昨晩、夜遅くまで塾の仕事を部屋でしていた要は、そのまま机に突っ伏した状態で眠っていた。そんな要を呼ぶ人物がいる。
「要さん。朝だよ。起きて……」
「うん……」
うっすらと目を開けると、赤いエプロンに身を包んだ壮太が目の前にいた。
「あれ、壮太君。どうしてここに?」
「なに寝ぼけてるんですか! 俺たち、同居始めたばっかりなのに!」
「ええ!」
驚いて我に返る。
そうだ。数日前から要は壮太と共に同居生活を始めている。そして、こうやって風呂にも入らず机で寝てしまう要を起こすのも壮太の日課になりつつあった。
壮太の眉が心配そうに垂れ下がる。
「ちゃんとベッドで寝てくださいよ。風邪ひいちゃいますよ」
「はは。ごめん。でも、大丈夫だから……。くしゅん!」
壮太が心配している傍から、要は悪寒を感じて盛大なくしゃみをしていた。
「ほら、いわんこっちゃない。朝ごはん、出来てますからしっかり食べてくださいね」
「ああ、わかった!」
ずびっと出てきた鼻水をすすって、要は椅子から立ち上がる。そのさいにふらりと立ち眩みを覚えて、よろけそうになった。壮太がそんな要を支えてくれる。
壮太の手は、要の額へと伸ばされていた。
「あの、ちょっと熱っぽいですけど平気ですか?」
「平気。こんなのいつものことだから。仕事してれば治るよ」
「でも……」
「支えてくれてありがとう。もう、平気だから」
要が体勢を立て直すと、壮太が要の体から手を放す。
要は彼に微笑む。でも、壮太はなんだか浮かない表情を浮かべたまま何も言わない。そんな壮太を見て、要は苦笑していた。
「ごめん。また、君の気に障ることをしたかな?」
だが、壮太は要から顔を逸らして目を合わせようとしない。
「いえ、なんでもありません。朝ごはん出来てますから」
そう固い声音で言葉を放って、壮太は部屋を出ていく。ドアが閉められた音を聞き届け、要は口を開いていた。
「なんか、思ってたのと違うな……」
壮太との同居は楽しいものになると思ったのに、ここ数日の彼との関係はなんだかぎこちない。
所詮は他人同士なのだし仕方ないと思っても、要は妙に寂しい気分になるのだった。
「お! 彼氏君の愛妻弁当か⁉」
塾のお昼休み、オフィスで壮太の作った弁当を食べていた要は小林に声をかけられた。小林もまた、弁当の入った包みを片手に要のディスクの前に椅子を持ってくる。
どかっとその椅子に座ると、小林は弁当の包みを要の前に置いた。
「αさんの彼女さんが作ってくれたお弁当?」
「そう。朝5時に起きてメッチャ豪華なの作ってくれた!」
幸せそうに小林がニカッと笑う。
「お前が俺の初恋の相手だってわかってて、そういうこと言うの?」
「張り合ってるんだよ。お前だって、毎日のように手作り弁当持ってきてるじゃないか!」
はぁっと呆れてものが言えない。要はため息をついていた。すると、小林がつまらなそうな表情を浮かべる。
「なんだよその顔。俺は、お前とやり合うつもりなんてないぞ」
「いや、それはそれでいいんだけど……。あんまり、深入りするなよ」
「あ……」
じっと小林に見つめられ、要はドキッと心臓が高鳴るのを感じていた。小林の顔が目の前にある。彼に恋していたのはずっと前なのに、見つめられると今でも胸が高鳴ってしまう。
そんな自分の気持ちを悟られまいと、要はそっと彼から視線を逸らしていた。
「わかってるよ。そのくらい……」
でも、と心の中では思う。
何にでも一生懸命で、そして自分で何とかしようとする壮太はどこか危うい部分がある。そこから要は眼を逸らすことができないのだ。
そして要の通う塾にはそんな子供たちが大勢いる。
「塾の子供たちのこともそうだけどさ、お前は他人に時間を割きすぎだ。もっと、自分のことだって考えていいんじゃないか?」
「ごめん。したくても、できないよ。それは、お前がよく知ってるだろう」
小林の言葉に要は苦笑していた。
この同僚は自分がかつて酷い目に合ったのに、それを引きずっていることをまだ理解してくれない。そして、この塾にはそんな自分と同じような目に遭っている子供たちがたくさんいる。
「Ωだから高校を卒業したら、名家のαの共にと告げ。αだから、院まで行ってこの国の未来のために尽くせ。βは平凡な下僕としてαに仕えろ。それが、この国の常識だよ」
要の苦笑はいつのまにか嘲笑へと変わっていた。それを見つめる小林が悲しそうな表情を浮かべる。
「でも、お前は自分を犠牲にしてそれに抗ってどうするんだ」
「せめて、子供たちには俺と同じ道を歩んでほしくないんだ」
すっと眼を細めて、自分の思いを口にする。
「わかってるよ。でも、自分を犠牲にするのはバカのすることだぞ」
「それもそうだな」
小林の言葉に苦笑する。すると小林は、弁当包みにくるまれていた栄養ドリンクを要に差し出した。
「どうせ今日も、生徒の悩みでも聞いて夜遅くまで残るんだろう。ほら、これやるよ」
「ありがとう! 愛してるよ! 小林!」
満面の笑みで要は小林からドリンクを受け取る。
すると小林は苦笑しながらこういうのだった。
「ごめんな。俺が愛してるのはαの彼女だけだ」
「わかってる。彼女に専業主婦ちゃんとやらせてやれよ」
「俺がβじゃなきゃ、その夢もとっくに叶えて、彼女と籍も入れてるんだけどな」
はぁと小林がため息をつく。
そんな小林を見て、性による社会格差の壁は厚いと要はつくづく思うのだった。
その日の夜も、要は進路に悩むβの生徒の悩みを聞いていて帰宅が遅れてしまった。
「ちょっと、もう夜の11時だよ。壮太君、とっくに寝てる……」
マンションに向かう道を歩きながら、要はスマホで時刻を確認する。今日は早めに帰宅して、壮太に勉強を教えるはずだった。その約束を破ってしまった。
「壮太君、怒って寝ちゃってるよね……」
マンションの前まで来た要は、そう呟いて自分の部屋を見つめる。
次の瞬間、要は大きく目を見開いた。
自分の部屋の明かりがついている。
「壮太……くん……」
壮太が自分を待ってくれている。
それがわかったとたん、要は駆けだしていた。
「ただいま!」
「ちょ、どうしたんですか! 慌てて!」
慌てて帰って来ると、壮太が驚いた様子で玄関まで来てくれる。それを見て、要は安堵にため息をついていた。
「よかった。出迎えてくれた」
「そりゃ、一緒に住んでますし」
「でも、もう夜の11時過ぎだよ……。ごめんね、約束破っちゃって」
要は壮太にすっと頭をさげていた。
そんな要から壮太は照れ臭そうに視線を逸らす。
「いや、お弁当。美味しかったか気になって……。それで眠れなかったんです」
「壮太君……」
「そういうことです。はい……」
気まずそうに要に視線を戻し壮太は告げる。そんな壮太を見て、要は苦笑していた。
そして、あの言葉を言う。
「ただいま。壮太君」
壮太も笑顔で応えてくれる。
「お帰り。要さん」
そんな壮太の言葉が要は何よりも嬉しかった。