土曜日の夜、舞美のスマホに実咲からメッセージが届いた。
『明日、一緒にご飯を食べない?』という誘いに、予定がなかったからオーケーをして、食事場所は実咲に任せた。
翌日の昼、舞美は紺のノースリーブワンピースに白のカーディガンを羽織ってフレンチレストランに足を踏み入れる。
そこには実咲と葵人がいた。
「え、どうして?」
実咲しかいないと思っていた舞美は、ビックリする。
舞美は実咲の隣に座るように促されて、腰を下ろした。紺のシャツにベージュのチノパンを着た葵人が舞美を見つめる。
「舞美さん、すみません。お休みの日にお時間いただき、ありがとうございます」
「えっ、あの、高見澤さんのために時間を作ったわけではなくて……」
舞美は戸惑いながら、実咲に目を向けた。
どうして、こんなことになっているのか説明してもらいたかった。
しかし、実咲は舞美が知りたいことと違うことを話す。
「私、舞美にずっと隠していたことがあるの」
「隠していたことって、どんなこと?」
舞美にとって実咲は、一番仲良しの同期で友だちだ。いろんなことを話してはいるが、全部を話しているわけではない。出会う前のことは知らないのが当然で、敢えて話していないことも多い。
それはお互いさまだとは思うけれど、実咲の隠しごとは重要なことのように思えた。
葵人がここにいるということは、葵人にも関係のあることなのかもしれない。
「舞美さん、私が真実をお話します」
葵人が右手を自分の胸に当て、真剣な表情をした。
やはり、葵人に関係することのようだ。
「私と実咲は、婚約していました」
「婚約?」
舞美は目を丸くして、葵人から実咲に視線を移した。実咲が「うん」と気まずそうに頷く。
「実は、そうなの。でも、昨日、婚約解消したの」
「婚約解消……?」
思いもよらないことばかり聞かされて、舞美は戸惑った。
「はい、婚約解消しました」
キッパリと言う葵人はどことなく清々しく見えるが、舞美はまだ状況が理解できない。
婚約という事実を知らなかったことが大きかった。
「婚約していたということは、二人は付き合っていたということですか?」
婚約解消したのは、昨日だと言っていた。
つまり、葵人は舞美に一目惚れしたと花を贈ってきていたときも二人は婚約関係にあったということで……それは浮気になるのでは?
舞美は、葵人を変わり者だが、真面目な人だと思っていた。でも、婚約者がいて、他の女性に言い寄る人は真面目とはいえない。
嫌悪感を覚えた舞美は、葵人に冷たい視線を向けた。
葵人はそんな視線から軽蔑されていると感じたのか、慌てた様子で口を開く。
「ち、違います。付き合ってはいませんでした。婚約は小さい頃に決められてしまったことで……私たちの意思はありませんでした。だから、デートどころか二人で会うこともほとんどなくて」
「でも、いずれは結婚しようと思っていたんですよね?」
「するのだろうなと思ったことはありますが、絶対にしたいと思ったことはないです」
「でも、昨日まで婚約を解消しようと考えてはいなかったんですよね?」
「違います。婚約していることを忘れていました。私の怠慢です……」
葵人は項垂れた。
実咲が舞美の腕に手を置く。
「舞美、理解できないと思うけど……私と葵人くん、婚約者であっても恋人ではなかったの」
「婚約者と恋人の違いがよくわからない」
舞美は混乱していた。言われていることがなかなか理解できない。
「うん、そうだよね。婚約は私たちのおじいちゃんたちが決めたことで、私は一度も葵人くんを男性として好きになったことがないの。葵人くんもそうだよね?」
葵人は身を乗り出した。
「そうです! 私も恋愛感情を抱いたことはありません。私が今、惹かれているのは舞美さんです! 舞美さんに惹かれていくばかりです。だから、嫌われたくありません。チャンスをいただけませんか?」
葵人は立ち上がって、「お願いします!」と頭を下げる。
突然立った葵人は目立ってしまい、周囲の人たちから注目を浴びた。舞美はそれを気にして、慌てる。
「あの! 高見澤さん、座ってください。わかりましたから」
「わかっていただけましたか?」
座り直した葵人は安堵したようで、肩の力を抜いていた。
「はい……まあ、とりあえずは……」
舞美は真っ直ぐに見つめる葵人から目を逸らした。そんな期待に満ちたまなざしを向けられても困る……。
そのとき、実咲がいそいそと帰り支度を始めていた。
「実咲、なにをして……」
「私、帰るね。舞美は葵人くんと食事をして」
「ええっ、ちょっと待って。私は実咲と食事するために来たんだよ?」
「私とは明日、ランチしよ。今日は葵人くんとどうぞ」
「どうぞって、そんな勝手な……」
困惑する舞美に実咲は「バイバイ」とかわいい笑顔を残して、去っていく。
「舞美さん、コース料理のメインですが、お肉かお魚か選べます。どちらがいいですか?」
展開の早さに頭がついていなかいというのに、葵人はのんきなことを聞いてきた。
肉か魚かって、今大事なのはそんなこと?
舞美は渡されたメニューを持ち、息を吐く。
帰りたい気分ではあるが、実咲がコース料理で予約したと言っていたことを思い出す。当日の取り消しはキャンセル料がかかってしまうだろう……。
食べずにお金を払うのは、もったいない。
不本意ではあるが、葵人と食事をするしかないようだ。
「お魚にします」
「わかりました」
葵人がスタッフに「魚、二つで」と伝える。
すぐにスープと前菜が運ばれてきた。
スープを口にする舞美を葵人はジッと見ていた。見られながら食べるのは、なんだかそわそわして落ち着かない。
「舞美さん、今日もかわいいですね」
思いがけないことを言われて、舞美は「ゴホッ」とむせた。ナフキンで口もとを押えて、ミネラルウォーターを飲む。
「いきなり、なにを言うんですか……」
「今日の服がとても舞美さんに似合っていて、素敵だと思ったからです」
理由を聞いたのは自分だが、そういう理由を聞きたかったのではない。舞美は予想外の返答を聞き、抗議したくなった。
「そういうことを聞いたのではないですけど」
葵人が「ん?」と小首を傾げる。
「ああ、今日だけではなくていつもかわいいですよ。お会いするたびに舞美さんへの想いが膨らんでいます」
葵人は照れもしないで、恥ずかしくなることを言う。
「あの、高見澤さん」
「はい、なんでしょう?」
「食べませんか?」
「そうですね。食べましょう」
まだなにも口にしていなかった葵人がようやくスープ用のスプーンを持ったので、舞美も食事を再開した。
舞美は葵人があれこれと話しかけてくるのかと思って身構えていたが、食事中は食べ物の好き嫌いを聞かれたくらいだった。
見つめられることは多かったが。
「舞美さんのお宅までお送りします」
食事を終えて店を出た舞美の足は、近くの駅のほうに向いていた。
電車で来た舞美は、帰りも電車を利用する予定でいた。明るい時間だから、送ってもらわなくても安全に帰れる。
「大丈夫です。電車で帰れますので」
「そうですか。では、渡したいものがあるので少しお待ちください」
駐車場に向かった葵人は赤い花を手にして、戻ってきた。
車に花を置いていたようだ。
「こちらをどうぞ」
「ありがとうございます。かわいらしいお花ですね。見たことあるような気がするんですけど、名前が思い出せなくて」
「ラナンキュラスです」
「ああ、そうでした。丸くてかわいい形ですね」
「私にとって、舞美さんは魅力に満ちあふれている方です」
舞美は固まった。
突然、なにを言っているのか……。
「ラナンキュラスの花言葉は、あなたは魅力に満ちあふれています、なんです」
「ああ、そう……」
また花言葉。
花に関わる仕事をしている人だから花言葉にも詳しいのだろうけれど、花をもらうたびに気持ちを伝えられるのは……ちょっと煩わしいような。
そもそも昨日まで婚約者がいた人から贈られても、心がこもっているように思えない。
舞美は眉間にしわを寄せた。
葵人はそんな舞美の表情の変化を気にすることなく、また予想外のことを言う。
「今度、デートしてください」
「デート、ですか?」
「はい。どこか行きたいところ、ありますか?」
デートすると答えていないのに、話を進ませようとしないでもらいたい。
「お断りします」
「はい?」
葵人は、断られることを想定していなかったようだ。どれだけ自分に自信があるのだろうか。
おかしな行動ばかりしていて、不誠実とも思える部分もあるというのに……。
「高見澤さんとデートはしません」
ハッキリと断れば、理解できるだろう。
しかし、葵人はまだ意味がわからないのか、キョトンとしていた。
「私が言ったこと、聞いていましたか?」
舞美が尋ねると、葵人はハッと驚いたような顔をする。
「え、デートしてくれないのですか?」
舞美は呆れて、ため息をつく。デートするのが当たり前だと思ったのか……。
「どうして、私が高見澤さんとデートしないといけないのでしょうか?」
葵人は逆に問われて、目をパチクリさせた。
「だって今日、食事してくれましたから」
なるほど、食事したからデートもしてくれると思ったのか……。
頭良さそうなのに、どうしてそういう思考になってしまうの?
裕福な家庭で育ったから考え方が普通の人とは、ずれているのかもしれない。
舞美はふたたびため息をついた。
「もしかして舞美さん、私に呆れていますか? 鬱陶しいと思っているとか」
「鬱陶しいとまでは……なかなかお話が通じないようなので、困っています」
「すみません。舞美さんとの食事に舞い上がっていて、つい浮かれた考えになっていました。ちゃんと舞美さんの気持ちを考えます。いきなり、デートしましょうと言われたら困りますよね?」
「そうです、困ります」
「では、もう少し私たちが親しくなったらデートをしてくれますか?」
困っているのがわかっていても、諦めないようだ。
「高見澤さんと親しく話すようになったとしても、デートはできないと思います」
「なぜですか?」
「高見澤さんと私では、つり合わないからです」
葵人は首を傾げた。
「つり合わない? 舞美さんがとてもかわいくて優しい方だから、私みたいな平凡な男は合わないのはわかっていますけど……」
「違います、そうじゃないです」
見当違いのことを言った葵人がまたキョトンとした顔をする。
本当に話が通じない……舞美は困り果ててしまい、雲が多くなってきた空を見上げた。
「平凡なのは高見澤さんではなくて、私です」
「えっ?」
「高見澤さんは将来、会社を継がれるんですよね?」
「はい、その予定で日々勉強をしています」
「いつも勉強されているなんてすごいですね……じゃなくて!」
「えっ?」
葵人に驚いた顔を向けられて、舞美は「すみません」と謝った。
葵人と話していると、自分まで話がずれていく……。舞美は気を取り直して、小さく咳払いをする。
「私が言いたいのは……将来経営者になる立派な方と、ただの会社員の私とではつり合わないということです」
「私はそんな立派な人間ではないです」
「育った環境が違いますよね? 私の家は普通の家で、高見澤さんや実咲のおうちのように裕福ではないんです」
「ああ、そういうことですか。でも、家のことは関係ないです。大切なのはお互いの気持ちではないでしょうか」
「お互いの気持ちが大切だと、私も思います。でも、感情だけで決められることではないです。高見澤さんは結婚まで考えてはいないと思いますけど」
「いえ、考えています。舞美さんとは、結婚前提でお付き合いできたらいいなと思っています」
「だったら……結婚は家同士の結びつきにもなりますので、家柄が違うと本人たちの気持ちだけでは決まらないと思うんです」
「そんなこと……」
「あると思います。だから、高見澤さんと実咲のおじいさんは二人を結婚させようと考えたのでしょう。私、高見澤さんには実咲が合っていると思います」
「そんなこと、言わないでください。私が想いを寄せているのは、舞美さんなんです」
葵人は悲しそうに顔を歪めた。
「ごめんなさい。私には、高見澤さんの気持ちを受け入れることができません」
「そ、そんな……」
「失礼します。今日はごちそうしていただき、ありがとうございました」
舞美はショックで言葉を失っている様子の葵人に背を向けて、歩きだした。