午前中降っていた雨は放課後には止んで、朝使った傘が帰りには邪魔になった。地元のホームに下りた頃には空全体に敷き詰められた雲に切れ目が出来て、白々とした日の光が細く地上に降り注いでいた。
アスファルトはまだ乾いていなくて、道路のわずかな窪みに出来た水溜りに逆さまの俺が映る。その数メートル後ろにスカートを履いた人影が見える。見慣れた制服だった。
「あ、市原じゃん」
声をかけると市原は少し困ったように微笑んだ。同じ中学出身で同じ駅を使うため、行き帰りに時々こうして顔を合わせ、話すこともある女だ。
隣に並ぶと、二つに結んだ髪がちょうど俺の肩の辺りに来た。一五〇センチしかないみかるに比べると背が高い。俺が一七五あるので、本来はこれぐらいの身長差のほうがちょうどいいんだろう。
「なんだよ、近くにいるなら声かけてくれればよかったのに」
「だって逸見くん、なんか考え事してるみたいだったから」
「考え事? んーまぁそりゃ、俺だって考えることぐらいあるよ」
本当は、陸人を殺すぐらいならあたしが死んだほうがいい、なんて泣きながら言ったみかるの顔が頭の裏に浮かんだり沈んだりしていたのだが、もちろん市原にそんなことは言えない。誤魔化すように笑いながら当たり障りのない話題を出す。
「そういえば、最近中尾とはどう?」
可愛いとかきれいとかいうタイプじゃなく、至って地味な市原にも、最近彼氏が出来たのだった。相手は野球部の中尾で野球一直線の真面目な男で、しかし付き合うのが初めての市原は中尾にどう接したらいいのかわからないと俺に相談してきて、ちょっとアドバイスしたことがある。市原の顔がにわかに曇った。
「もう、別れちゃった」
「え? 早くない!?なんでだよ」
「うーん、いろいろと、ね」
市原がなぜか頬を赤らめながら、苦そうに微笑んだ。なんで、なんて不用意な発言だった。大人はたかが高校生の恋愛だろうと言うんだろうが、たかが高校生にだって、いやむしろ高校生だからなのか、ひょっとしたら大人以上に辛いかもしれない思いをすることもある。
ひどい別れ方をした奴の話なんて、いくらでも聞く。市原と中尾だって例外じゃない。雰囲気をこれ以上暗い方向に持っていかないよう、気をつけて言葉を選ぶ。
「そっか、お似合いだったのにな」
「逸見くんは? 黒井さんと、上手くいってるの?」
「まぁ、上手くいってるっちゃあ、いってるけど」
「けど、何?」
今度は俺が苦笑いをする番だった。もし市原にみかるが妊娠したかもしれないって言ったら、どんな顔をされるんだろう。見た感じまだバージンだし、セックスという単語を口にすることにすら抵抗がありそうな子だから、軽蔑されるかもしれない。とんでもない、なんてことをするんだ、汚らわしいって、二度と俺と口を聞いてくれなくなるかもしれない。
他の奴はどうだろうか。隼悟は信用出来るとして、中には俺の前から去っていく奴もいるだろう。全ての友だちを無条件に信頼できるほど、俺はお人よしじゃない。しかしそれも仕方のないことなのだ。俺たちにとっては妊娠も出産も結婚も、まだあんまり遠すぎる。普通は軽蔑か好奇心の対象にしかならない。
だから、産んでいいと言ってあんなに喜ぶみかるの気持ちがわからないし、喜べるみかるがちょっと怖くもあった。
「逸見くん、どうしたの?」
市原が心配そうに顔を覗き込んできて、俺は我に返る。取り繕うための微笑を顔に広げる。
「なんでもない。いろいろあるんだよ、俺たちも」
「そっか。ラブラブな逸見くんと黒井さんにも、いろいろあるんだね」
「ラブラブって。俺とみかる、そんなふうに見えるの?」
「うん、とってもラブラブでお似合いで、幸せそうだよ。客観的に見たら」
市原の言葉を喉の奥で繰り返してみる。ラブラブでお似合いで、幸せそう……他人にはそんなふうに見えてしまうのか。男と女はわからない、外からは幸せそのものに見えている二人だって、本人たちの間には解決しがたい問題が秘められている、というのは本当らしい。
まもなく市原が住んでいるマンションにたどり着いて、エントランスに消えていく市原を見送りながら、市原って癒し系だよなぁとちょっと思った。のっぺりした童顔も少し離れ過ぎた目も平凡としか言いようがないけれど、誰もが認める美少女のみかるといる時よりむしろ、平凡な市原といる時のほうが癒されている気がする。
今までは彼女を顔で選んできた。コクってきた子の中から可愛い子を選んで、付き合っていただけだった。本当はみかるよりも市原みたいなタイプのほうが、楽しく付き合えるのかもしれない。