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第四話 彼女の妊娠(6)

弁当を食べ終わった後、隼悟が本屋の紙袋を差し出してきた。でかい雑誌がすっぽり入るサイズの茶色い袋には、学校の近くの本屋の名前がプリントされている。



「何、エロ本?」

「ちげぇよ。あ、出すなって」



 袋の口を開けて本は入れたまま、隙間から表紙を窺うと、『妊娠と出産』という文字が見えた。隼悟が俺の耳に口を寄せ、小声で言う。



「姉貴が使ってた部屋の本棚にあった」


 隼悟には六歳年上の姉がいる。ハタチで妊娠しデキ婚、二十一歳で出産した元ヤンの典型的なヤンママだ。俺が隼悟の家庭について知っていることはそれぐらいで、俺が時にオフクロへの不満をべちゃくちゃ吐き出すのに対し、隼悟は自分の家族のことをほとんどしゃべらない。何か事情があるのかもしれない。気にならないわけじゃないが、今考えるべきことは他にある。



「サンキュ。今見ていい?トイレで」



 俺らは何気ない顔をして教室を出て、トイレに向かった。ある意味エロ本よりずっととんでもないものを手にしているせいで、すれ違う同級生たちの笑い声が耳についた。



 二人で男子トイレの個室に入った。まるでいじめか、そうでなきゃ昼間っから発情してるゲイみたいだなと、隼悟があまり面白くない冗談を言った。


ずっしりした重い本には、妊娠の判定から新生児の子育てについてまで、かなりの情報が詰まっていた。女が子どもを身ごもり、産み、育てるという行動に、こんなにたくさんの知らなければならないことがあるんだなぁと、妙に感心してしまったくらいだ。


でも出産や子育てのことはとりあえず今はいい。俺が気になってしょうがなかったのは、本の最初のほうの、妊娠初期に女の体に出る症状について書かれたページだった。



「頭痛、眠気、だるさ。なんか風邪みてぇだな」

「黒井、最近具合悪そうにしてなかったか?」

「いや、特に」

「まぁ、個人差があるって書いてあるしな、ここに」



 隼悟の指がページの端っこを指差す。昼休み終了五分前を告げるチャイムの音に、びっくりする。どうやらかなり夢中で読んでいたらしい。


 本を元通り袋にしまって歩き出す。昼休みの終わりかけた廊下は人の姿がまばらになりかけていて、喧騒の主体は教室に移っていた。



「隼悟、ありがとな」

「あとはお前が頑張るんだぞ」

「わかってる」



 隼悟が大人びた笑いを見せて、強めに背中を叩いてきた。こういうところが、こいつの本当にいいところなのだ。


 放課後は衝撃的告白があった日以来の、みかるとのデートだった。校門の前で待ち合わせ、無言のまま歩き出す。いつもならみかるは周りの目も気にせずに腕を絡めてくるのに、今日は困ったように俯いている。俺は今よほど怖い顔をしているのかもしれない。こっちだって気が重いんだからしょうがなかった。



「病院、行くぞ」


 有無を言わせない口調、というやつを作った。誰かに対してこんなに強い態度に出るのは、いつ以来だろう? みかるがさっと顔を上げる。丸い目が怯えて揺れている。



「お金ないよ」

「俺が出す」

「……陸人以外の人にあんなところを見られるなんて、絶対嫌。陸人はいいの?」

「そりゃ俺だって嫌だけど、仕方ないじゃん。もう嫌とか怖いとか言ってる場合じゃないんだ、これ以上先延ばしに出来ない」



 みかるは再び下を向いて長いこと黙った後、検査薬にしよう、と文字通り蚊の鳴くような声で言った。百歩譲って薬局に行くことにした。本当は病院のほうがいいと思っていた。コンドームと一緒の棚で売られていて誰もが気軽に手にすることの出来る市販の妊娠検査薬は、なんだか信用出来ないような気がしたのだ。



 俺の地元の駅で一緒に降り、駅前のドラッグストアに入る。黄色地に黒のロゴが目印の全国展開されてるチェーン店で、高校生が家路を目指し、家庭の主婦がこぞって買い物に出るこの時間帯は、店内には比較的人が多い。


寄り道せずにまっすぐコンドームのコーナーに向かい、棚の端っこから素早く妊娠検査薬を引き抜く。整髪料や絆創膏を買う時みたいに、ごく自然な手つきで。レジに向かう俺の後ろを、みかるは連行される犯罪者にも似た表情でとぼとぼとついてきた。



「千五十円です」



 二十代も終わりかけたぐらいの黒縁眼鏡をかけた男の店員は、ピッと軽い音をさせてバーコードを読み取り、中身が見えないようになっている茶色い袋に手馴れた手つきでブツを押し込んだ。完璧なポーカーフェイスだったが、それがかえってわざとらしい。俺は制服だ。みかるも制服だ。せめて家で着替えてから、私服で来るべきだったかもしれない。



 この人はきっと、俺たちのことをとんでもない高校生だって思ってるんだろう。高校生はセックスなんかしないで勉強するべきだって、大人の理屈はわからないわけじゃないし、反論するつもりもない。しかし理屈は理屈、現実は現実であって、そんな無力な正論を振りかざす大人たちは、自分が高校生の時はわき目も振らず勉強していたんだよと、堂々と俺らに向かって言えるんだろうか?



 高校生というのは、きっと人生の中で一番退屈でダルい時期なんだと俺は思う。将来の夢なんてない。特に頑張りたいこともない。部活なんかには打ち込めない。


だらだら過ぎていくルーティンワークの毎日を楽しくするためには、娯楽が必要だ。漫画、ゲーム、カラオケ、ボウリング、飲酒喫煙、そして恋愛。


顔が悪くて恋愛出来ない奴は仕方ないけれど、そうじゃなかったら大いに恋愛するべきだろう。顔がいいというのは恋愛する権利があるってことで、与えられた権利を放棄するなんて馬鹿なことだ。そして当然、恋愛にはセックスという最高のオマケがついてくる。



 オフクロはパートの日で梨穂はミニバスの練習日で、オヤジはいつも九時過ぎまで帰ってこない。がらんとした家にみかるを入れ、早速トイレに向かわせる。ベッドの端っこに腰掛けて、結果を待つ。


時間は水あめが落ちるようにおもむろに過ぎていき、クーラーのない自室は蒸していた。外は雨が降り始め、屋根を叩く水音に心臓をノックされているようで、嫌な鼓動はペースアップしながら脳を揺さぶる。


ついに腹まで痛くなってきて、タバコに火をつけた。もしみかるが妊娠していたらタバコもやめなきゃいけなくなるんだろうと思いついて、もっと腹が痛くなった。



 時計の長針が7から10まで移動したところで、みかるが戻ってきた。どちらにも取れそうな、張り詰めた顔をしていた。どうだった? と聞きたいのに、何を言おうとしても言葉が唇の間からすり抜けていく。心臓が火を噴きそうに熱い一方、タバコをつまんだ右手は氷に突っ込んでるように冷たい。



「出来てなかった」

「よかった」



 まだだいぶ吸えるところの残っていたタバコを灰皿代わりのコーラの空き缶に入れて消して、そのまま仰向けにベッドに転がった。体じゅうの筋肉が一気に弛緩して、汗腺に溜まってた汗がどうっと吹き出してくる。


長いプレッシャーから開放されると、心地よい安堵が押し寄せてきた。この三日間、当たり前に続いていた毎日がいきなり消えてなくなる不安に脅かされ続けていた。こんなサディスティックなプレイは、二度とごめんだ。



「そんなに喜ぶことなくない?」


 冷ややかに怒っている声に上半身を起こすと、みかるは使用済みの妊娠検査薬片手に俯いていた。俺と違って、みかるはちっとも安心していなかった。



「なんで? 喜んじゃいけないのかよ。出来てたら、大変なのはみかるも同じだろ」

「そうだけど。そうだけどあたし、陸人と結婚したかったのに」



 何のためらいもなく出た単語がずしんと重い。みかるが不気味だった。


目の前の高校二年生の少女は大きな目からぽろぽろ涙をこぼし、それをやけっぱちのように手の甲で拭っている。薄くマスカラを塗っているから、白い手が少し黒くなる。本気で妊娠していないことが残念らしい。


 予想外の反応に戸惑いながら、慌てて言葉を探した。



「そんな、焦ることないだろ。今は無理でも、そのうち」

「そのうち……そうなる?」

「あぁ」



 たしかに自分のものなのに、他の人から発せられたような声。みかるがしがみついてくる。暖かい涙が俺の頬を濡らす。


 その後俺は、とりあえずみかるとセックスした。俺は妊娠というプレッシャーから解放された安堵感で、そしてみかるはおそらく俺からプロポーズめいたことを言われた嬉しさで、いつもより激しく互いを求め合った。だけどどんなに深いところに自分自身を埋め込んでも、さっき感じた不気味さは消えなかった。


 妊娠も結婚も、ドラマや映画の中では美しく描かれるけれど実際はとてもとても大変なことで、なのにみかるはちっともそれがわかっていないのだ。まだ高校二年の子どもだから? いや、きっとそれだけじゃない。


 みかるは俺を好きなあまりに、現実が見えていないのだ。そして俺は、そんなみかるが怖かった。


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