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第9話 婚約解消します

 「婚約解消できた』という連絡が葵人から来るだろうと実咲は待っていたが、なぜか休日に家族で集まることになってしまった。


 葵人が実咲とのことで大事な話があるから時間を作ってほしいと祖父の紀之に伝えたところ、予定を確認すると言われた。それで都合のよい日の連絡を待っていたら、両家で集まることになり、日時も決定されていたのだった。


 葵人からそのことを聞いたとき、実咲は頭痛がした。

 紀之は勘違いしたのだろう。大事な話とは結婚を決める話だと……。


 違う方向に話が進んでしまったことを葵人は詫びたが、その日に二人で話をしましょうと実咲は伝えた。

 自分のことでもあるのだから、葵人だけに任せるのが間違いだった。



 葵人の祖父の家……高見澤邸は三鷹市にある。緑豊かな街の中に溶け込む家は、高見澤グリーンの創業者の家らしく美しい庭園が広々としていた。


 子どもの頃には何度か来たことがあったが、しばらく訪れることがなかった。アイボリーのワンピースに身を包んだ実咲は、両親と共に敷地内に入って懐かしさを覚えた。


「実咲ちゃーん!」


 実咲をいち早く出迎えたのは、白のブラウスにスモーキーピンクのスカートを着た香乃だった。玄関まで出てきた香乃は笑顔で実咲の手を握り、家の中へと促した。


 通されたリビングルームの大きなテーブルには、ケーキやフルーツタルトが置かれていた。

 おめでたいことだからとケーキを用意したのだろう……。


 高見澤家の人々と実咲の祖父母は着席していて、晴れ晴れした表情を浮かべていた。

 こんな雰囲気の場で、婚約解消の話をするの?

 大丈夫なの?


 実咲は不安になり、葵人の姿を探した。なぜか葵人だけがそこにいなかった。


「あれ? お兄ちゃんは?」


 香乃も葵人がいないことを不思議に感じていた。

 葵人の祖父の紀之が不在の理由を答える。


「お手洗いに行ったよ。すました顔をしていたけれど、緊張しているみたいだな」

「お兄ちゃんが緊張するなんて、珍しい」


 香乃が笑っていると、葵人が入ってきた。葵人は紺のスーツにグレーのネクタイを締めている。

 葵人はひとりひとりに目を向けた。


「みなさん、揃ったようですね。実咲、こっちへ来てくれる?」

「はい」


 実咲はテーブルの端に立つ葵人に歩み寄った。実咲の両親と香乃は席に輿を下ろす。

 並ぶ葵人と実咲に着席する全員が注目した。


 実咲は葵人に視線を送った。葵人は目を合わせて頷いたあと、正面を向く。


「今日はお集まりいただき、ありがとうございます。おじいさんが勘違いしてしまったようで、申し訳ありません」


 葵人が謝ると「え?」とみんなが困惑した顔になった。実咲は腹部の前で重ねていた手に力を入れた。


 いよいよ、葵人くんが言ってくれる……。


「私たちは、婚約解消します。これからはそれぞれ、自分が決めた道に進もうと思います」


 紀之が立ち上がった。


「葵人、なにを言っているんだ?」


 実咲の祖父の久雄もテーブルに手をついて、立った。


「そうだよ。葵人くん、婚約を解消するとは一体、なにがあったんだ? 今日は、二人の気持ちが固まって結婚しますと言われると思っていたのだが」


 葵人はふたたび「すみません」と謝り、実咲も「ごめんなさい」と頭を下げた。


「私も葵人くんも別に好きな人がいます。まだその人のことが好きなだけで付き合ってはいないのですけど、付き合えたらいいなと思っています。実は私たち、婚約していても婚約者らしいことはなにもしたことがなかったんです」

「なにもって?」


 実咲は、聞いてきた自分の祖母の真佐子に顔を向けた。


「デートとか」

「え? だって、葵人くんと仲良くしているって言っていたわよね?」

「ごめんなさい。嘘を言っていました。葵人くんと二人だけで会うことは一度もなかったの」

「ええっ! そうなの?」


 大きな声で驚きの声をあげたのは、香乃だった。

 実咲は苦笑する、


「香乃ちゃんとは二人でよく会っていたけどね」

「あー、言われてみれば、お兄ちゃんと実咲ちゃんがデートしているところは見たことがない。知らないだけで、デートしているんだろうと思っていた」


 葵人があらためてみんなに伝えた。


「そういうことなので、婚約解消することに了承してください。わざわざお集まりいただいたのに申し訳ありませんが、お願いします」


 紀之と久雄は顔を見合わせて、座り直す。

 実咲は葵人と二人がなにを言うのか、待った。先に口を開いたのは、紀之だった。


「申し訳ない。葵人から大事な話があると言われて、俺が勘違いしてしまった。ぬか喜びさせる形になってしまい……」


 久雄が慌てた様子で返す。


「いやいや、こちらも二人が仲良くしているものだと疑いもしていなかったから……しかし、まあ、仕方ないですな。他に好きな人がいると言われたら、無理強いはできないかな」


 久雄が着席している全員の顔を見た。みんな神妙な面持ちで小さく頷いた。

 紀之が息を吐く。


「二人が大きくなったときに気持ちを確かめるべきだった。両家の仲が深めるために決めたのは俺と久雄さんだ。葵人、実咲ちゃん、婚約解消を認めるよ」


 実咲はホッと胸を撫で下ろした。

 やっと自分の思う道に進める!


 葵人も安堵した顔で「ありがとうございます」と告げた。


 紀之がみんなを見渡す。


「今日はせっかく集まったので、お茶会ということにしましょうか。二人が結婚しなくても、変わらずお付き合いをお願いします」


 久雄が相づちを打った。


「お茶会、いいですな。こちらこそ今後もよろしくお願いします」


 それぞれにコーヒーや紅茶が置かれて、お茶会は和やかな雰囲気の中で進められた。


 そんな中で、葵人と紀之の会話が実咲の耳に入ってくる。


「葵人が好きな人は、どこのお嬢さんだ?」

「いつか、話します」

「早めに聞かせてもらえると助かるが」


 葵人はふたたび「いつか」と静かに答えて、コーヒーに口をつけた。

 いつか舞美のことを話すのだろう。

 舞美が傷付くことがないといいなと、実咲は心配した。


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