「なんだよこの手は…?!」
繋がれた手を持ち上げて、振り払う裕也専務。
沙希さんは悪びれもせず、傷ついた様子もなく、ニコっと笑った。
2人のやり取りよりも、沙希さんが言った「帰ってきた理由」というのが気になる。
裕也専務が早速聞いてくれた。
「…帰ってきた理由って、なんだよ?」
聞き返されて嬉しそうな沙希さん。
両手を背中に回して組みながら、胸を張った。
「裕也のおじさんに言われたのよ!…日本に帰って来れるなら、嫁にならないかって…」
「…はぁ?会長が俺に押し付けようとしてた縁談は、政略結婚じゃなくて、沙希だったのか…?!」
「…裕也、知らなかったの?」
2人が話している間に、スーツ姿の男性数人が、赤いスーツケースといくつかの紙袋をカートに乗せて近づいて来た。
沙希さんはそれに気づいて指示を出す。
「…ありがとう。そうね…今日はこのバッグ以外、全部家に運んでくれる?」
かしこまりました…と言って、男性たちはカートを押して離れていった。
「…おい、まさかと思うけど…お前今日…」
裕也専務が眉間にシワを寄せ、沙希さんを見る。
「なに?そのまさかよ?!」
またも悪びれなく…少しイタズラっぽく笑った。
「今夜は泊めてね、裕也!」
その顔は、私が見てもドキッとするほど無邪気で可愛らしい。
「…ふざけんな…!」
見慣れているのか、裕也専務は始終迷惑そうで困った様子だったけど…
きっと押し切られると予感した。
「…狭い部屋ね〜!?どうしたの、裕也!?」
予想通りマンションまで来てしまった沙希さん。
電車で来ていると聞いて、少し落胆していたけど、すぐに何か閃いたらしい。
「3年ぶりの東京だもの!電車を乗り継いでのんびり…っていうのもいいわよね?」
…ねぇっ?!と、強めに同意を求められ、頷くしかない私。
足元に置かれたバッグを手渡され…私は完全に付き人状態になった。
「…なにやってんだよっ!自分の荷物くらい、まだ自分で運べるようになってないのか?」
私の手から荷物を取り上げたものの…沙希さんに突き返しはしないみたい。
さすがに長旅を終えた幼なじみに、重い荷物を持たせるのは可哀想…とでも思ったのかな。
移動中、沙希さんが話しかけるのはもっぱら裕也専務にだけ。
私のことは、もしかしたら見えていないのか…それとも話しかける価値もないと思っているのか…
それでも…裕也専務が私の手を取って、恋人繋ぎをしてくれたから、私はそんなに寂しくならずにマンションまで帰ることができた。
狭い狭いと連呼していた沙希さん。
ベランダに設置されたテントに気づいた。
「なにこれ…!もしかして、私のために?」
「は?何の話だ?…帰国早々、お前をうちに泊めるなんて想定していないからな?」
…泊まる、というワードに、ちょっとビクッとしてしまう。
泊まっていくって言い出したら…この部屋のどこで寝るんだろう。
アメリカから帰ってきたばかりの人に、ラグで眠ってもらうのは忍びないし…もしかして裕也専務とベッドに寝たいなんて言い出したら…
それだけは…絶対に嫌だ…
でも、この沙希さんという人…
これまでの発言と態度で、びっくりするようなことをする可能性は十分ある。
私は注意深く2人の話の行方を見守った。
…口喧嘩みたいなバトルを見せながら、2人はよく喋っていた。
裕也専務は私を傍らに置いて、なぜかずっと手を繋いでいる。
私の居場所はここだと示してくれてるみたいで…嬉しい。
沙希さんも時間がたって、やっと私という人間を認識したのか、唐突に話題を振ってきた。
「キュビズムについて、あなたはどう思う?」
「…は?!きゅ、キューピ…」
絵画や芸術の話をしているのは聞いててわかったけど、突然の質問に、私の頭の中では3分料理番組のテーマ曲がかかった…
「複数の角度から幾何学的に分解して描く絵画技法。20世紀初頭に、ピカソやジョルジュ・ブラックから始まった、抽象的な表現方法だ」
スラスラ話す裕也専務。
料理番組の音楽が流れた私の脳内とは大違いだ…
「そうなの。抽象芸術の基礎を築いた人は他にも…」
沙希さんは裕也専務に絵画や芸術、美術について熱く語り始めた。
話の半分…いやほとんどは理解できない私は、当然蚊帳の外に放り出される。
話の合間に、裕也専務に言った。
「お茶でも…淹れてきます」
手を離してくれ、と伝えたつもり。
「一緒に行きますよ?」
…キッチンまで?
ギョッとしながらも、頬に熱が集まる。
「い…いえ、1人でお茶くらい淹れられますので…」
「…またクッキーとか焼き始めるんじゃないですか?、それともパンを焼くとか、プリンを作るとか」
…長く離れたくない…と、言ってるみたいな熱い視線にドキッとした。
「なに…?クッキーって、家で作れるの?食べてみたいなぁ!…できたてのあったかいやつ!」
沙希さんは私に熱い視線を送る裕也専務には目もくれず、手作りクッキーの方に興味を持ったらしい。
「クッキーは買え。…すぐ近くにコンビニがあるし、ちょっと先に焼菓子の専門店もあるから行ってこいよ」
裕也専務はあくまでも沙希さんに塩対応。
「えーっ!帰国したばっかりでまだ日本円持ってないもん!…そんなこと言うなら、裕也一緒に来てよ…!」
「…ガキなのか?」
めんどくせーとわめいていたが、結局腕を引かれて行く裕也専務。
私は焼菓子に合う紅茶を用意しながら、あることに気づいて…ふと大きなため息をついてしまった。