太陽がだいぶ、地表に迫っていた。商店街は赤ちゃんや子どもを連れた女の人やあたしと同じくらいの制服姿や、少し怒った顔で歩く勤め帰りのOLさんぽい人やらが行きかっていて、賑やかだった。
どこからか今流行りのアイドルソングが聞こえてくる。恋をすることは幸せ、愛されるのは素晴らしいとか、そんな感じの歌詞。
そう、愛されるって素晴らしい、きっと。でもあたしはそんな、ごく普通の人に普通に愛される普通の幸せすら掴めないまま、おばちゃんになっちゃうのかもしれない。
こういう時大人は、まだ若いんだし未来があるとかそんな感じのことを言うんだろうけど、今まで一度も上手くいかなかったことがこの後上手くいくなんて保障は、どこにもない。
「麻央……?」
少しカサカサした響きの、男にしては高い声。間違えようがない。足がぴしっと固まる。
勢いをつけて振り向くと、駿がよっ、と歯を見せて笑った。あの頃よりずっと逞しくなった身体が紺色の作業着に収まっていて、あたしが好きだった長めの金髪は黒に戻され、丸めたと言っていいほど短く刈られている。他にもいろんなところが違っていたけれど、笑い方は二年前のままだ。
「駿」
「マジ久しぶりじゃん。わー懐かしー。てかどうしたんだよ、そのほっぺ」
客観的に見てもすぐ殴られたってわかるだろうに、わざとらしく冗談めかして言う。きっとこの人は、あたしが気分ルンルンって感じで颯爽と通りがかってたら、声をかけてくれなかっただろう。
明らかに殴られましたーってのが丸わかりの真っ赤な頬で、とぼとぼ歩いてたから気を遣ってくれたんだ。そういうところが、たまらなく好きだった。
つい涙ぐんでしまうあたしの肩を押し、駿は商店街から少し離れた公園に連れて行ってくれた。住宅街の中にぽっかりとある、遊具の少ないだだっ広い公園。
ここで何度か、自転車でウィリーに挑戦したりスケボーをやってる若者の姿を見たことがあったから、子どもの遊び場というよりはそういう目的で使われてるんだろう。
凶暴な白から優しいオレンジに色を変えた太陽が穏やかに照らす世界、頬の痛みを忘れさせる風が吹いてくる。更に駿が買ってきてくれたジュースの缶をしばらく殴られたところに当てていると、そこに溜まっていた熱はすっかりなくなった。
「大丈夫か?」
「うん」
「てか、何があったの?」
「別に……なんでもない」
「そっか。まぁ、無理に話さなくてもいいよな」
恋人同士だった時よりも距離を空けて同じベンチに座ってた。駿はコーラ片手にタバコを吸い始める。セブンスター。見た目も中身もあの時からいろいろ変わっただろうけど、愛用のタバコは変わってない。もっともあたしは、駿よりずっといろんなところが変わっちゃってる。弘喜のことも遼のことも隼悟のことさえも、駿には話せそうにない。
「ほんと久しぶりだよなぁ麻央とは。俺が去年ほとんど地元にいなかったからなんだけど」
「そうなんだ。駿は、最近どう?」
「最近か。幸せだよ、結婚決まったし」
駿のほうを見ると、駿はタバコを咥えながら恥ずかしそうに笑った。あたしには一度も見せたことのなかった顔だった。それであたしは初めて、ショックを覚えた。
駿はその顔のままで話した。一年と少し前、十歳も年上のとても素敵な女の人と知り合ったこと。その人が妊娠して、今度結婚することになったこと。彼女には前の夫との間の連れ子で小学生の息子がいるけれど、その男の子とも上手くいっているということ。
こういうところも、変わってない。まるで何も考えてないようにすごくナチュラルに、無邪気にあたしを傷つける、優しい唇。こんなふうに、他の女と寝たのを打ち明けられたこともあったっけ。ごめん、麻央、許してほしいんだ、って。
「その男の子って、どんな子?」
「普通だよ。将来はサッカー選手になりたいっていう、やんちゃ坊主。駿兄ィ、駿兄ィってすごい慕ってくれてる」
「へぇ、おめでとう」
「ありがとう。それで、あの時はごめんな、麻央のことあんなに傷つけて」
真面目な顔を作ったつもりみたいだが、目はまだ自分の幸せに酔って細まってる。駿よりは早く幸せにならなきゃ、そう思ってみた時もあった。でも実際は駿のほうがあたしよりずっと早く、幸せってやつを手にしたらしい。
「あん時は、俺もガキだったから。麻央にはほんと、ひどいことばっかで」
「いや、いいよ……あたしもあたしで、ひどかったし」
「全部俺のせいだよ」
二年前、よく聞いた台詞だ。全部俺のせいだよ、って。あたしが駿の浮気相手の家に冷蔵庫の端っこで腐ってた林檎を宅配便で送り付ける嫌がらせをした時、逆上してあたしの元に殴りこんできた女を前にこの人は何度こう言っただろう。
これから彼女と待ち合わせだという駿と別れて一人公園に残って、駿が買ってくれたファンタのグレープ味をちびちび飲みながら、中学の頃のことを思い出していた。初恋だった。
同じ中学の先輩で、一年の頃はただ見てるだけで、呼び出して告白したけど彼女いるからってあえなく玉砕して、それでも諦めきれずに駿が卒業して数ヵ月後、彼女と別れたってウワサを聞いてダメモトでメールでコクったらOKしてもらえて。
初めてのキス、初めてのデート、駿の部屋での初めてのえっち。初めてづくしの幸せな日々は長くは続かなくて、すぐに駿が浮気男だってことがわかった。しかもあまりに簡単に尻尾を出す浮気男で、あたしはその度に傷ついた。傷つきながら怒った。駿はその時は泣きながら謝るけど、許してしばらくしたらまた浮気が始まる。その繰り返し。
あたしはどんどん、おかしくなっていった。林檎の嫌がらせだけじゃなくて、相手の女をつけまわすストーカーまがいのこともしたし無言電話なんかしょっちゅうかけたし、駿自身にも包丁を突きつけたことがあった。
駿を殺してあたしも死んでやるって叫びながら、駿の部屋のものをめちゃくちゃにした。家に帰ってもイライラして親に当たって、部屋の壁紙があちこち傷ついた。
眠れない日々が続き、食事は食べても戻してしまい、体重が五キロも減った。身体も心もボロボロになってから、最後は自分から別れてって言った。
駿がシリアスな声を作りながら、それでもほっとした気持ちを抑えきれない顔でうん、と返した日の夜、薬局で睡眠薬を買ってきて一度にいっぺんに飲んでみたけれど、次の日頭がフラフラして気持ち悪くて何度も吐いてしまっただけで、死ねなかった。
それで終わりじゃなくて、不眠と拒食とイライラの日々は半年ほど続いた。
親はあたしがおかしくなったことに気づいたもののまさか恋愛問題で悩んでるなんて夢にも思わず、そしてあたしももちろん親にそんなことは打ち明けられず、学校の友だち関係が上手くいってないんじゃないかとか見当違いの心配をされて、とりあえずカウンセラーのところに引っ張っていかれたり精神的な症状によく効くという漢方を飲まされたり、随分ピントのずれた治療を尽くされた。
結果的にあたしを立ち直らせたのはカウンセラーのキラリと光る一言でも中国四千年の歴史に裏付けられた漢方の薬効でもなく、チンコだった。
ナンパしてきた男にやけっぱちでついてって、寝てみたのが最初。駿でなくても、一瞬でも、身体だけでも、誰かに求められるのが気持ちいいってことに気づいたら、止まらなくなった。
身体じゅうを気持ちよさでいっぱいにしたら、そのうち駿のことも駿が与えた痛みも、忘れられるって思った。一番必要とした人に必要としてもらえない痛みの、唯一の治療法。それは副作用のあまりに大きすぎる薬みたいなものだった。
間違っていることはちゃんとわかってる。でも、どうしたらいいのか本当にわからない。強くなれ、ってありがちな言葉は抽象的にしか聞こえなくて、あたしの問題を軽んじてさえいるようで、嫌いだった。