船着き場に停泊していた船のうち、最も目的に適う、小型で足の速いボートを確保したグレンは――。
エンジンを始動させ、いつでも出られるようにして、カインたちを待っていた。
洞窟のように岩場をくりぬいて造られてある船着き場から、舵輪にもたれかかり、温水ゆえにゆらゆらと湯気の立つ湖面を眺め……。
今後についての考えを巡らせていた彼は、端末が呼び出しをかけてきたことに気付くや、ようやくか――とすぐさま回線を開く。
『……グレン! ボートは!』
映像のない、音声だけの通信――。
だが、カインの切羽詰まった声と、それに混じり合う水音が……。
充分過ぎるほど充分に、向こうが非常事態にあることを告げていた。
「――確保してある。そっちは」
『城の裏手、庭園側の方へ急いで来てくれ! 頼む!』
「すぐに向かう、少しだけ待っていろ――!」
答えるが早いか、グレンは端末を舵輪の側に放り出し、急加速でボートを発進させた。
白波を蹴立てて湖に飛び出たボートは、転覆するのではないかというほどに船体を傾かせながらの急旋回で船首を目的地へ向け、さらに加速する。
――目的地へはあっと言う間だった。
そこに、泳ぐとも言えないような速さで、沖へ向かってゆっくりと漂う人影を見出したグレンは――すぐさまボートを側に付け、手を差し延べる。
「おい、いったい何があった――!」
カインが立ち泳ぎをしながら必死に抱え上げていた兄妹を、まず真っ先にボートに引き上げて――。
そして、左腕を切断されたノアの姿に、グレンは絶句する。
最後に、自らボートをよじ上りながら……カインは言葉少なに、ライラの奇襲から彼をかばった結果であることを告げた。
口調こそ淡々としていたが……。
固く唇を噛むその姿に、グレンはカインの無念を見て取る。
ひとまず岩壁から離れ、沖に出るようボートを操作すると、グレンは船内の簡易ベッドからシーツを引きはがし、カインとともにノアに応急処置と止血を施す。
かつて戦場に出ていたとき、仲間の兵士を、ろくにない物資を何とかやりくりして同じように手当てしていた記憶が、ふと彼の脳裏を過ぎった。
――このままでは長くは保たないという、非情な経験則とともに。
……寒い。
とにかく、どうしようもなく、寒い。
それも、単なる寒さじゃない。
身を凍えさせるどころか、掻き消してしまいそうな寒さ。
命という、人間の最大の熱を……。
根元から覆い、削り、奪っていく――本物の寒さだ。
むしろ最初は、焼け付くような熱い痛みに、気も狂いそうだった。
けれどそれも今にして思えば、まだマシだったのだ。
痛みという熱があるうちは、人はまだ生きているのだから。
しかしそれが消え去れば、否応なく人は対面せざるをえない。
身近に、はっきりと予感せざるをえない――。
そう、かつて親鳩に、ヨシュアに見た――。
その影…………即ち『死』を。
そこに大切な意味があることを理解し、いずれ自分に降りかかることを納得し、受け入れたつもりだった。
だが――それでもまだ、甘かったのだと思い知らされた。
(怖い……怖い……怖い)
涙が止まらない。嗚咽が止まない。
こんなに怖いなんて思わなかった。
こんなに冷たいなんて知らなかった。
(怖い……イヤだ。
死にたくない……死にたくない……っ!)
これまで散々に大見得を切っておきながら、何てみっともない――と、冷静なときなら考えただろう。
しかしそんな余裕すらなく、あふれる感情が、剥き出しのまま口をついて出る。
「……それなら……
姿こそおぼろげながら……グレンのその言葉だけは、はっきりと耳に届いた。
死に至る苦しみが、これほどに恐ろしいものと思い知らされた今――。
その恐怖から解放される『不老不死』という響きは、これまで否定していたことがバカバカしくなるほどに甘美だった。
――助けて……と。
縋り付く思いで生まれた、その一言は……。
しかし、形を取って外に出る前に、喉の途中で掻き消えた。
自分に覆い被さって泣きじゃくる、妹の真っ直ぐな瞳が――反射的に思い止まらせた。
……ノアの唇は、確かに助けを求めようとしていた。
しかし自らの意志で呑み込んだのか、それとも混濁する意識に力を奪われただけなのか――。
ともかく、それをはっきりと言葉にすることはしなかった。
そして、ノアの側を離れ、操舵に戻ったグレンは……。
当初の予定とは逆になる北へと、ボートの進路を向ける。
「……グレン、南に戻るのではなかったのか?」
そのことに気付いたカインが視線を向けると、グレンは険しい表情を返す。
「南のエレベーターは……ライラの部下の話を聞くに、どうやら、万一城を脱け出されたときの予防線として、乗り込むとそのまま崩落するように細工されたらしくてな。
初めから壊すのを前提にした仕掛けとなると、戻せるかどうかも分からん。使うのは諦めるしかない。
それに――今はともかく、その小僧を助けるのが先決だろう。
このままだと、洗礼で不凋花を受け入れるにしても、それまで命が保たん」
「アテが……あるのか?」
縋るようなカインの問いに、否定も肯定もせず――。
グレンは、舵輪側に置いていた端末を取り上げた。
「……ええ、グレンです。
夜分恐れ入りますが……大至急、あなたにお願いしたいことが出来まして。
ええ、他の誰でもない、あなたにです――――