その日の放課後、朔美が彼氏に会うために早々と帰ってしまった後、クラスメイトたちとたっぷりおしゃべりしてから、グラウンドに向かった。
ネットの裏には女の子たちが十数人固まっていて、甲高い声できゃあきゃあはしゃいでいる。みんな野球部のファンだ。
野球部といえばみんなそろって坊主頭だけど、シンプルな坊主だからこそ逆に顔の形がよくわかるため、中にはイケメンって言われて女の子に騒がれてる人もいて、サッカー部やバスケ部と同様、「モテる部活」のひとつに入る。
ネットの隅っこで練習風景を見ていると、素振りをしていた中尾くんがすぐあたしに気づいて、こっちに駆けてきた。キャップの鍔の下から覗いた目が少し怪訝。
「どうしたの?」
「ちょっと、ここで見てて、いい?」
中尾くんはあまり嬉しそうな顔はしなかった。ファンの子の何人かがあたしたちに気づいて、ほほえましそうにこっちを見ている。
「別にいいけど」
「終わったら、一緒に帰ろう」
中尾くんはうん、と短く言って練習に戻っていった。中尾くんはあたしといてもあんまり笑わないし、あんまり楽しそうじゃない。朔美は緊張してるだけだと言うけれど、本当にそれだけなんだろうか。
あたしが可愛くも面白くもない女の子だから、笑うことも楽しむことも出来ないんじゃないだろうか。告白してきたのは中尾くんのほうなんだし、あたしが不安になるのも変かもしれないけど。
女子高生らしくよく騒ぐ女の子たちにはどうしても馴染めなくて、校庭の隅っこに忘れられたように置かれているベンチまで移動し、ちょこんと座る。
ここならちょぅど、桜の木が影を作っていて涼しいし、日焼けも気にならない。小さく息を吐くとカキン、とバッドの音がして、白い球が放物線を描く。女の子たちがわっとざわめき、ボールは澄んだ空に高く上がって、スローモーションみたいにゆっくり落ちていく。
中尾くんはどこにいてもあんまり目立つタイプじゃないし、女の子にきゃあきゃあ騒がれるような人じゃない。逸見くんには、どこも似ていない。
見た目は平均点だしひょろひょろしていて背もあまり高くないけれど、野球では自分に与えられたことを確実にこなすっていう感じの人で、チームメイトからも信頼されているらしい。
「そういう人のほうがいいよ」と朔美が前に言っていた。朔美に言わせれば逸見くんみたいに次から次へと可愛い女の子とばっかり付き合うタイプは軽薄で、なんだか信用出来ないらしい。「琴子には逸見くんより中尾くんみたいな人のほうが合うよ」って。
逸見くんが軽薄だってところはちょっと頷きがたいけれど、そう言われたらそうなのかな、と納得してしまう。中尾くんはいかにも真面目なタイプで誠実で中身がしっかりしていそうで、だいいちあたしと釣り合いがとれる。あたしと逸見くんより、ずうっと。
「市原じゃん。こんなところで何してんの?」
後ろからいきなり声をかけられて、心臓が宙返りしそうになった。それは中尾くんよりも朔美よりも、あたしが一番好きな声だったから。
「逸見くんこそ、どうしてこんなところに」
「俺? 俺は彼女と待ち合わせ」
彼女、という言葉に胸が少しだけズキッとする。中学の時からずっと好きだから、逸見くんが誰かと付き合うことにはもう慣れてるはずなのに、今黒井さんと付き合ってることだって受け入れてるはずなのに。
逸見くんが同じベンチに座る。何にも考えないで適当に座っただけなんだろうけど、やたら距離が近い。痛んだ胸が少しずつ鼓動のテンポを速める。
「市原は、彼氏の応援?」
「逸見くん、知ってるんだ」
「知ってるよ、噂になってるもん。野球部の中尾とB組の市原が付き合い始めたって。おめでとう」
「……ありがとう」
逸見くんはあたしの耳にその言葉がどんなふうに響くかなんて知るわけもなく、屈託なくおめでとうを言ってくれる。当たり前だけど、逸見くんはあたしが誰かと付き合ってても平気なんだ。あたしは逸見くんに彼女がいること、未だに辛いのに。
片思いを痛感して、胸が痛い。それでも近くで見る逸見くんは、やっぱり格好いい。額に浮き出た汗をハンカチで拭く仕草を、しっかり観察してしまう。男の子なのにちゃんとハンカチを持ってるんだ。えらい。
「野球部、すごいよなぁ。この暑さの中練習って、俺には無理だわ」
「うん、あたしも無理」
「汗臭い青春って、根性ないと出来ないよなぁ」
うちの野球部はそれほど強くないけれど、他校のほとんどの野球部と同じく甲子園出場を一応の目標にしている。今白球を追いかけている彼らの先輩の、その先輩のそのまた先輩の、とにかくずっと昔からの目標。代々受け継がれていく、叶わない願い。すごいなぁと思う。あたしにはそんなふうに夢中で頑張れるものが、まだないから。
それきり会話が途切れ、逸見くんはスマホを取り出す。緊張しながらも一生懸命話題を探す。せっかく隣にいるんだもの、何でもいいから話さなきゃ。
「ねぇ、デートって、どうすればいいのかな?」
逸見くんがスマホの画面から目を離した。何やってるんだろうあたしってば、逸見くんに中尾くんとの恋のアドバイスなんかされたくないのに。でも今あたしに提供できる話題っていったら、これぐらいしかない。
「あたし、付き合うの初めてだからそういうのよくわからないんだ。昨日初めて二人で遊んだんだけど、あんまり楽しくなかったっていうか、盛り上がらなかったっていうか」
「そういうのって、女の子に聞いたほうがいいんじゃないのか」
「そうだけど、男の子的な意見聞きたくて」
うーん、と首を唸りながらスマホから目を離す。何気ないあたしの質問に真面目に考えてくれているのが嬉しい。涼しげな切れ長の瞳から目を離せない。
「中尾はいかにも真面目ってタイプだし、まだあんまり付き合ったことなさそうだしな。市原がどんどんリードしていったほうがいいかも」
「リードって」
「だからキスしちゃうとか」
まさか今逸見くんの口からその単語が飛び出すとは思わなかった。頬を熱くさせるあたしを見て、逸見くんが笑い出す。
「冗談だよ、市原は可愛いな」
大した意味のない「可愛い」にも恋する心臓は敏感に反応する。もっと真っ赤になるあたしの隣で逸見くんはまだ笑ってる。罪作りな人だ。
「何がしたいとか何が食べたいとか、もっとわがまま言っちゃえってこと。何する? て聞かれた時にどうでもいいって答えるのが男は一番困るんだよ。たいがいそうやって聞く時は、女の子のほうに決めてほしい時だから」
「そっか。逸見くん、さすがいっぱい付き合ってるだけあるね。すごく参考になる」
「いっぱい付き合ってるって何だよ。人を軽い男みたいに言うな」
逸見くんがげんこつを作って軽くこめかみを突いてきて、一瞬触れた体温の感触にめまいがしそうになる。そんなあたしたちへりくとー、とソプラノの声が投げられる。少し遠くに黒いショートボブの頭が見える。逸見くんが肩にスクバをかけながら立ち上がった。
「じゃあな、市原。彼女来たから行くわ」
長い脚を颯爽と踏み出す逸見くんに、あたしはやりきれない思いを表に出さないようにしながら手を振る。黒井さんに駆け寄る逸見くん。当たり前のように手を繋ぐ二人。仲良く歩き出すお似合いのカップル。はじける美男美女の笑顔。
同じ中学出身だから、会えばこうやって話すこともある。逸見くんは誰にでも気さくに声をかける、そういう人だってわかっていても、しゃべりかけてもらえたら単純に嬉しい。でも嬉しいのは、あたしだけ。
逸見くんにとっては今の出来事も日常のほんのひとコマで、あたしと何を話したかなんて明日の今頃にはきっと忘れてる。
またカキン、とボールがバッドに当たる音がする。グラウンドに視線を戻すと、いきなり中尾くんに焦点が合った。五十メートル近い距離を挟んで二人の目がぶつかる。中尾くんは座ってるあたしをしばらく見つめた後、踵を返してどこかへ走り出す。
今逸見くんといたのも、逸見くんの隣で赤くなっているあたしも、中尾くんにはちゃんと見えていたんだろうか。もし、あたしが本当は逸見くんを好きなことが中尾くんに気づかれてしまったとしたら。お腹の底がざわざわと鳴った。