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第二話 梅にムクドリ(6)

ただの捻挫ねんざだった。ぽちゃぽちゃとした小柄な身体に丸眼鏡がトレードマークの四十過ぎの養護教諭は、手馴れた手つきで包帯を巻きつけ、平らな声で言った。



「大したことないけれど、しばらく部活は禁止よ。試合はまだ先でしょ?」

「今度の日曜練習試合があるんです」

「じゃあ欠席しなさい」



 あっさりとした返事が返ってくる。もっともどうせベンチの僕だしただの練習試合だし、僕一人いなくても試合にまったく影響はないのだが。


 ガラッと音がして、ドアの向こうに西嶋さんが現れた。心配で顔じゅうを埋め尽くして、速足でこっちに近づいてくる。



「どうしてここがわかったの」

「友だちが教えてくれたの、小谷くんが部活中に怪我して保健室にいるって。大丈夫?」



 アーモンド型の瞳がためらいなく僕の目を覗き込んでくる。頬が赤くなるのを感じながら俯いて大丈夫、と小さく言う。養護教諭がくすっと笑って保健室を出て行った。わざとらし過ぎる気の使い方だ。


 養護教諭が座っていた回転椅子に西嶋さんが腰を落とし、パイプ椅子の上の僕と向かい合う。急に右足の包帯が恥ずかしくなってきて、きれいな顔を直視出来ない。



「あのね、わたしもう、杉下くんのことは何とも思ってないから」



 西嶋さんが軽く身を乗り出した。大きな目が少しだけ潤んで、一生懸命僕に訴えかける。


 どうやら、西嶋さんの耳にはかなり正確な状況が伝わっているらしい。



「だから、気にしないで」

「うん、わかった」



 そこでようやく、西嶋さんが安心したように息をついた。


二人とも口を閉じてしまうと、保健室の中は静かだ。遠くで誰かの笑い声がする。廊下を駆ける震動がわずかにここまで伝わってくる。白い空間に消毒液の匂いがぷんと立ちこめ、カーテンの隙間から入ってくる朝の日差しがリノリウムの床に光の帯を広げる。



「ねぇ、キス、しようか」

「え」



 つい、声が裏返ってしまった。西嶋さんは耳まで真っ赤になっている。



「……駄目?」

「いや、そんな、全然駄目じゃないけれど」



 何かを覚悟した表情が少しずつ近づいてくる。長い睫毛が伏せられる。可愛らしい心臓の鼓動が僕の耳にも聞こえそうだった。


 たとえ杉下とキスしたことがあっても杉下とヤってても、今はそんなことは関係ない。西嶋さんは精一杯の勇気を出して僕に近づいてくる。


 目をつむった。唇が一瞬だけ触れて、すぐ離れた。初めてのキスは感触を味わうまでもない、とても短いものだった。二人の同じところに押された、恋人同士の印の小さなスタンプ。西嶋さんが俯きながらくすっと笑う。



「しちゃったね」

「そうだね」



 二人で下を向きながら照れ笑いしていると、いくつかの足音が近づいてきてドアが開いた。西嶋さんが慌てて回転椅子から立ち上がり、ギィと音がした。



「大丈夫か、その足で階段とか上るの危ないだろうから、一応来た」



 雄輔たちいつもの三人だった。西嶋さんがいたのが意外らしく、みんな少し驚いた顔をする。西嶋さんが困ったように笑いながら三人にお辞儀し、せかせかと保健室を出て行く。



「じゃあね、小谷くん。今日も放課後、一緒に帰ろう」



 西嶋さんがそう言ってドアを閉めた後、僕はおどおどしながら立った。右足がやっぱりずきずきする。口元がどうしてもにやついてしまうのを、雄輔が眉をひそめながら指摘する。



「お前、怪我したのになんて顔してんだよ。さてはまさか今西嶋さんと何かあったとか」



 しつこく詮索する三人に何もないと繰り返しながら、教室を目指した。



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