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第三話 あなたじゃなきゃ(6)

待ってなくていいって言われたのに、あたしは昨日と同じベンチにいた。


グラウンドには今日も練習に励む高校球児たちの掛け声や靴音や、ボールがバッドにぶつかる音が響いてる。


昨日とは打って変わって、肌寒いぐらいの気温。空は重たそうな雲に覆われて、湿った嫌な風が吹いていた。傘の用意がないことに気がついて、それでも雨が降り出すまではここにいようと思った。



「あれ、市原じゃん。今日も彼氏待ち?」

「うん。逸見くんも、今日も黒井さんと待ち合わせ?」



 逸見くんはニッと白い歯を見せて頷いて、同じベンチに座った。身体の右側の空気がじんと熱を持つ。昨日もそうだったけど、座る位置がやたらと近い。何も意識してないからこそそんなに近くに座れちゃうんだろう。胸が痛みながら火照っていく。


 本当はまた逸見くんがここにやってくるんじゃないかって、期待しながら待ってたんだ。あたしはいつになったら、逸見くんを忘れられるんだろう。中尾くんと付き合って、付き合ってるうちに中尾くんを好きになったら、逸見くんのこともそのうち自然に忘れられるって思ってたけど、そう簡単にはいかないみたいだ。



 よく、女の子は自分が好きな人より自分を好きでいてくれる人を選んだほうが、幸せになれるっていう。でもあたしは、自分から好きになった人じゃないと駄目な女の子なのかもしれない。



「あーあ、俺らも高二かぁ」



 逸見くんがぐいと伸びをして胸を逸らした。この人には珍しく、懐かしそうな、どこか遠いところを見る目をする。



「なんか早いよなぁ。市原と同じクラスだったのって、中一だっけ?」

「そうだよ」

「あれからもう四年も経つのかぁ。お互い歳とるはずだわ」



 高校生にしてはおじさんくさい台詞に思わず笑えてしまって、逸見くんも一緒にくすくす、笑ってた。飛行機のエンジンの音が鈍く空気を震わせたけれど、分厚い雲に隠れて機体は見えない。


 四年も経ったってことは、つまり四年も片思いしてるってことだ。中一のあの日のことを思い出す。


夏休み直前のスポーツ大会で、サッカーのメンバーに選ばれた逸見くん。一対一で迎えたラスト二分、相手のゴールに突き刺さった彼のシュート。男子たちによってたかって背中を叩かれ、もみくちゃにされながらの眩しい笑顔が、すとんと心の真ん中に落ちてきて、知った。逸見くんを好きだと。


その前からたぶん意識はしてたと思うけれど、みんなの真ん中で泣き笑いの顔で汗をだらだら流してる逸見くんを見てたら、はっきりと気持ちを自覚したんだ。


唐突に突きつけられた、「自分が恋に落ちてる」という事実。恋は一度自覚したら、止まらない。


見れば見るほど、話せば話すほど、目で追えば追うほど、甘い気持ちはぐんぐん膨らんでいって、やがて胸に収めておけないほど、大きくなる。甘やかなときめきはいつしか痛々しい切なさに変わり、辛い涙に溺れて夜も眠れない日々があたしを苦しめる。



 朔美の言う通り、本当にそろそろ、気持ちにケリをつけたほうがいいのかもしれない。今の今だって、恋は現在進行形なんだから。どこまでいっても一方通行の進展のない恋なら、いつか終わらせなきゃいけない。



 グラウンドに立つ中尾くんがこっちを見ている。やっぱり中尾くんは、あたしが本当は逸見くんを好きなことに気づいているんだろうか。釣り目気味の目が放つ意味ありげな視線が気にならないわけじゃないけど、今がチャンスだ。



「あのね、逸見くん……!!」



 思わず声に力が入る。逸見くんがん? と笑顔のままあたしを見る。ためらいなくまっすぐ見つめてくる瞳に、つい怖気づきそうになる。



「何、改まって。また中尾のことの相談?」

「ううん、違うの。そうじゃなくて、実はね、あたし……」



 吐き出した言葉の分だけ言いたいことが喉元で空回りしていくようだった。下を向いてしまうあたしのおでこのあたりに、逸見くんの不思議そうな視線を感じる。心臓がバクバクどころかバチバチいって、血管がショートしている。頭の中をいくつもの言葉が回る。好き、愛してる、ずっと、大好き、気になってた、あなたを見てた、中学の時から。


 あたしはフラれる。これから大好きな逸見くんにフラれる。それでも。


 バッドがボールをはじく音がここまで響いてきて、そしてコッと何かを強くこするような音が続いた。更にいくつかの悲鳴に似た声が上がった。


 二人とも、我に返ってグラウンドを見る。中尾くんが倒れているのが見える。痛そうに腕を押さえる中尾くんの手。保健室、とかデッドボール、とかいう単語が切れ切れに聞こえてくる。熱くなっていた身体の中心が急速に冷めていった。逸見くんが呆けたように言う。



「市原、行ってやったほうが」

「うん……!」



 走り出した。息を弾ませながら、ひどいことを思っていた。


 どうして? あたしが行きたいのは、そっちじゃないのに。



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