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Ⅰ 地獄へ


 ……それは、難病を患う娘の治療費のため、軍を退役し、世界を転戦する傭兵となってから3年目の夏の日のことだった。


 東欧の民族紛争に駆り出される予定だった私は、現地へ向かう途中……とある小さな古都で一人、雇い主から呼び出しを受けた。


 奇妙に思いながら、指定された小さな酒場に向かった私を待っていたのは、雇い主の政府の人間ではなく――僧服を纏った、一人の宣教師だった。


 訝しむ私に、その男はスポンサーとしての立場を利用し、雇い主を通して私にコンタクトを取ったのだと説明した。



「あなたのその素晴らしい才能を、我々のために役立てていただきたいと思いまして」



 そう言って、男は笑顔を浮かべた。


 満面の、一見、人懐こい――。

 しかしその実、まるで心の通わない……作り物にも劣る、不実極まりない笑顔を。



「そのたぐまれな――人を殺める才能をね。

 ええ、兵士として、ではなく」



 男は胸の悪くなる笑顔のままに、ポケットから取り出した1枚の写真を差し出す。


 そこに映っていたのは――。

 今入院している病院のものとは別の、まったく見覚えのない病室で眠る、娘――オリビアの姿だった。



「――貴様……ッ!」



 激昂のまま思わず立ち上がりかける私を、対照的に穏やかな表情で片手を挙げて制し、男は……。

 その服装通り説法でもするかのように、落ち着いた声色で話を続けた。


「娘さんには、ぜひ世界最高峰の治療を受けてほしい――と、思いましてね。

 我々の所有する病院に転院していただいた次第でして。

 ……ええ、事前に、父親であるあなたの許可を取らなかったことは、我々も大変申し訳なく思っているのですが」


「何だと……貴様、よくも――ッ!」


「ああ、お気になさらずとも、治療費はもちろんのこと……。

 娘さんだけでなく、あなたの衣食住のすべても我々が引き受けます。

 ええ、生活には一切不自由させませんとも。

 もっとも……それもあなたが、我々の下で仕事をしてくださるなら――ですが」



 いかに怒りに拳を握り締めようとも。

 いかに悔しさに歯を噛み締めようとも……。


 私はそれを、相手に叩き付けることは出来なかった。



 ――当然だ。


 そのやり場のない感情の矛先は、誰よりも……。

 不甲斐ない私自身にこそ、向けられていたのだから。



「さあ……いかがです?」



 ……私の中の理性は、私に苦渋の決断を求めていた。

 たとえオリビアを喪おうとも、この男の提案にだけは耳を貸してはならない――と。


 この男は、決して這い上がることの出来ない、底無しの地獄へ誘い込もうとしている。

 自分が人としての、最低限守るべき道を守りたいなら……。

 決して、ここで情に流されてはならない――と。


 だが、私は――



「……私は、何をすればいい……」



 私は、それほどに強い人間ではなかった。


 娘が、現代医学では決して治る見込みがないと言われた難病で――明日をも知れぬ命だとしても。

 見捨てることなど……出来るはずも、なかった。


「なに、あなたには造作もないことですよ。

 先に申し上げたでしょう? 才能を役立てて欲しいと。

 今まで通り、人を殺めてもらいたいだけです。

 ただし――。

 これからは戦場で敵対する兵士に限らず、老若男女の隔たりなく……。

 我々が指示する相手を確実に、という形になりますがね」


 言って、男は再び、あの不実な笑みを浮かべた。


 それが、魂を地獄へ突き落とす悪魔の笑みだと理解していながら、私は――。


 愛する妻を亡くして以来、心の支えだった娘の命と引き換えに。

 己の、エゴのためだけに。



 私は、悪魔にこうべを垂れ――そして。


 〈原初の殺人者カイン〉という烙印を、与えられた。



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