小学三年生のある時期まで、俺は確かに神童だった。
勉強以外の何をやってもうまくいったのを覚えている。特に、勝負ごとにおいては顕著だった。
小さい頃はまだ両親が優しくて、色々な習い事をさせられたのだ。
ゲーム。スポーツ。武道。ボーイスカウトなんかもこの一環だった。
例えば、ゲーム。よく覚えているのは将棋だったかな。
『……参りました』
『やったぁ勝ったぁ!』
師匠だか何だか、という人と初めて対局して、楽しかったのを覚えている。
当時は駒の動かし方も覚えたてて、アレ以来さして将棋を指しても来なかったが……「あ、この人こうしたら困るんだろうな」という事をしたら勝てたので、気持ちが良かった。
勝負事は、基本的にこれだけだった。俺は昔から性格がひどく悪くて、人の困るようにしていたらうまくいく、と肌で分かっていた。
『タクにボール渡すな! 絶対だからな―――あっ』
『いぇーい』
スポーツも同様だ。
サッカーでは、隙だらけだった奴からひょいとボールを奪って、あとは動きの悪い奴の横をマイペースにドリブルするだけで勝てた。
武道は……ちょっと良くなかった。何が良くなかったって、俺の性格の悪さに拍車がかかったことだ。
『タク! お前、手加減しろって言っただろう!?』
『何で? こういうルールじゃん』
試合に出ると、俺の相手は大抵何かケガをした。
俺がダーティプレイをした、ということではない。ただ、俺が体重の乗せ方を分かっていただけだ。俺はあくまでもルールの上で戦っていた。
けど、それでも同世代の相手には、ちょっと重すぎた。
こめかみを狙った拳は相手を昏倒させた。胴体狙いの蹴りで、内臓破裂からの入院となった相手もいた。最後には不戦勝で大会を優勝した。
その頃から、親との仲が悪くなり始めた。
俺は当時親が好きだったから、どうにかしてまた優しい両親に戻って欲しかった。
『な、何ですかあなたたちは!』
『あー? だから言ってんだろ? 金だよ金! ここを通りたいなら財布落としてけっつってんだよ!』
だから、路地裏で家族ともどもチンピラに絡まれたときは、「こいつらを倒せばパパとママも喜んでくれる!」と喜び勇んだのだ。
『うすぎたねーチンピラが、イキってんじゃねぇよ』
『あぁ!? テメ舐めてんじゃねぇぞガキィ!』
まず俺は、チンピラ二人を挑発した。子供にも拳を振るうようなクソヤロウだったのが良かった。
俺は柔道の要領で、チンピラの攻撃を掴んで誘導し転ばせ、その顔を強かに壁に打ち付けた。
頭を掴んで壁に押し付け、ガリガリ顔面を削ってやると、悲鳴を上げた。
悲鳴を聞けば、その程度で分かるのだ。心が折れたかどうかが。
そして、あらゆる戦いは、結局心が折れたかどうかが勝敗に関わってくる。
『ガァッ! ギャァアアアアア!』
『はぁっ!? テメ、ガキィイイイ!』
二人目も同じだ。デカくて強い相手にぶつかるのは悪手。だから敵の力を利用して、敵が自分で転ぶように差配する。
あとはその辺で拾った石を持ち、顔を何度もぶん殴れば勝てた。小三の力でも、握りこんだ石の殴打は、チンピラの戦意を折るのに十分だった。
分かったのだ。こいつらが自分よりも弱いと。分かっていたから、怖くなかった。
そうやって俺は、チンピラ二人を軽く倒した。当時、小学三年生だっただろうか。
その辺りで、騒ぎが大きくなって周辺に人が集まり始めた。だから俺は、トドメとばかり大泣きした。
それで完全決着だった。大泣きしている子供と、血まみれで倒れている大人。周りはチンピラの自滅を信じ、俺と家族を守った。
喜んでもらえると思ったのだ。両親に。「守ってくれてありがとうね」と言われると思った。
だが、振り返って見た親の顔は、引きつっていた。
それ以来、俺は両親の笑った顔を見たことがない。
それまで通っていた習い事は全部やめさせられた。代わりに塾に行かされるようになった。
塾は退屈で、苦痛だった。勉強は苦手……というか、興味が持てないのだ。
だから何度もやめたいと伝えた。けど親は、頑として頷かなかった。
『タク。お前は普通の人生を歩むんだ。お前は、特別じゃないんだから』
俺はその意味が当時分からなかった。自分は特別で、天才だと信じていた。
だが、親は何度も何度も、毎日のように俺に言った。
『お前は特別じゃない。だってそうだろう? 普通に勉強して、普通に成績を上げることもできない』
俺の、やる気のない答案用紙をかざし、親は言った。
『普通ができないお前が、特別であるものか。お前は普通すらできないんだ。特別じゃない、普通……いいや、それ以下なんだ』
―――悔しければ、まず普通になってみろ。親は俺にそう言い聞かせた。
俺は歯を食いしばって「普通」に挑んだ。だが欠片もできなかった。
勉強はやればやるほど成績を落とし、習い事をやめ部活も許されなかった俺は、着々と凡人以下になっていった。
周りにいた友達は冷めた目で俺から遠ざかり、周りには
そして小学生を卒業し、中学生になるころには、俺は悟った。
『そうか。俺は、普通すらできないようなやつだったんだ』
ポッキリ、心が折れてしまったのだ。
『特別なんかじゃ、なかったんだ』
それからの人生は、語るべきこともない。
勉強机に噛り付いてもFラン大学。親の口利きで入った会社でも役立たず。最後にはドロップアウトして四年間のニート生活。
くだらない人生だった。八歳までの輝かしい日々をいまだ宝物のように抱える、みすぼらしい三十手前の無職男。
それが俺の半生。今の俺の、カスみたいな実態。
俺が、人が嫌がることを見抜くのが上手いだけのダメな奴だったというだけの、くだらない昔話だ。
ぼたんは、俺の語りを聞き終え、口を開いた。
「それを私に伝えて、どうしたかったの?」
ぼたんは、俺に問う。俺は焚き木を見ているから分からないが、ぼたんは、何となく怒っている気がする。
「……ぼたんが、こんなオッサンに夢見てそうだったからさ。大人として、釘刺しの一つでもしといてやんねーとなって。ほら、これで幻滅したろ?」
―――ぼたんは、最近俺に懐き過ぎだった。よく分からない買いかぶり方をしていた。
俺は、それが怖かった。実態の俺は、そんな格好いい何者かではない。
何者にもなれなかった……どころか、普通にもなれなかったのが俺なのだから。
だから、いずれ大きく見損なわれる前に、自分の手で幻滅させようと思った。それが一番、いいと思ったのだ。
だが、ぼたんは言う。
「なら、失敗もいいところだね」
「……ぼたん?」
「タク、私は、今の言葉で確信したよ。それに、分からないことも、たくさん分かった」
俺が、焚き木から顔を上げ、ぼたんを見た。
ぼたんは、ルビーのような赤くきれいな瞳で、俺をまっすぐに、鋭く見つめている。
「タクが、何で『タクはすごいんだよ』って教えても、絶対に信じないのかが分かった」
「……何言ってんだ? 信じるも信じないも、そもそも俺は普通以下の」
「信じたくないんだね。タクは、信じたくないの」
ぼたんが、目を細める。
「膨大な才能を、普通に固執する親に腐らされて、惨めな今を送ってるって、信じたくない」
「っ」
俺は、ぼたんの言葉に、心臓を掴まれたような気持になる。
「……やめてくれ。そんなお為ごかし、聞きたくない」
「奪われたって、思いたくないんだよ、タクは。それなら、最初から何もなかったって思いたいの」
「ぼたん、マジで、もういいから」
「奪われたらもっと辛いから。親を今以上に恨みたくない」
ズキン、と頭痛が走る。頭が、万力で締め付けられるように痛い。
「だから……、やめろって……ッ」
「タクは、何にでもなれた。普通以外の何にでも。プロ棋士でも、スポーツの世界でもなれた。自衛隊とか、戦う道だってあった」
鼓動がうるさい。ぼたんの言葉を、全身が拒否している。聞いているのに、まともに頭に入ってこない。
「ぼたん、もういいだろ……ッ。お前の中二病に、俺を巻き込むなって……ッ」
「何を選んでも、あなたは頂点に立てた。なのに、ニートなんて言って最底辺で燻ってる」
「もういい、もういい、から……ッ」
「本当は、タクは自分の才能を分かってる。けど、分からないふりをしようとしてるの」
「ぼたん、もう……ッ!」
「だから誰が何と言っても聞き入れない。でしょう? それはね、タクが親を、自分の憎しみから守ろうとしてるからなんだよ」
「―――だからッ! もうやめろって言ってんだろ!」
俺は限界になって、ぼたんに叫んだ。
か弱い女の子なら、大の男に怒鳴られれば怯むはずだった。
だが、ぼたんは欠片も怯まない。
慣れたことのように、泰然として、俺を見つめている。
「タク」
ぼたんが、俺を呼ぶ。
「あなたが、私を怪物じゃないって言ってくれて、私ね、本当に嬉しかったんだ」
けど、とぼたんは続ける。
「それでも、私は怪物だよ。怪物、化生院 牡丹。タクから見て、私が怪物に見えないのは―――あなたが、私以上の化け物だから」
ぼたんが、俺に手を差し伸べる。
「私はね? タク。あなたとなら、どこまでも堕ちていきたい。一緒に、冥府魔道の最奥まで駆け抜けたい」
「ぼたん、お前、何言って……」
「街でバウンティーハンターに出会って、私たちはそれを殺してしまった。私の場所は、そろそろ割れる。また追われる生活が来る」
それを聞いて、俺はゾッとする。あの二人を殺したのは俺だ。ならば、これから俺は奴らに追われるように―――
だが、俺の心を読んだように、ぼたんは微笑む。
「タクは、追われないよ。恨みは買っただろうけど、懸賞金をかけられるほどじゃない。私の悪名が少し高まる程度。引きこもっていれば大丈夫」
「……そう、なのか?」
「うん。だから、逃げなきゃいけないのは、私だけ。少し前までは、そこでお別れにするつもりだった。でも―――」
ぼたんは、宝石みたいな瞳で、真摯に俺を見つめた。
「今は、違う。タクに、一緒に逃げて欲しい。タクを守りたいし、タクに守られたい。あなたと一緒に、私は生きたい」
ぼたんは立ち上がる。改めて、俺に大きく手を差し伸べる。
「あなたと一緒に、怪物になりたいの。二人きりの、怪物に」
俺は、その姿に、ごくりと唾を飲み下す。
ひどく、ひどく美しい姿だった。闇夜の中、焚き木のぼんやりとした光に照らされて、真っ白な容姿と真っ赤な瞳が、まるで吸血鬼のように、俺の前で佇んでいる。
この手を取ったら、俺の人生はがらりと変わる。それを、俺は直感した。
俺はそれに、手を――――
轟音が、響く。
「ッ!」
「っ。な、何。この音。じ、地震……っ?」
地面が揺れる。何かが近づいてくる。俺はそれに、鋭く言った。
「二つ目だ」
「えっ?」
「俺がここに来ようって言いだした、二つ目の理由。家だと、
俺は空を見上げる。闇夜の中では、山しか見えない。だが、分かる。そうと分かって見れば、ハッキリしている。
「……山が、動いてる……?」
「そうだ。アレだ。あいつが、俺に嫌な気配を抱かせたんだ。にしても、まさかここまでデカいとは」
恐怖が、全身に走っている。一般人でも倒せるザコゴブリンの時とは比べ物にならないほどの、本物のモンスターの恐怖が。
とはいえ、あの時はガチガチに動けなくなったが、今は違う。今まで野生動物と戦ってきた経験値が、俺の中に息づいている。
ぼたんが、ハッとして言った。
「そういえば、SSS級のモンスターの話は、噂程度に聞いてた。けど、こんな、なの? 山と見間違えるくらい、大きいの……?」
「ぼたん、この話は一旦後だ。どう転んでも、あいつをどうにかしないと始まらない」
俺はバールと傘を構える。我ながら滑稽だが、それ以上にできることがない。
そして、木々を足で分け入って、闇夜の中に、それは現れる。
中二病のぼたん曰く、SSS級モンスター。少なくとも、俺の出会った中では、唯一
ぼたんが、歯噛みしながら、その名を呼ぶ。
「山王、オオヤマノアラミタマ」
見上げるほどの化け物が、咆哮を上げる。