放課後の通学路は駅に向かってずらりと同じ制服姿が続いている。江里と肩を並べて歩く俺の数メートル手前に、他の女子たちと笑い合いながら歩いている黒井みかるが見える。
なんで俺がこの特に接点のない女のことを気にするかというと、黒井が二年生の女子で三本指に入る可愛い子だからということと、その黒井に最近ちょっとした事件が起こり、俺もさんざん噂を聞いたからだった。
黒井はやっぱり二年生で三本指に入るイケメンの逸見陸人と付き合っていたが最近その逸見と別れ、不登校状態になっていたのだ。
くっついたり別れたりは高校の中では日常茶飯事だけど、男にフラれたからって不登校になる女はさすがに珍しい。それがアイドル級の可愛い女の子となれば、なおさらだ。
目の前の黒井は前より少し痩せたものの、それでも友だちと面白いことを共有して笑うその姿に、暗い影はなかった。不登校から脱出して再び歩き出して、何かを吹っ切った感じがした。女は強いなぁと思う。男よりも、ずっと。
「あぁ、彼氏って、
江里に葵の彼氏のことを聞くと、さっそく俺の知らない名前が出てきた。ため息をつきたい気分だった。
「誰だよそれ」
「葵、ファミレスでバイトしてるでしょ? そこの店長なんだって」
「いくつなんだよそいつ」
「たしか四十二って言ってたかな」
「二十五も上じゃん。それってまさか、奥さんとか子どもとかいたりしないだろうな」
「その、まさか」
江里の衝撃発言は更に続き、その店長のほうからアプローチしてきたということ、BMWもメルセデスも持っている金持ちだということ、先週都内の某高級ホテルのスイートで初めて寝る行為を済ませたことなどが、その後数分間で語られた。ショックというより、むしろ頭を抱えたい。いくらなんでも妻帯者はまずいだろう、葵。
「大人だからやっぱ、お金、すっごい持ってるんだって。今度、一緒に銀座へ高級フレンチ食べにいくんだって言ってた」
「お前親友だろ、なんで止めないんだよ」
「ひとがやめろって言ったところで、そう簡単に聞く子じゃないじゃない」
まぁ、そうだ。葵は頑固だし、一度自分がこうと決めたことは絶対に譲らないところがある。小さい頃、俺のお気に入りだった新幹線のおもちゃを自分のものにすると決めてしまい、おばさんに怒られてもそう簡単に折れず、泣いて騒いで大変だったことを今だに覚えている。
「でも不倫なんてやばいだろ、奥さんにばれて慰謝料とか請求されたらどうするんだよ」
「だから困ってんのよ、どうにかしてやめさせなきゃって。でも葵って、友だちに言われたからって考え変える子じゃないもんね。それがあの子のいいところでもあるけど」
江里の横顔は心配そうでとても優しくて、こいつは本当に葵の親友なんだなぁと改めて思った。俺が知る限り、葵にそんな友だちが出来たのは初めてのことだった。
「な、葵ってさ、女子の間ではどうなんだ?」
「どうって?」
「だからさその、あいつ、ちょっと変わってんじゃん?嫌われてたりしないのかって」
「嫌われてはいないけど、近寄りがたいって言ってる子は多いかな」
「いじめられたりとかはしてないのか?」
「しないしない。葵なんて、怖くていじめられないでしょ。確実に仕返ししてきそうだもん。倍にして」
江里は手を振りながら笑ってた。いくら親友でも、せいぜい一年三ヶ月の付き合いだ。まだ江里が知らない葵の一面は、たくさんある。
「あいつ、いじめられてたんだ。小学校の頃」
「うそっ」
「やっぱ、江里にもその話はしてないんだな」
小六の頃、葵は元は同じグループに属していたクラスの女子たちからきつい迫害を受けた。
原因はよくわからなかったが、おそらく割と勉強が出来たこと、小六にして既に時々男からラブレターらしきものをもらってたこと、何より生まれ持った性格のきつさを子ども社会の中で隠しきれなかったことが災いしたんだろう。
葵は「お高く止まってる」と言われた。「ちょっと可愛いからって調子に乗ってる」とも「勉強が出来るのをハナにかけてる」とも言われ、「ムカつく」はやがて「死ね」に変わった。
いじめといってもドラマに出てくるように、大勢でよってたかってリンチされたりトイレに連れ込まれて便器に顔を突っ込まれたりなんてことはなくて、グループ全体で無視したり教科書やノートを隠されたり、机の中に「あんたなんか嫌いだ、もう学校に来るな」というようなことを書いたノートの切れ端を押し込まれたりとか、そういうことのようだった。
それでも、「それぐらい」とは受け流せない。友だちが何より大事なはずの思春期の入り口に立った女の子にとって、今まで友だちだった子たちからむき出しの悪意を向けられるのがどれほど苦しいことだっただろう。
助けようとした俺は、伸ばした手をあっさり跳ねのけられた。ちょっと前まで仲のいい子数人と帰っていた葵が一人でスタスタ歩いていた下校中、一緒に帰ろうと声をかけたら、
「馬鹿じゃないの? 男にかばわれたりしたら余計いじめられるでしょ」
と、もっともらしい言葉が返ってきた。小六男子の幼い正義は、それだけでもろくもくじけてしまった。
葵だって平気じゃなかったんだろうが、不登校になることも体調を崩すこともなく、持ち前の精神力でもって残りの小学生時代を無事乗り切った。
卒業アルバムの集合写真でみんなが子どもらしい笑顔を浮かべている中、一人だけカメラを睨みつけ、ここから早く出たいと訴えている葵を見ると、俺がとった行動が本当に正しかったのかわからなくなる。葵は結果的にいじめを乗り越えた。しかし、失われてしまった時間は二度と戻らない。
あの数ヶ月のせいで、葵は子どもっぽく自分を迫害し、その迫害を楽しむ「女の子」という生き物が徹底的に嫌いになってしまったんだと思う。
だから「女の子」をすっ飛ばして、周りよりひと足早く大人の女になろうとした。セックスだって葵にとっては腕の毛を剃ったり化粧したり髪を染めたりなんかと同じ、大人になるためのひとつのステップで、俺はそのために使われた。
それがわかっても、そんなに悲しくはなかったし腹も立たなかった。むしろ葵の役に立てたことが、ちょっとだけ嬉しかった。葵も葵だが、俺も俺だと思う。
「へぇ、驚いた。葵、そんなこと一言も言わないんだもん。でも、いじめられたから子どもが嫌になって、だからさっさと大人になろうなんてのは、いかにも葵らしい考え方だね」
「だろ? つーか、江里ってなんで葵と友だちなの?」
「なんで? あたしが葵と友だちだったら、いけない?」
「いや、だってあいつ、協調性ないし。でも江里はすごい協調性、あるだろ。よく気が合うよなって。考えてみればなんか不思議でさ」
江里は社交的で友だちが多くて、対して葵は人とは一歩距離を置いて付き合うタイプだ。いや対人関係だけじゃなく、葵は世の中から常に一歩退いてるというか、一種のひねくれみたいなものを持ってすべてのものに向き合っていた。
長い間心から分かり合える友だちを持たず、いつも一人で決めて一人で行動してきた弊害なのかもしれない。江里は茶色い頭を揺らして笑う。
「それが合うんだよね。葵は変わった女の子になりたいだけの、ごく普通の女の子じゃない。保樹も知ってるでしょ?」
「まぁな」
「葵を近寄りがたいって言う人は、葵の本当を知らない人だよ。ううん、知ろうともしてないんだと思う。遠くから見てるだけじゃその人の本当なんて、絶対わかんないのにね」
「そうだな」
昨日、彼氏がいると俺を挑戦的に見つめた、拗ねた子どもみたいな葵の顔を思い出した。本当はなかなか気が強いくせに、好きな男の前では借りてきた猫のようで、結果人並みの女のように振り回されてばっかりで、相手の機嫌を取ることを無意識のうちに考えてしまう葵。それって本当に、すごく普通じゃないか。江里がぽつんと呟く。
「ほっとけないよね、葵って」
「あぁ」
ほとんど共通点のない江里と俺だが、ひとつだけぴたりと一致するポイントがある。葵のことが本当に好きだということ。葵に幸せになってほしいと思ってること。たとえ、幸せにするのが俺じゃなくてもいい、葵の笑顔が失われるのは、世界から光が消えるのと同じことだった。