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第16話 どう呼ぶ?

 舞美は葵人に考える時間をもらったが、どれだけ考えても、どうしたいのか自分の気持ちに結論を出せなかった。


 時間だけが過ぎていき、葵人にチューリップをもらった日から一か月が経った。

 かわいいチューリップを長持ちさせようと毎日水替えをしたが、一週間が限界だった。

 花の命は短いと理解していても、捨てるときには悲しくなった。


 舞美はスマホに視線を落とす。葵人からもらった花は、すべてスマホで撮っていた。現在の待ち受け画面は、チューリップだ。


 このチューリップを見るたびに、あのときの葵人が浮かんだ。そろそろ葵人に返事をしようとは思うのだが、悩むばかりで連絡できない。

 仕事中に考えることではない……舞美はスマホをバッグに入れて、パソコンに向き合った。


 しばらくすると、舞美の肩を誰かが叩いた。入力していた手を止めて、振り向くと笑顔の実咲がいた。


「舞美、お疲れさま-」

「あー実咲、お疲れさま」

「課長から頼まれた書類を持ってきたの」

「預かるね」

「うん、よろしく……それと、舞美」


 実咲は近くの空いている椅子を舞美の横に持ってきて、小声で話す。

 仕事以外の話のようだと思い、舞美は周囲に聞かれないようにと実咲に顔を寄せた。


「葵人くんから頼み事をされて……今夜、少し時間ある?」

「予定はないから大丈夫だけど、もしかして高見澤さんがいるの?」

「ううん、葵人くんはいないよ。私と二人」

「それならいいけど」

「じゃあ、帰りにね」


 にこやかに去って行く実咲を見ながら、舞美は葵人を思い浮かべた。

 どんなことを頼んだのだろう?

 舞美は退勤するまで、ずっと気になっていた。


 舞美と実咲は、オフィス近くのカフェに入った。そこは、雨が降った日に葵人と来たことのあるカフェだ。

 実咲は運ばれてきたカフェラテに口をつけず、話を切り出した。


「葵人くん、舞美と会いたいんだって。会えばいいじゃないのよと言ったんだけど、舞美から会わないでいたいと言われたって。そうなの?」


 舞美はガムシロップを入れたアイスティをストローで混ぜながら「うん、そう」と答える。


「なにか、嫌なことをされた?」

「そうじゃないの、私の気持ちの問題。高見澤さんとのことをちゃんと考えたいから時間をもらったの」

「そう……だったら、葵人くんは舞美の返事が来るまでのんびり待てばいいのにね」


 のんびり待てなくなったから、実咲に頼んだのだろう。

 舞美は苦笑して、アイスティを飲んだ。実咲もカフェラテを飲み、ひと息つく。


「今、どのくらい待たせているの?」

「今日で、一か月になるかな」

「一か月かぁ。長いような、短いような感じだね。でもー、時間が経つとどんどん答えにくくならない?」

「そうなんだよー」


 舞美はため息をついて、ストローを意ぐるぐるぐるぐると回す。

 どうしよう、どうしたらいいのだろうと迷っていて、一向に気持ちが定まらないのだ。

 会わないでいるよりも会ったほうがいいのかと、思ったりもした。

 だからと言って、答えが出ていないのにメッセージを送れない。

 ずっと、悩んでいる。


 カップをソーサーに戻した実咲が「ねえ」と舞美を見た。


「四人で食事しない?」

「四人って?」

「私と舞美と葵人くんと、あと京太さん」

「京太さん?」


 四人目は慎平かなと思った舞美は、思いがけない人の名前を聞いてビックリした。


「葵人くんに二人では会えないようだから、四人で会えるようにしてほしいと頼まれたの。それでね、京太さんのお兄さんが先月、横浜にイタリア料理のお店をオープンして、ぜひ来てほしいと言われているんだって……ここなんだけど、どう?」


 実咲はスマホを操作して、レストランの公式サイトを開いた。舞美は向けられたスマホを覗きこむ。


「へー、素敵な感じだね」

「でしょ? 行ってみない?」

「うん、行こうかな」


 四人でなら、少しは気軽に行けそうだ。会わないでいるよりも、会ったほうが自分の気持ちを確かめられるかもしれない。


 そろそろ本気で、答えを出さなくてはいけないと思っていた。ずるずると待たせることに罪悪感を抱いているからだ。

 舞美の返事を聞いて、実咲は早々と葵人にメッセージを送る。葵人からすぐに返信が来て、明後日の土曜日に行くことに決まった。


「実咲と高見澤さんって、よく連絡を取り合っているの?」


 舞美の質問に実咲が「え?」と驚いた顔をする。


「あ、別に、深い意味はないよ」


 葵人に興味があるような聞き方になっていたと思い、舞美は慌てた。

 実咲がフフッと、楽しそうに笑う。


「最近になって不思議なことに、葵人くんから連絡が来るようになったの。それまでは一年に一回、あるかないか程度だったんだよ」

「最近になってなの?」

「正確に言うと、婚約解消してからかな。いつも舞美のことを聞いてくるの」

「私のこと?」

「そう、舞美のことが気になって、気になって仕方がないんだって」


 舞美の顔が熱くなる。自分の知らないところで、自分が話題になるのは恥ずかしい。

 舞美は、熱くなった頬を手で押えた。


 ジッと見ていた実咲の表情が深刻そうになる。


「葵人くんの家のことが、まだ引っ掛かっているの?」

「うん……」


 家柄の違いがハッキリとした答えが出せない一番の理由だった。


 会えることを喜んだメッセージが葵人から送られてくるかなと、舞美は身構えていた。だが、意外なことに当日になっても音沙汰なしだった。

 舞美はなんとなく寂しさを感じながらも、着る服をあれこれと考えて、奈美に見てもらって「それいいね」と言われた服装に決めた。


 レストランの予約時間は、夕方六時。

 先週、関東地方は梅雨入りしたが、今日の降水確率は低い。薄曇りの空の下、舞美は横浜駅のロータリーでキョロキョロと顔を動かした。

 白い車の前で手を振る実咲を見つけ、舞美は駆け寄った。


「お迎え、ありがとう」

「ううん、乗って-」


 後部座席から顔を入れた舞美は、運転手に声を掛けた。


「こんにちは、お世話になります」

「こんにちは、どうぞお乗りください」


 運転手の名前は小島だと、実咲が舞美に教えた。


 車は元町方面に走っていき、五階建てのビルの前で止まる。一階が目的のレストランで、木製ドアの前に葵人が立っていた。

 葵人が車に寄って、後部座席のドアを開ける。


「舞美さん、お久しぶりです」

「はい、久しぶりですね。あの、ありがとうございます」


 舞美はドアを開けてくれたことのお礼を伝え、車から降りた。

 実咲が店内に入ったあと、舞美はドアを押えてくれている葵人に恐縮しながら足を踏み入れる。


 レストランは、外からの想像よりも奥行きがあり、広々としていた。

 入り口近くで、京太は白い調理服を着た男性と立ち話中だった。

 男性が入店した舞美たちに笑顔を向ける。


「こんばんは。ようこそお越しくださいました。この店のオーナーの水谷洋介ようすけです。葵人くん、オープンのときはお花をありがとう」

「いいえ。あれからなかなか時間が取れなくて、すみません」


 葵人は花を飾っただけで、食事をする時間がなかったそうだ。


「いいよ、気にしないで。今日はおすすめをどんどん出すので、たくさん食べてね」


 四人は奥のテーブルに案内されて、舞美は実咲の隣で葵人の向かい側に座った。

 舞美は緊張して前を向けず、横にいる実咲ばかりを見る。

 女性のスタッフが白ワインのボトルを持ってきた。


「こちら、オーナーからのサービスです。皆さん、飲まれますか?」


 京太が葵人に顔を向ける。


「俺は飲むけど、葵人は車で来たから、飲まないんだっけ?」

「ああ、飲まない。舞美さんと実咲は、遠慮なくどうぞ」


 舞美は実咲と顔を見合わせて、頷いた。


「いただきます」


 葵人以外の三人はワイン、葵人は炭酸入りのミネラルウォーターで乾杯をした。

 洋介の宣言どおり、サラダ、パスタ、ビザ、生ハムなど多くの料理がテーブルに運ばれてきた。

 京太が手際よく、サラダを小皿に分ける。


「はい、実咲ちゃん。はい、舞美ちゃんもどうぞ」

「ありがとうございます」

「ほら、葵人も……って、なんでそんな険しい顔をしているんだ?」


 先ほどまで穏やかだった葵人は不満げな顔で、京太から皿を受け取った。

 舞美も実咲もどうしたのかと葵人に目を向ける。

 葵人がポツリと呟いた。


「どうして……」

「ん? なんだ?」


 京太は葵人を気にしつつも、手を動かしてパスタを分ける。

 葵人は平然としている京太が気に入らないのか、ますます機嫌が悪くなっていた。


「どうして、舞美さんを舞美ちゃんと呼ぶんだ?」


 京太は「は?」と目を丸くして、舞美にパスタを盛った皿を渡す。


「実咲ちゃんの友だちだからだけど、もしかして嫌だったかな?」


 舞美は京太に聞かれて、首を横に振る。


「いいえ、別に嫌ではないです。実咲ちゃんと呼んだ流れで呼んでくれただけですよね?」

「そうそう、そうだよ。葵人って、そんなことに気にするヤツだった? あー、舞美ちゃん限定か」


 実咲が口もとに手を当てて、笑う。


「葵人くんって、舞美のことになるとおもしろくなるよね」

「ああ、たしかにおもしろいな」

「別におもしろくない」


 葵人はムッとした顔で、サラダを口に入れた。

 京太と実咲は、そんな葵人を微笑ましそうに見ているが、舞美はハラハラした。

 舞美は他の二人よりも葵人のことを知らないが、嫌な思いをしてほしくない。


 なにか葵人の機嫌がよくなるようなことはないだろうか……。

 京太さんの呼び方が気に入らないのなら……。


「あの、高見澤さん……私、名前で呼んでもいいでしょうか?」

「えっ?」


 葵人が食べる手を止めて、ゴクリと口の中のものをのみ込む。


「名前で呼んでもいいでしょうか? ……って、自分のことを?」


 舞美がコクリと頷くと、葵人の表情がぱあっと晴れやかになった。


「もちろん、いいです! ぜひ呼んでください。葵人とお呼びください」


 前のめりになる葵人の肩に、京太が手を置く。


「落ち着け。舞美ちゃん、あおくんでもあおちゃんでもあおぽんでもあおたろうでも好きに呼んでいいよ」


 京太に提案された呼び方は、どれも呼びにくい。戸惑う舞美に実咲も候補をあげた。


「シンプルにあおって、どう? 呼びやすいと思うよ」


 シンプルで呼びやすいと言われても、舞美にとってはハードルの高い呼び方だ。

 いきなり呼び捨てすることには、抵抗がある。


「私は、あの……葵人さんと呼びたいんですけど」

「それは、つまらない。特別感がほしいです」


 葵人本人からの要望は、特別感だった……難しい……。


「特別な関係ではないので……」


 京太が「そうだよ」と言って、また葵人の肩に手を置いた。


「無理強いしてはいけない。葵人さんでいいじゃないか。高見澤さんに比べたらずっといいだろう」

「まあ、うん……では、葵人さんとお呼びください。はい、どうぞ」


 今、呼べということなのだろうか……舞美は戸惑いながら、葵人を見つめる。

 舞美は軽く咳払いをした。


「……葵人さん」


 あらたまって口にするのは、なんだか気恥ずかしい。

 葵人が笑顔で「はい!」と返事をした。


「舞美さんに呼ばれて、ときめきました。初めて自分の名前が好きだと感じました」


 葵人は恋する乙女のようにうっとりした顔をした。

 これまた初めて見る表情で、舞美はどう反応していいのかわからなくなった。

 こんな葵人を目にするのは、実咲も京太の初めてのようでビックリしていた。


「えー、葵人くんがそんな顔するなんて」

「ビックリした。恋は人を変えるというけど、本当なんだな」


 二人の反応に、葵人がまた不機嫌になった。


「うるさいな。俺を見るな」

「俺……?」


 舞美は目を丸くした。


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