いつのまにか、ファンタの缶が空になっていた。口の中は甘ったるくてしょうがないのに、胃がちっとも重くない。空の色が少しずつ薄くなり、西側から色が変わり始めている。
こんなに悲しいのに一向に涙は出てこなくて、ただ指先が冷たかった。バッグのファスナーを開け、スマホを引っ張り出す。
この瞬間、あたしのことを気にかけてくれている誰かは何人いるだろう? ラインはいくつか来ていたけれど、一番新しい隼悟のメッセージをまず見た。
『親が離婚決まった』
別に驚かなかった。心のどこかで、きっとこんなことになるだろうという気がしてたんだと思う。ちょっと迷ってから、電話をした。
『もしもし』
「ライン見たんだけど」
『ま、その通りだよ。とりあえず、学校はやめなくて済みそうだけど』
「マジで? よかったぁ」
本当の本当に、よかった。隼悟みたいな人は高校を辞めるべきじゃないから、きっと。ハスキーな声が明るく言う。
『うちの学校さ、奨学金制度あるだろ。それでしばらくやってみようってことになった。俺、ショーガクセイになるんだよ。奨学金もらって学校行くからショーガクセイ』
くすっと口元を緩めた途端涙がこぼれて、堰を切ったように止まらなくなって、困った。どれだけ隼悟に癒されてきたのか、今さらのように気づいた。
いけない。こんなに優しくてあったかい人を、これ以上あたしみたいな恋愛ジャンキーに付き合わせちゃいけない。あたしはどうしようもなく弱いけれど、きっとすぐ立ち止まって転んじゃうんだろうけど、それでも今なら踏み出せるんじゃないかと思った。
『……麻央?』
「うん」
『もしかして泣いてる?』
「……うん」
『……これから、会うか。どこいんの?』
公園の名前を言うと、なんだ俺ん家のすぐ近くじゃんと驚いた声が返ってきた。十五分後、公園の端っこに隼悟の自転車が止まった。さっき駿と並んでたベンチには隼悟と座りたくなくて、入り口と車道を隔てている銀色の車止めにお尻を載せた。鉄が昼間の間にだいぶ日光を吸収したらしく、今でもほわんとあったかい。
「好きな人がね、結婚するんだ」
隼悟が切なそうに目を縮めた。京子の言うとおり。この人はずっと、ちゃんと、あたしを好きでいてくれてたんだ。純粋な気持ちで告白してきたんだ。それをどうして、まっすぐ受け入れてあげなかったんだろう。
自分に自信がないばかりにずっと突き放してきて、馬鹿みたい。最後の最後になってやっと、あたしは隼悟と正面から向き合おうとしている。
「中学の時の、初カレ。ずっと忘れられなかった人。ずっと、すごく、好きだった人」
「……そっか」
「ごめんね、隼悟」
何が、と八重歯の光る口が動いた。胸がきゅっと狭くなる。今更罪悪感なんか持っても何にもならないのに。
「あたし、その人のこと忘れたくていろんな人と付き合ってきた。隼悟もその一人だった。あたしはずっと隼悟の優しさに、甘えてた」
「……甘えちゃいけないの?」
「……あたしはもう、こんなことやめたいんだ。今さっき、二人の彼氏のうちの一人と別れてきた。もう一人とも別れるつもり。隼悟とも、これで終わりにしたいの」
すとん、と立ち上がった。アスファルトの上にぼんやり影が伸びている。辺りはようやく暗くなりかけて、東の空から少しずつ青い闇に浸されていく。あたしの影の隣にいる車止めに腰掛けた隼悟の影は、地面に開いた穴みたいに暗く見えた。
「あたし、ちゃんとした女になるよ。男に甘えたり依存したりしなくても、すむような。さよなら」
すぐに歩き出さなかったのは、隼悟が何か言ってくれることを期待してたからだろうか。動かし始めた足が震えそうだった。これでいいはずなのに、間違ったことはしてないのに、心は駿と別れた直後と同じくらい沈んで、地平線ぎりぎりの低空飛行状態だった。一人で歩くと、足はなんでこんなに重いんだろう。
十メートルほどとぼとぼと歩いた後、勢いのいい足音が近づいてくる。
「麻央」
振り返る暇もなく、後ろから抱きしめられた。最初、何が起こってるのかわからなかった。それが隼悟だということ、隼悟の腕がこんなに逞しくて温かいことに気づいた時、また泣き出しそうになっていた。未熟な心は、すぐ優しさに溺れてしまう。
「離してよ」
「離さないよ」
「なんでよ」
「麻央には無理だよ、一人でいることなんて。甘えでいいじゃん依存でいいじゃん。俺がちゃんと麻央のこと支えるから。麻央は弱い子だから、誰かが守ってやんなきゃいけないんだ。その誰かは絶対俺なんだ」
隼悟の腕にあたしの涙が落ちた。隼悟がもっともっと力を強くした。海の底みたいにしんとした青い世界の片隅で、あたしたちはそっとくっついた。遠くで犬が吠える声がした。
結局また、恋愛ジャンキーか。でもあたしはもう、一度にたくさんの男と付き合うことはないだろう。誰かとセフレみたいな関係にもならないだろう。自分の力じゃないにしろそれが出来るだけ、進歩と呼んでいいんじゃないの?
あたしはいつだって甘いし、弱い。けど、いきなり厳しくも強くもなれない。だからとりあえず今は、これでいいんだと思う。許される甘えだって、きっとあるんだ。
誰かの靴音が聞こえて、隼悟がそろそろと手を離した。振り返ると、白い顔が真っ赤になっていた。それを見ていたらなんだか恥ずかしくなってしまって、あたしまで頬が熱くなる。もっとすごいことを、今までたくさんの男としてきたのに。隼悟が自転車を取りに行って、戻ってきた。自転車を間に挟み、並んで歩き出す。
「麻央さ、いつ別れんの?もう一人の彼氏と」
「えっと、できれば今夜、電話したいな。電話で別れたいって言うのもあれだけど、まぁそんな、しっかりした付き合いじゃなかったから、たぶん大丈夫だと思う」
「そっか。じゃあ明日会ったら、麻央にキスしてもいいかな」
えっと声が裏返る。隼悟がこっちを見て、にやりと八重歯を見せた。
「麻央の男が俺一人になるまでは、キスしないって決めてたんだ。この唇に昨日他の男が触れたんだって考えながらキスするのは、悲しすぎるだろ」
「……このカッコつけ野郎」
こめかみをぱちんと指ではじいたら、隼悟がいってーと大袈裟な声を上げた。
いつか、もっと、ちゃんとするから。簡単に甘えたりよっかかったりしない、自分の足だけで歩いていける女になるから。これから変わっていくあたしの姿を、あなたにしっかり見ていてほしい。
空の端っこで雲がピンクに光っていた。いつか訪れる明るい未来からの便りみたいに。