昼休みのみかるのクラスは、騒がしい。理系クラスで女子が八人しかいないのに、その八人がやたらうるさく、女のゲラゲラ笑いがボリューム大で廊下に飛び出してくる。
教室を覗き込むと八人が机をくっつけて弁当を食べていて、大口を開けて笑っている篠崎がまず目に入った。このクラスの女子のうるささの原因は、おおかた篠崎らしい。
みかるは篠崎の隣で腹を抱え、目を潤ませている。会話が切れ切れにしか聞こえないので何を話しているのかはわからないが、とにかくおかしくてたまらないようだ。無邪気な笑顔に心がピリリと尖る。
大変なのはむしろ俺よりもみかるのほうなのに、なんでこんな時にあんなふうに笑えるんだろう? 俺なんてあの衝撃的過ぎる一言以来、一度も本気で笑えていないのだ。みかるの神経が理解出来ない。
通りがかった知り合いの男子が俺に気づいてくれたのでみかるを呼び出してもらう。ちょこちょこと廊下に出てきたみかるは俺と目を合わせた途端、表情が強張る。
さすがに昼休みの廊下で出来る話じゃないので階段を全て上り、屋上のドアの目の前まで来て向かい合った。踊り場には今は使用されていない机が薄く埃を被って積み重なり、屋上に続くドアは今日もきちんと施錠されている。生徒の間では告白スポットとして有名な、人気のない静かな場所だった。
「病院、行った?」
みかるは上履きの先っぽを見つめながら、叱られている子どものように答える。
「行ってない」
「なんでだよ、早く行けってラインしたじゃん。まずはほんとに出来てるのかどうかはっきりさせないことには、どうしようもないだろう」
「でも、怖いよ」
いつも無邪気に俺を見つめていた丸い目は今日は気まずそうに沈んでいて、俺の中で苛立ちが更に膨らんでいく。
もっとしっかりしろよ、と思っていた。怖いのはわかる。どうしたらいいのかわからなくて立ち尽くしてしまう気持ちもわかる。けれどこれは俺よりもむしろみかるの問題じゃないか。出来ていたとしたら、どっちの選択を取ることになるとしてもみかるの身体に負担のかかることじゃないか。本人がしゃんとしてなくてどうする?
「そりゃ、俺だって怖いよ。けどまだ、妊娠してるって決まったわけじゃないし。そうだとしたら、早いうちに病院行かないといけないし」
堕ろす、という言葉も産む、という言葉もどちらも口に出せなかった。みかるも俺の言いたいことは薄々わかっているらしく、死刑宣告を待つ人のような顔で俯いている。
しばらく、気詰まりな沈黙が流れた。
「とにかく、このままってわけにはいかないだろ。俺も一緒に行くから、病院行こう。今日の放課後」
「今日は無理。部活があるの」
みかるは週に一度活動する茶道部に所属している。部活っていっても文化系のユルい部活なんだからいくらでもサボれるし、行ったところでどうせ同じ部の篠崎とかと茶を飲んでお菓子を食べてダベるだけなのに。
苛立ちが限界まで上りつめそうになる。自分の身体の問題よりも部活のほうが大事なのか? そう言おうとして、やめた。みかるの目が涙で盛り上がり始めていたから。
「ねぇ、陸人。もし出来ちゃってたら、陸人の赤ちゃん、産んでいい?」
涙ながらに見つめられ、喉の奥がスーと冷えていく。それだけは今絶対口にしてほしくなかったんだと、後ずさりたくなる足を震わせながら気づいた。みかるの声が上ずる。
「あたし、堕ろすなんて、それだけは絶対嫌。陸人の赤ちゃんは、陸人の分身みたいなものだもの。陸人を殺すぐらいなら、あたしが死んだほうがいいもん」
「いいよ」
俺の声も掠れていた。まっすぐ迫ってくる瞳がきょとんと俺を見上げた。
今みかるに必要なのは本当の気持ちじゃなくて、とりあえず安心出来るための言葉なのだ。
「本当? 本当にいいの? そうなったら、大変だよ。親とか絶対反対するし、陸人、高校やめて働くことになっちゃうよ?」
今さっき堕ろすなんて絶対嫌と言い張ったくせに、次の瞬間にはそんなことを言う。なぜか口元が笑いの形に歪む。
「いいよ、それでも。高校とか将来のこととかより、みかるが一番大事だから」
「……よかった」
みかるが首の裏に腕を巻きつけてきた。あんまり強く身体を押し付けてくるので下腹が大丈夫かと気になったが、重ねられた唇が小さな気がかりを吹き飛ばした。
応じるとみかるはうっと口の端からため息を漏らし、うずうずと腰をくねらせる。見た目はロリ系の清純派アイドルって感じなのに、意外にいやらしいのがみかるの長所だと、俺は勝手に思ってる。半ダチになってたけど学校じゃさすがにこれ以上は無理だ。
教室の前まで送っていくと、みかるは小さく手を振りながらウキウキ顔で篠崎たちのところへ戻っていく。スキップしそうな後姿にため息をつきそうになった。
あいつ、本当に事の重大さをわかってないんじゃないのか? そして俺は今もそんなみかるが好きなのか?
去年の夏休みに初めてセックスした時、みかるはものすごく可愛かった。まだバージンで俺がいくら頑張ってもちっとも濡れなくて、いざ入れてみたら痛みで悲鳴を上げる。
その前の彼女、すなわち初体験の相手が年上で優しくリードしてくれてよくサービスもしてくれる人だっただけに、ちょっと興ざめしそうになった。
けれどみかるは痛いのに、一刻も早く抜いてほしかっただろうに、俺の身体にしっかりしがみついて「抜いちゃやだ。ずっとここにいて」なんて言ったのだ。あの時、俺ははっきりとみかるへの気持ちを自覚したんだ。
コクってきた子の中では一番顔が可愛かったから彼女に選んだってだけだったのが、あの瞬間にぐいと気持ちが押し上げられた。好き、という熱い思いをぎゅっと噛み締めると、甘いものは全身の隅々まで行き渡り、その瞬間から世界は一段も二段も明度を上げて俺の瞳に映りこむ。
だけど永遠に続くことなく、どこかの時点で冷めてしまうのが恋というものなんだろうか。みかるに甘えられたり抱きつかれたり見つめられたりする度、切なさを伴う息苦しさを感じるようになったのは、いつからだろう?