「もしもし、沙希か?」
明らかに弾んだ声で対応する裕也専務。
「…聞いた。明後日だろ?…は?…本気で言ってんのか?」
見たことないような…自然な笑顔。私には、向けてくれたことのない笑顔。
「まぁ…休みだけどな。えー、勘弁してくれよ。沙希のところの誰か、迎えに行くだろ?」
明後日、3年ぶりに日本に帰ってくるって言ってた。
話しぶりから、裕也専務に迎えに来てほしいって言われてるみたい。
私のそばで…裕也専務は洗い物をする私を見ながら話してる。
2人分の食器を洗うなんてたいしたことない。…のに、いつもよりノロノロやってる自分に気づいて恥ずかしくなった。
電話の内容を気にしてる…
何を、話すんだろう。
丁寧にやったのに…洗い物は終わってしまった。
いよいよリビングにいる必要はなくなる。
先に…お風呂に入ることにした。
「…沙希に紹介したい人がいるんだけどさ、父さんたちに聞いてない?」
リビングのドアを出る時、私のことを話し始めたらしい声が聞こえた。
さっきも言われたけれど、私はまた…偽装婚約者として振る舞わなければならないのか…
ふぅ…っと、自然にため息が漏れた。
契約金を支払ってもらった偽装関係なんだって、再確認する気持ちは、日に日に重くなってる気がする。
…ちゃぽん…と、お湯に浸かって、大中小と、同じ顔のアヒルを浮かべながら思う。
裕也専務を好きになって、すべてを受け入れたのは、自分の選択。
初めては…裕也専務がいいって思ってしまったから。
そのことに、後悔はない。
でも、お金が絡んだ偽装関係である以上、そこには必ず終わりがあるということで…
それが、いったいいつなのか…すごく気にしてる。
裕也専務は私を好きだって言ってくれた。
私も好き…大好き。
意地悪でサディストで変人で…掴みどころがなくて、そして何より…私とは住む世界の違う人だけど。
そう…住む世界が違う。
だからいずれ訪れるお別れは、仕方ないことなんだよね。
恋心に負けて、足を踏み入れてしまった私が悪い。
…それ以前に、この偽装関係を受け入れるということは、こうなることを予感してた。
あんな…カッコいい人に、いつまでも特別な気持ちを抱かないでいられるほど…私は恋の達人じゃないのに。
「でも私は、ここにいる間、裕也専務に尽くすって決めたんですよ…」
たとえ終わりが来る関係でも。
唯一無二の存在になれなくても。
そう決めたことを思い出した。
「裕也専務にとっての快適な生活を、私が提供する…!」
そこまで考えて、なんとなくスッキリした。
「…よし!」というかけ声と共にバスタブから勢いよく立ち上がると、
大きくうねった湯船の大波に、アヒルたちが飲み込まれ、バラバラに散る。
右往左往するその様子は、まるで私みたいだと、ちょっとだけ思った。
髪を乾かしてリビングに行くと…なんとまだ携帯を耳に当てている裕也専務。
私の姿を見て切ろうとするから…邪魔しないように寝室に入った。
携帯を探して…リビングにバッグごと置いて来たことを思い出したけど、取りに行きづらい。
なんだか…手持ち無沙汰だー…。
横になるにはまだ早いし…
ベッドに座ってるだけでは、聞き耳を立ててるみたいで嫌だ。
思いついて、ベランダに出てみる。
この前洗濯物を干していて気づいた。ここは他の部屋から見えにくい工夫がされているらしい。
1番上の階だし、建物の間から、大通りが見える。
「…夏は花火とか、見えるのかなぁ…」
ひとりごとを呟いて…ふと、そんな季節まで、私はここにいられるんだろうかと思う。
…確か契約書には、ざっくり半年って書いてあった。
「…ということは、4月から始まったとして…10月までか…」
…最近、あちこちで紫陽花が咲き始めた。
あと、4ヶ月…。
裕也専務はその時が来たら、あっさり契約終了を伝えてきそう。
「『引っ越しは1週間以内に完了してください』とか言われるのかな…」
私が出ていった後はハウスクリーニングを入れて…私の痕跡を徹底的に消して。
そしたら裕也専務、ここで一人暮らしになるのかな。
それとも…恋人と一緒に…
そこまで考えて、まだ見ぬ「沙希さん」という幼なじみが浮かんでしまう。
携帯で話してる雰囲気でわかる。
気心の知れた、安心できる相手なんだろうな…
「ここにいたんですか…」
裕也専務がベランダにやって来た。
「…夜風に当たってました。お風呂上がり、暑くて…」
「今夜は少し冷えますよ」
大きいカーディガンが肩にかけられる。
裕也専務のものらしい服から、スパイシーな柑橘系の香りが、夜風に漂った…
…久しぶりに感じる香り…。
一緒にいすぎて、鼻が慣れちゃったのかな。
それとも、私にもその香りが移っていたとしたら…なんて考えてくすぐったくなる。
ふと、肩に置かれた手が離れた。
心地よい重みがなくなって、自分がとても軽くなってしまったように感じる。
部屋に入っていく裕也専務。
お風呂に入るからだろうに…その背中が離れていくのを、とても寂しい気持ちで眺めながら、肩にかけてもらったカーディガンをギュっと握りしめる。
さよならの時、私は笑ってここを出る事ができるのかな…と、ひどく不安に思いながら。
「君に、ちょっと相談があるんですが…」
珍しく…眉をハの字曲げて、お風呂上がりの裕也専務が近づいてきた。