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第74話

「なんだよこの手は…?!」


繋がれた手を持ち上げて、振り払う裕也専務。

沙希さんは悪びれもせず、傷ついた様子もなく、ニコっと笑った。


2人のやり取りよりも、沙希さんが言った「帰ってきた理由」というのが気になる。


裕也専務が早速聞いてくれた。



「…帰ってきた理由って、なんだよ?」


聞き返されて嬉しそうな沙希さん。

両手を背中に回して組みながら、胸を張った。



「裕也のおじさんに言われたのよ!…日本に帰って来れるなら、嫁にならないかって…」


「…はぁ?会長が俺に押し付けようとしてた縁談は、政略結婚じゃなくて、沙希だったのか…?!」


「…裕也、知らなかったの?」


2人が話している間に、スーツ姿の男性数人が、赤いスーツケースといくつかの紙袋をカートに乗せて近づいて来た。


沙希さんはそれに気づいて指示を出す。



「…ありがとう。そうね…今日はこのバッグ以外、全部家に運んでくれる?」


かしこまりました…と言って、男性たちはカートを押して離れていった。



「…おい、まさかと思うけど…お前今日…」


裕也専務が眉間にシワを寄せ、沙希さんを見る。



「なに?そのまさかよ?!」


またも悪びれなく…少しイタズラっぽく笑った。



「今夜は泊めてね、裕也!」


その顔は、私が見てもドキッとするほど無邪気で可愛らしい。



「…ふざけんな…!」


見慣れているのか、裕也専務は始終迷惑そうで困った様子だったけど…

きっと押し切られると予感した。



「…狭い部屋ね〜!?どうしたの、裕也!?」


予想通りマンションまで来てしまった沙希さん。


電車で来ていると聞いて、少し落胆していたけど、すぐに何か閃いたらしい。



「3年ぶりの東京だもの!電車を乗り継いでのんびり…っていうのもいいわよね?」


…ねぇっ?!と、強めに同意を求められ、頷くしかない私。


足元に置かれたバッグを手渡され…私は完全に付き人状態になった。



「…なにやってんだよっ!自分の荷物くらい、まだ自分で運べるようになってないのか?」


私の手から荷物を取り上げたものの…沙希さんに突き返しはしないみたい。


さすがに長旅を終えた幼なじみに、重い荷物を持たせるのは可哀想…とでも思ったのかな。


移動中、沙希さんが話しかけるのはもっぱら裕也専務にだけ。

私のことは、もしかしたら見えていないのか…それとも話しかける価値もないと思っているのか…


それでも…裕也専務が私の手を取って、恋人繋ぎをしてくれたから、私はそんなに寂しくならずにマンションまで帰ることができた。






狭い狭いと連呼していた沙希さん。

ベランダに設置されたテントに気づいた。



「なにこれ…!もしかして、私のために?」


「は?何の話だ?…帰国早々、お前をうちに泊めるなんて想定していないからな?」


…泊まる、というワードに、ちょっとビクッとしてしまう。


泊まっていくって言い出したら…この部屋のどこで寝るんだろう。


アメリカから帰ってきたばかりの人に、ラグで眠ってもらうのは忍びないし…もしかして裕也専務とベッドに寝たいなんて言い出したら…


それだけは…絶対に嫌だ…


でも、この沙希さんという人…

これまでの発言と態度で、びっくりするようなことをする可能性は十分ある。


私は注意深く2人の話の行方を見守った。




…口喧嘩みたいなバトルを見せながら、2人はよく喋っていた。


裕也専務は私を傍らに置いて、なぜかずっと手を繋いでいる。


私の居場所はここだと示してくれてるみたいで…嬉しい。


沙希さんも時間がたって、やっと私という人間を認識したのか、唐突に話題を振ってきた。



「キュビズムについて、あなたはどう思う?」


「…は?!きゅ、キューピ…」


絵画や芸術の話をしているのは聞いててわかったけど、突然の質問に、私の頭の中では3分料理番組のテーマ曲がかかった…



「複数の角度から幾何学的に分解して描く絵画技法。20世紀初頭に、ピカソやジョルジュ・ブラックから始まった、抽象的な表現方法だ」


スラスラ話す裕也専務。

料理番組の音楽が流れた私の脳内とは大違いだ…


「そうなの。抽象芸術の基礎を築いた人は他にも…」


沙希さんは裕也専務に絵画や芸術、美術について熱く語り始めた。


話の半分…いやほとんどは理解できない私は、当然蚊帳の外に放り出される。


話の合間に、裕也専務に言った。



「お茶でも…淹れてきます」


手を離してくれ、と伝えたつもり。



「一緒に行きますよ?」


…キッチンまで?

ギョッとしながらも、頬に熱が集まる。



「い…いえ、1人でお茶くらい淹れられますので…」


「…またクッキーとか焼き始めるんじゃないですか?、それともパンを焼くとか、プリンを作るとか」


…長く離れたくない…と、言ってるみたいな熱い視線にドキッとした。



「なに…?クッキーって、家で作れるの?食べてみたいなぁ!…できたてのあったかいやつ!」


沙希さんは私に熱い視線を送る裕也専務には目もくれず、手作りクッキーの方に興味を持ったらしい。



「クッキーは買え。…すぐ近くにコンビニがあるし、ちょっと先に焼菓子の専門店もあるから行ってこいよ」


裕也専務はあくまでも沙希さんに塩対応。



「えーっ!帰国したばっかりでまだ日本円持ってないもん!…そんなこと言うなら、裕也一緒に来てよ…!」


「…ガキなのか?」


めんどくせーとわめいていたが、結局腕を引かれて行く裕也専務。



私は焼菓子に合う紅茶を用意しながら、あることに気づいて…ふと大きなため息をついてしまった。


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