを防ぐため。
そんな俺を、舞楽がどんな思いで見ていたかなんて、まったく気づかなかった。
………
舞楽の作る食事は…うまい。
「今日は、和風きのこパスタと、冷しゃぶ、それから野菜スープです」
一緒に夕飯を囲めるのは、1週間の半分くらいか。
会食があると手料理が食べられないのが辛い。
「普通にうまいです…」
「普通…」
俺はどちらかというと、口下手な方かもしれないと、舞楽に出会って思う。
「普通というのはまぁ…うまい、ということですが…」
「はい…それならまぁ、良かったです」
「なんです?その『それならまぁ…』というのは」
追求してどうする…と思うものの、しどろもどろで答える舞楽が可愛くて、つい頬が緩む。
「片付けておくから、君は風呂に入りなさい」
食事を終え、後片付けを申し出た。
舞楽は食べてからゆっくり風呂に入ることが多い。
そんな彼女のリラックスタイムを増やしてやりたくて、よく皿洗いを引き受けようとするが…お願いされることはほぼない。
「いえ、裕也専務に洗わせたら、お皿が割れてしまうので」
「…いつの話ですか」
確かに、同居してすぐの頃、俺は皿を割った。
その時洗ったすべての皿を…
「このお皿は、ちょっと気に入ってるんです」
いつか、2人で買い物に行ったスーパーマーケットで、偶然見つけた安物の皿。
淡いピンクとブルーの皿を、舞楽が嬉しそうに手にしたのを思い出す。
「もし割ったら、また買えばいいじゃないですか」
…あんな可愛い表情を見せてくれるなら、もっと有名なメーカーの食器を見に行って、2人で選びたい…
そう思ったのに。
「ダメです。…あの時、裕也専務と一緒に行ったスーパーで見たこのお皿は、あの時だけものものなんですよ?」
「…は?」
「お金持ちだからって、物を粗末にしてはいけません」
「…」
…俺はまた、舞楽を好きになった。
そんなやり取りの中、俺の携帯が震え出したことに気づく。
この時間の連絡は、きっと星野さんだ。
明日の仕事の連絡か…そう思いながら携帯を取ろうとして、鳴っているのはブライベートの携帯だと気づく。
画面に映る着信相手の名前をそのまま読む…
「沙希…?」