家に帰ってくると
斜め後ろからアイスをひとつ拝借してぱくっと口に入れると、テレビに目を向けていた梨穂があっと我に返り、口を尖らせる。画面には小中学生の女子に人気の、甘い顔立ちの男性アイドルが映っていた。
「ひどい。これ、自分のお小遣いで買ったのに」
「テレビに気を取られてるほうが悪ィの。いいじゃんあと三つもあるんだから。大体お前、こんなの六つも食べたらぶくぶくに太っちまうぞ」
「成長期だからいいの。それより今のアイス返して」
「返せるわけないだろ。わかった、後で一個分のアイスの金払ってやるから。それいくらだ? ひと箱二百円ぐらいだっけ?」
それでもぶうぶう言っている梨穂は、小学六年生。我が妹ながら結構可愛い顔立ちをしていると思うし、だからこそ近頃将来が危ぶまれる。素直でなんでも顔に出す性格なだけに、俺みたいなすぐに女に手を出す男に引っかかってしまわないか、心配なのだ。
台所で包丁の音をさせていたオフクロが俺を呼ぶ。
「陸人、ちょっとこっちに来なさい」
「後じゃ駄目?」
「今すぐ。話があるの」
重々しい言い方がちょっと気になった。まさかこんなに早くみかるの妊娠がオフクロにバレるわけはない、隼悟以外の誰にも話してないんだから。不穏な鼓動を鳴らす心臓を理性で押さえつけながら台所に向かうと、オフクロはじゃがいもの皮を剥きながらしゃべり出した。
「あんた、
「えっ嘘慶介さんが? 初めて聞いた。何で、慶介さんまだ大学生じゃん」
「だから、あれよ、出来ちゃった婚」
あぁ、と口をOの字にしながら、オフクロの言わんとすることがわかった。
我が家の斜向かいに住んでいる慶介さんは俺より二つ年上で、小さい頃はよく一緒に遊んでたし、中学も同じところに通っていて、当時所属していたサッカー部では先輩と後輩の仲だった。
それにしても、白いシャツがよく似合う爽やか系の端正な顔立ちをしていて言動行動はごく真面目で、彼女がいるってウワサも聞いたことがなかったから、出来ちゃった婚とは想像も出来なかった。オフクロが包丁を動かす手を止め、布巾で手を拭いながらこっちを向く。
「それが相手は年下で、まだ高校生なんだって。だから向こうの親御さんとすごい揉めて、大変だったらしいのよ。結局きちんと籍を入れて、相手の女の子の家で慶介くんも一緒にみんなで暮らすことになったそうだけど」
「へぇ。しかしびっくりしたな、あの慶介さんだろ? どうしても上手く信じられないんだけど」
「あんたも気をつけなさいよ、ほら、みかるちゃんだっけ? あの子とまだ続いてるの?」
やはり、話が俺が想像した方向に向かおうとしている。一度だけ、みかるがどうしても親に紹介してほしいというので、この家に呼んだことがある。
オフクロは緊張して気を遣い、俺も気を遣い、二人ともグタグタに疲れてみかるだけが一人満足しているという、何とも変な一日だったけれど。みかるは自分の家にも来てくれとうるさいし、人前でも平気でベタベタしてくるし、とかく第三者に俺とカップルであることを宣伝して回ろうとする傾向がある。
最初のうちはそういうところも可愛らしく見えていたのだが、近頃はうんざりすることのほうが多い。誰も知らなくたって俺とみかるはカップルで、俺はそれでいいと思うのに、みかるはそれだけじゃ満足しないのだ。
「まぁ、続いてるよ」
「そういうことだけは本当にやめてよね。あんたまだ高校生なんだから」
「わかってるよ」
「二人とも、なんの話?」
アイスのパッケージを持ったまま梨穂がちょこんとリビングから顔を出して、オフクロが子どもは聞かなくていいのと少しきつめにたしなめた。
梨穂が納得いかなそうな顔で俺とオフクロをかわるがわる見る。俺は冷蔵庫からコーラのペットボトルを出してコップに注ぎ、それを持ってそそくさと部屋に退散する。
昨日みかると抱き合い、生理が来ないことを告げられたベッドの上に仰向けに転がって、天井を見つめる。この部屋にはクーラーはついてないが、開け放した窓から入ってくる風が気持ち良く、なかなか涼しい。
隣の家の軒先にぶら下がった風鈴の音が聞こえる。大学生にして早くも父親になろうとしている慶介さんは、今頃何を考えているだろうか。そしてその相手のまだ高校生だっていう女の子は、どんな気持ちでいるんだろうか。
オフクロにもオヤジにも、みかるの妊娠のことはとても言えない。言ったところで、彼女が子どもを産むから許してほしいだなんて、首を縦に振ってもらえるわけがない。
我が家はそれほど厳しくなく、まずまず自由にはしてもらえるものの、オフクロもオヤジもきちんと世間の常識に
だからって俺はみかるに「堕ろしてほしい」なんて言えるんだろうか。そのほうが無理だ。親がどうこうだとか、まだ高校生だからとかいう以前に、俺は絶対そんなことはしたくない。
中三の時の性教育で、母親のお腹にいる赤ん坊を堕胎するという映像を見せられたことがある。麻酔をかけられ、眠っている母の胎内で、赤ん坊は逃げ回るのだ。
まだうっすらとしか人間の形をしていない不思議な生物なのに、それでも生きようという意志を持って逃げる。ペンチのような器具が無情にも赤ん坊の頭を捕らえ、ぐしゃりと押しつぶす。
体育館のプロジェクターでその映像を見せられた後はみんなしぃんとなってしまったし、貧血で倒れたりトイレで吐いてしまった女子もいた。そんな衝撃的過ぎる映像を多感な中学生に見せるのが良いか悪いかはわからないけれど、少なくとも俺にとってはその過激な方法は成功したのだ。
俺は絶対に、これから先の人生で女の子にそんなことはさせたくないと思った。それもただの女の子じゃない。自分が好きな人で、自分のことを好きと言ってくれる人なのだ。
しかしだからといってじゃあ毎回避妊を徹底するかというと、それはまた別の話だったりする。繰り返すが、望まれない妊娠なんてドラマや映画の中だけの出来事だと思ってた。高校生で彼女を妊娠させて学校を辞める奴なんて、馬鹿なんだと笑ってた。ところが現実にはそういうことは、俺が想像していたよりずっと多く起こっているのだ。
今頃自分のいい加減さを呪っても、もう遅い。