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第71話

「もしもし、沙希か?」


明らかに弾んだ声で対応する裕也専務。



「…聞いた。明後日だろ?…は?…本気で言ってんのか?」


見たことないような…自然な笑顔。私には、向けてくれたことのない笑顔。



「まぁ…休みだけどな。えー、勘弁してくれよ。沙希のところの誰か、迎えに行くだろ?」


明後日、3年ぶりに日本に帰ってくるって言ってた。

話しぶりから、裕也専務に迎えに来てほしいって言われてるみたい。


私のそばで…裕也専務は洗い物をする私を見ながら話してる。


2人分の食器を洗うなんてたいしたことない。…のに、いつもよりノロノロやってる自分に気づいて恥ずかしくなった。


電話の内容を気にしてる…

何を、話すんだろう。


丁寧にやったのに…洗い物は終わってしまった。

いよいよリビングにいる必要はなくなる。


先に…お風呂に入ることにした。



「…沙希に紹介したい人がいるんだけどさ、父さんたちに聞いてない?」


リビングのドアを出る時、私のことを話し始めたらしい声が聞こえた。


さっきも言われたけれど、私はまた…偽装婚約者として振る舞わなければならないのか…


ふぅ…っと、自然にため息が漏れた。


契約金を支払ってもらった偽装関係なんだって、再確認する気持ちは、日に日に重くなってる気がする。



…ちゃぽん…と、お湯に浸かって、大中小と、同じ顔のアヒルを浮かべながら思う。


裕也専務を好きになって、すべてを受け入れたのは、自分の選択。

初めては…裕也専務がいいって思ってしまったから。


そのことに、後悔はない。


でも、お金が絡んだ偽装関係である以上、そこには必ず終わりがあるということで…


それが、いったいいつなのか…すごく気にしてる。


裕也専務は私を好きだって言ってくれた。

私も好き…大好き。

意地悪でサディストで変人で…掴みどころがなくて、そして何より…私とは住む世界の違う人だけど。


そう…住む世界が違う。

だからいずれ訪れるお別れは、仕方ないことなんだよね。


恋心に負けて、足を踏み入れてしまった私が悪い。

…それ以前に、この偽装関係を受け入れるということは、こうなることを予感してた。


あんな…カッコいい人に、いつまでも特別な気持ちを抱かないでいられるほど…私は恋の達人じゃないのに。



「でも私は、ここにいる間、裕也専務に尽くすって決めたんですよ…」


たとえ終わりが来る関係でも。

唯一無二の存在になれなくても。

そう決めたことを思い出した。



「裕也専務にとっての快適な生活を、私が提供する…!」


そこまで考えて、なんとなくスッキリした。


「…よし!」というかけ声と共にバスタブから勢いよく立ち上がると、

大きくうねった湯船の大波に、アヒルたちが飲み込まれ、バラバラに散る。


右往左往するその様子は、まるで私みたいだと、ちょっとだけ思った。




髪を乾かしてリビングに行くと…なんとまだ携帯を耳に当てている裕也専務。


私の姿を見て切ろうとするから…邪魔しないように寝室に入った。


携帯を探して…リビングにバッグごと置いて来たことを思い出したけど、取りに行きづらい。


なんだか…手持ち無沙汰だー…。


横になるにはまだ早いし…

ベッドに座ってるだけでは、聞き耳を立ててるみたいで嫌だ。


思いついて、ベランダに出てみる。


この前洗濯物を干していて気づいた。ここは他の部屋から見えにくい工夫がされているらしい。

1番上の階だし、建物の間から、大通りが見える。


「…夏は花火とか、見えるのかなぁ…」


ひとりごとを呟いて…ふと、そんな季節まで、私はここにいられるんだろうかと思う。


…確か契約書には、ざっくり半年って書いてあった。


「…ということは、4月から始まったとして…10月までか…」


…最近、あちこちで紫陽花が咲き始めた。


あと、4ヶ月…。


裕也専務はその時が来たら、あっさり契約終了を伝えてきそう。


「『引っ越しは1週間以内に完了してください』とか言われるのかな…」


私が出ていった後はハウスクリーニングを入れて…私の痕跡を徹底的に消して。


そしたら裕也専務、ここで一人暮らしになるのかな。

それとも…恋人と一緒に…


そこまで考えて、まだ見ぬ「沙希さん」という幼なじみが浮かんでしまう。


携帯で話してる雰囲気でわかる。

気心の知れた、安心できる相手なんだろうな…



「ここにいたんですか…」


裕也専務がベランダにやって来た。



「…夜風に当たってました。お風呂上がり、暑くて…」


「今夜は少し冷えますよ」


大きいカーディガンが肩にかけられる。


裕也専務のものらしい服から、スパイシーな柑橘系の香りが、夜風に漂った…


…久しぶりに感じる香り…。

一緒にいすぎて、鼻が慣れちゃったのかな。


それとも、私にもその香りが移っていたとしたら…なんて考えてくすぐったくなる。




ふと、肩に置かれた手が離れた。

心地よい重みがなくなって、自分がとても軽くなってしまったように感じる。



部屋に入っていく裕也専務。


お風呂に入るからだろうに…その背中が離れていくのを、とても寂しい気持ちで眺めながら、肩にかけてもらったカーディガンをギュっと握りしめる。


さよならの時、私は笑ってここを出る事ができるのかな…と、ひどく不安に思いながら。




「君に、ちょっと相談があるんですが…」


珍しく…眉をハの字曲げて、お風呂上がりの裕也専務が近づいてきた。



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