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第2章 惹かれていくばかりです

第8話 婚約解消に向けて

 実咲は駅前のロータリーで迎えに来た白いセダンに乗った。普段は祖父母の運転手をしている五十代の小島こじまに「お疲れさまです」と労われた。


 車は閑静な住宅地に入っていく。ひときわ大きいコンクリート塀で囲まれた家の門が開き、敷地内へと進む。

 玄関前に車を停車させた小島が降りて、後部座席のドアを開けた。実咲は脇に置いていたバッグを持つ。


「どうぞ」

「ありがとうございます」


 実咲が降りると、玄関のドアが開いて祖父の山城やましろ久雄ひさおが姿を現した。


「実咲、お疲れさま。仕事帰りで疲れただろう?」

「ううん、大丈夫だよ」

「さあさあ、入って。ご飯、食べよう。実咲の好きなビーフシチューができているよ」

「わあ、嬉しい!」


 会社の社員には厳しい態度を見せる祖父だが、孫にはとても甘い。久雄は二か月前の喜寿のお祝いで実咲がプレゼントした茶色のハンチング帽子を被っていた。

 会う人に「孫からもらったんだ」と自慢している帽子で、実咲が来るときには絶対に被っている。


 ダイニングルームには、祖母のほかに二人の老夫婦がいた。

 葵人の祖父の高見澤紀之のりゆきと祖母の佳子よしこだ。


「実咲ちゃん、こんばんは」

「こんばんは」


 祖父母以外に人がいると思っていなかった実咲はにこやかに挨拶を返すが、内心戸惑っていた。

 前もって話してくれたら、心の準備ができたのに……。

 実咲の祖母の真佐子まさこが口を開く。


「葵人くんも呼んだんだけど、今日は用事があるそうなの」

「そうなのね……」


 実咲は答えながら、顔が引きつった。

 葵人の用事は、舞美と会うことだ。慌てた様子で帰った葵人を思い出すが、先ほど会ったとは話せない。

 顔を引きつらせる実咲が悲しげに見えたようで、佳子が謝った。


「ごめんなさいね。なにがなんでも連れてこようと思ったんだけど、仕事だと言われたの」

「いいえ、お仕事を優先するのは当然です。葵人くん、忙しそうですものね」


 実咲と久雄は椅子に座り、お手伝いさんが持ってきたおしぼりで手を拭いた。久雄の被っていた帽子は、隅に置いているポールハンガーに掛けてある。

 佳子が明るい声を出す。


「実咲ちゃんは、気遣い上手で本当に優しいわ。葵人にはもったいないくらいかわいいし」


 孫を褒められて、久雄が嬉しそうに目尻を下げた。


「この子は本当に優しい子でね。でも、葵人くんも優しいし、立派に育っているではないか。二人はいい夫婦になりそうだ」


 実咲以外の全員が久雄の言葉に同意して、うんうんと笑みを浮かべる。

 葵人は実咲の婚約者だ。決めたのは、お互いの祖父だった。それも二人が七歳と四歳のときに……。

 その頃の葵人は実咲にとって、頼りになるお兄ちゃんだった。それは大きくなっても変わらなかった。葵人には年が離れた妹がいるが、実咲は一人っ子だ。

 そのため、頼りになる葵人を慕った。しかし、葵人が優しいのは家族の前だけで、実咲と二人だけになると素っ気なかった。義務的に言われたことはやるが、面倒くさそうにしていた。


 そういったこともあり、実咲が葵人に恋愛感情を抱いたことは一度もない。

 葵人も同じだ。だが、お互い好きではないけれど嫌いでもない。だから、婚約者として何年も過ごしてきたのだ。

 家族の集まり以外で、会うことはほとんどなかったが。


 実咲には今、好きな人がいる。婚約者のいる身で気持ちを誰にも打ち明けることができず、ひそかに三年ほど想いを募らせていた。

 婚約解消などできないと思っていたが、やっと解消できる機会が訪れそうだ。きっと近々、葵人がアクションを起こしてくれるに違いない。


 実咲は自分がなにもできずにいたことを不甲斐なく思うが、葵人の行動がよい方向にいくことを願った。

 葵人は舞美との未来のためにがんばると意気込んでいた。実咲も自分が希望する未来を得るために葵人を援護しようと心に誓う。


「実咲……実咲、おい、聞いてるか?」


 祖父に呼ばれて、実咲はハッと食べていた手を止める。みんながなにかを話していたが、まったく聞いていなかった。


「あ、ごめんなさい。ビーフシチューが美味しくて、ふわふわしてた」

「ふわふわって、もう大人なんだから、ぼーっとしていないでしっかりしなさい」

「はーい。で、おじいちゃん、なあに?」

「最近、葵人くんとはどうなんだと聞いたんだ。どうなんだ?」


 祖父母は二人がデートしているかと定期的に探ってくる。実咲の答えはいつも同じだ。


「普通に仲良くしているよー」


 どんなふうに仲良くしているのかと突っ込まれると困るが、幸いにその答えで満足してくれていた。

 実咲はバケットに手を伸ばす。


「そうか、そうか。それなら、いい。二人の子どもを見るのが楽しみだ。我々にとっては、ひ孫だからねー」


 結婚もしていないのに、結婚するつもりもないのに、ひ孫とは……実咲は久雄の言葉に頭が痛くなった。



 実咲は実家暮らしだが、この祖父の家には実咲専用の部屋がある。

 実家の部屋は成長と共に変化しているが、こちらの部屋は子どもの頃のままでぬいぐるみが多く飾られていた。


 祖父母からすると、いくつになってもぬいぐるみが好きな孫のようだ。毎日お手伝いさんが清掃をしてくれているから、部屋はきれいでぬいぐるみにもほこりがない。


 多くのぬいぐるみの中から、白いくまのぬいぐるみを実咲は手に取った。

 十歳の誕生日に葵人からもらったぬいぐるみだ。小学生までの実咲のバースデーパーティーは、この家で行われた。親戚や祖父の知り合いが集まるだけで、学校の友だちを招待することはなかった。

 大人ばかりが集まるパーティーに唯一来ていた子どもは、葵人と葵人の妹の香乃かのだけだった。


 この部屋に葵人と香乃が来て、遊んだことがある。

 あの頃は葵人が将来の旦那さんになるんだと思っていた。だけど、中学生になってからは葵人の存在が煩わしくなった。


 同じ学校に好きな子ができたのが一番の理由だ。葵人に抱く感情とは、まったく違う感情が芽生えた。顔を合わせるだけでドキドキと胸が高鳴ったし、楽しく話せた日はとにかく嬉しくて、眠れないほどだった。


 片想いだったけれど、幸せな思い出のひとつだ。高校生では別の人を好きになった。相手も自分を想ってくれて、告白された。両想いであったことに嬉しくなったが、断った。婚約者がいる身では、好きな人と付き合うことはできないと思った。辛い選択だった。


 両親に婚約を解消することができるかと聞いた。答えは、難しいだった。好きな人に想いを告げることもできなく、誰とも交際することもできずに決められた人と結婚するしかないのかと嘆いた。


 葵人も自分と同じ状況だろうと思っていたが、違った。香乃から「お兄ちゃん、付き合っている人がいるよ」と聞いたときは驚いた。

 香乃は「実咲ちゃんと婚約しているのに、不誠実だ」と葵人を軽蔑したが、実咲は軽蔑もしなければ、悲しくもなく、葵人の恋人に嫉妬もしなかった。


 婚約者がいても、他の人と付き合うことは許されるんだと思った。それで、実咲も断った人に本当の想いを告げて、付き合うことになった。

 しかし、三か月で別れた。原因は葵人の存在だった。葵人と話すことはほとんどなかったが、香乃とはよく連絡を取り合っていて、一緒に出掛けることも多かった。


 「お兄ちゃん、もう別れちゃったよ」と香乃に教えられて、自分だけに恋人がいることが後ろめたくなった。泣く泣く、実咲から恋人に別れを告げた。身勝手な行動で好きな人を傷つけたことが辛かった。


 もう二度と好きな人を傷つけたくないと思い、その後は好きな人ができても気持ちを知られることがないように注意した。


 今も慎平を好きなことは、誰にも知られていない。

 想いを伝えられる日が訪れるといいな……そんなことを願いながら、ぬいぐるみを元の位置に戻したとき、スマホが鳴動する。


 画面には『高見澤葵人』と表示されていた。


「もしもし?」

『ああ、遅い時間にごめん。今、話せる?』

「うん、大丈夫だよ」


 実咲はソファに腰を下ろし、スマホを握り直す。


『実咲にお願いしたいことがある』

「うん」

『俺、氷室舞美さんが好きなんだ。本気で』

「うん、本気だと思っているよ。舞美はかわいくていい子だから、葵人くんが好きになるのもわかるし」

『舞美さん、ほんとかわいいよね』


 葵人の弾んだ声を聞くのは、子どもの頃以来だ。自分の好きな人をかわいいと言われて浮かれる葵人が微笑ましくなり、実咲は顔を緩ませる。


『俺、行動が浅さかだったよね……舞美さんに近付く前にやらなければいけないことを忘れていた。勝手だけど、婚約解消してほしい』

「うん、いいよ。私も婚約解消したいと思っていたから」

『あ、そうなの?』

「私も好きな人がいるの。その人と仲良くしたいから、葵人くんが婚約解消を申し出てくれないかなと待ち望んでいたんだよ」

『そうだったんだ。ごめん、全然気付かなくて。言ってくれたらよかったのに』

「言えないよ」

『そうだよな……。俺から親とおじいさんに話すね』

「うん、よろしくね』



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