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第七話 恋愛ジャンキー(7)

いつのまにか、ファンタの缶が空になっていた。口の中は甘ったるくてしょうがないのに、胃がちっとも重くない。空の色が少しずつ薄くなり、西側から色が変わり始めている。


こんなに悲しいのに一向に涙は出てこなくて、ただ指先が冷たかった。バッグのファスナーを開け、スマホを引っ張り出す。


この瞬間、あたしのことを気にかけてくれている誰かは何人いるだろう? ラインはいくつか来ていたけれど、一番新しい隼悟のメッセージをまず見た。



『親が離婚決まった』


 別に驚かなかった。心のどこかで、きっとこんなことになるだろうという気がしてたんだと思う。ちょっと迷ってから、電話をした。



『もしもし』

「ライン見たんだけど」


『ま、その通りだよ。とりあえず、学校はやめなくて済みそうだけど』

「マジで? よかったぁ」



 本当の本当に、よかった。隼悟みたいな人は高校を辞めるべきじゃないから、きっと。ハスキーな声が明るく言う。



『うちの学校さ、奨学金制度あるだろ。それでしばらくやってみようってことになった。俺、ショーガクセイになるんだよ。奨学金もらって学校行くからショーガクセイ』



 くすっと口元を緩めた途端涙がこぼれて、堰を切ったように止まらなくなって、困った。どれだけ隼悟に癒されてきたのか、今さらのように気づいた。


 いけない。こんなに優しくてあったかい人を、これ以上あたしみたいな恋愛ジャンキーに付き合わせちゃいけない。あたしはどうしようもなく弱いけれど、きっとすぐ立ち止まって転んじゃうんだろうけど、それでも今なら踏み出せるんじゃないかと思った。



『……麻央?』

「うん」

『もしかして泣いてる?』

「……うん」

『……これから、会うか。どこいんの?』



 公園の名前を言うと、なんだ俺ん家のすぐ近くじゃんと驚いた声が返ってきた。十五分後、公園の端っこに隼悟の自転車が止まった。さっき駿と並んでたベンチには隼悟と座りたくなくて、入り口と車道を隔てている銀色の車止めにお尻を載せた。鉄が昼間の間にだいぶ日光を吸収したらしく、今でもほわんとあったかい。



「好きな人がね、結婚するんだ」


 隼悟が切なそうに目を縮めた。京子の言うとおり。この人はずっと、ちゃんと、あたしを好きでいてくれてたんだ。純粋な気持ちで告白してきたんだ。それをどうして、まっすぐ受け入れてあげなかったんだろう。


自分に自信がないばかりにずっと突き放してきて、馬鹿みたい。最後の最後になってやっと、あたしは隼悟と正面から向き合おうとしている。



「中学の時の、初カレ。ずっと忘れられなかった人。ずっと、すごく、好きだった人」

「……そっか」

「ごめんね、隼悟」



 何が、と八重歯の光る口が動いた。胸がきゅっと狭くなる。今更罪悪感なんか持っても何にもならないのに。



「あたし、その人のこと忘れたくていろんな人と付き合ってきた。隼悟もその一人だった。あたしはずっと隼悟の優しさに、甘えてた」


「……甘えちゃいけないの?」


「……あたしはもう、こんなことやめたいんだ。今さっき、二人の彼氏のうちの一人と別れてきた。もう一人とも別れるつもり。隼悟とも、これで終わりにしたいの」



 すとん、と立ち上がった。アスファルトの上にぼんやり影が伸びている。辺りはようやく暗くなりかけて、東の空から少しずつ青い闇に浸されていく。あたしの影の隣にいる車止めに腰掛けた隼悟の影は、地面に開いた穴みたいに暗く見えた。



「あたし、ちゃんとした女になるよ。男に甘えたり依存したりしなくても、すむような。さよなら」



 すぐに歩き出さなかったのは、隼悟が何か言ってくれることを期待してたからだろうか。動かし始めた足が震えそうだった。これでいいはずなのに、間違ったことはしてないのに、心は駿と別れた直後と同じくらい沈んで、地平線ぎりぎりの低空飛行状態だった。一人で歩くと、足はなんでこんなに重いんだろう。


 十メートルほどとぼとぼと歩いた後、勢いのいい足音が近づいてくる。



「麻央」



 振り返る暇もなく、後ろから抱きしめられた。最初、何が起こってるのかわからなかった。それが隼悟だということ、隼悟の腕がこんなに逞しくて温かいことに気づいた時、また泣き出しそうになっていた。未熟な心は、すぐ優しさに溺れてしまう。



「離してよ」

「離さないよ」

「なんでよ」


「麻央には無理だよ、一人でいることなんて。甘えでいいじゃん依存でいいじゃん。俺がちゃんと麻央のこと支えるから。麻央は弱い子だから、誰かが守ってやんなきゃいけないんだ。その誰かは絶対俺なんだ」



 隼悟の腕にあたしの涙が落ちた。隼悟がもっともっと力を強くした。海の底みたいにしんとした青い世界の片隅で、あたしたちはそっとくっついた。遠くで犬が吠える声がした。


 結局また、恋愛ジャンキーか。でもあたしはもう、一度にたくさんの男と付き合うことはないだろう。誰かとセフレみたいな関係にもならないだろう。自分の力じゃないにしろそれが出来るだけ、進歩と呼んでいいんじゃないの?


 あたしはいつだって甘いし、弱い。けど、いきなり厳しくも強くもなれない。だからとりあえず今は、これでいいんだと思う。許される甘えだって、きっとあるんだ。


 誰かの靴音が聞こえて、隼悟がそろそろと手を離した。振り返ると、白い顔が真っ赤になっていた。それを見ていたらなんだか恥ずかしくなってしまって、あたしまで頬が熱くなる。もっとすごいことを、今までたくさんの男としてきたのに。隼悟が自転車を取りに行って、戻ってきた。自転車を間に挟み、並んで歩き出す。



「麻央さ、いつ別れんの?もう一人の彼氏と」


「えっと、できれば今夜、電話したいな。電話で別れたいって言うのもあれだけど、まぁそんな、しっかりした付き合いじゃなかったから、たぶん大丈夫だと思う」


「そっか。じゃあ明日会ったら、麻央にキスしてもいいかな」



 えっと声が裏返る。隼悟がこっちを見て、にやりと八重歯を見せた。



「麻央の男が俺一人になるまでは、キスしないって決めてたんだ。この唇に昨日他の男が触れたんだって考えながらキスするのは、悲しすぎるだろ」


「……このカッコつけ野郎」



 こめかみをぱちんと指ではじいたら、隼悟がいってーと大袈裟な声を上げた。


 いつか、もっと、ちゃんとするから。簡単に甘えたりよっかかったりしない、自分の足だけで歩いていける女になるから。これから変わっていくあたしの姿を、あなたにしっかり見ていてほしい。



 空の端っこで雲がピンクに光っていた。いつか訪れる明るい未来からの便りみたいに。 

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