中尾くんのデッドボールは大したことはなく、ぽちゃぽちゃとして丸い眼鏡がトレードマークの保健室の先生は腕にアイスノンを当てながら「冷やせば大丈夫」と事も無げに言った。それでもあたしの目には、黒っぽい青タンはひどく痛そうに見えた。
中尾くんに付き添っていた野球部のマネージャーと先生が保健室を出て行くと、白い部屋の中にはあたしと中尾くんと、そして逸見くんだけが残る。二人に挟まれているのはちょっと居心地が悪くて、パイプ椅子に座ったお尻がざわざわとする。
「大丈夫なの、それ」
「大丈夫だよ。市原、心配かけてごめんな。そして逸見も」
更に何か言いたそうな中尾くんに、逸見くんがあぁ、とちょっと目を大きくする。
「俺と市原、同じ中学出身でさ、今もトモダチなわけ。だから会えば話すし。一緒にいるからって別にそういうことじゃないからさ、勘違いするなよ」
中尾くんはそうなんだと口元だけで笑い、逸見くんは中尾くんの「勘違い」がそんなに面白いのかいつまでもにやにやしていて、あたしは唇を笑いの形にするだけでどちらにも何も言えない。逸見くんの何気ない「トモダチ」という言葉が、耳奥をチクチク刺す。
と、軽い足音が保健室に近づいてきて、ドアが勢いよく開いた。肩で呼吸する黒井さんは逸見くんに焦点を合わせた途端ぱっと笑顔になり、飼い主の帰りを待ちわびていた小型犬のように勢いよく逸見くんにしがみつく。
「
「何やってんだよ、人前じゃん」
たしなめながら苦笑いしてる逸見くん。ほんとはちっとも怒っていないんだろう。目の前で当たり前に触れ合う二人の腕が、あたしの中から何かを引きずり出していった。
「なんで電話出てくれないのよー、先帰っちゃったのかと思ったぁ」
「あっごめん、スマホ、昼休みに充電切れてた」
「そんなことだと思った! そういうの、早く言ってよね」
くるくるした可愛い目で逸見くんを見上げる黒井さん。ショートボブの頭を優しく撫でる逸見くんの手。見たくないのに、二人から視線を剥がせない。逸見くんたちはピーナッツみたいにくっついたまま、仲良く保健室を出て行く。
「じゃあまたな、市原。中尾はお大事に」
ちらっと振られた手のひらが悲しい。大好きな人が隣にいる逸見くんは、あたしがさっき何か言いかけたことさえ忘れてるみたいだ。
黒井さんがまるで奥さんか何かみたいに、あたしと中尾くんに向かってちょこんとお辞儀する。幸せそうな笑顔が無言のうちにあたしに釘を刺す。逸見陸人の彼女はあたしなのよ、と。
二人の足音が遠ざかっていくと、保健室の中は無音になる。中尾くんは一生懸命言葉を探している顔であたしを見てるけれど、そんな中尾くんに何か言ってあげなきゃいけないと知って、今のあたしは自分のことしか考えられない。
告白なんて、しなくてよかった。一瞬でも伝えようとしたあたしが馬鹿だった。傷つくだけなのに。そして傷ついたところで、この思いが消えてくれる保障もないのに。
「ごめんな、なんか」
中尾くんが床を見ながら呟く。大体ぼそぼそとしゃべる人だけど、いつも以上に声に力がない。
「市原さ、今俺のことすごい格好悪いって思ってるだろ」
「え、そんなこと」
「いや、いいよ。たしかに今日の俺格好悪いし。デットボールとか」
痛そうにアイスノンを握り直す中尾くんは、やっぱり何かに気づいてる。
あたしはこの人を傷つけている。自分を好きでいてくれる人を苦しめている。絶対に自分を好きになってくれない人を好きでいるために。
「ねぇ、キスしようか」
中尾くんが顔を上げる。一重の目が驚いている。あたしは身を乗り出す。
自分でも驚くほど、冷静だった。こういう時相手が逸見くんだったら、緊張とときめきとで、心臓が破裂しそうになったりするんだろうか。
「ね、しよう」
もう一度言う。中尾くんの瞳に驚きとは違う光が宿って、そっと閉じられる。肩に手を回される。大きくて分厚くて、あったかい手だった。男の子の手は女の子の手とは全然違っていて、そういえばまだ中尾くんと手を繋いだこともなかったんだと気づいた。
生ぬるい息が顔にかかった時、ドアが開いた。二人、一斉に身体を離すと、まるぽちゃの保健の先生が眼鏡の向こうで目を見開いているのが見えた。