目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第六話 子どもでいよう(3)

江里とボウリングに行ってミスドに寄って帰ってきたら、もう八時近かった。


夏は七時過ぎまでだらだらと明るいが、さすがにもう空は黒一色で塗りつぶされ、満月にほど近い銀色の月が煌々と地上を照らしている。


玄関のドアの向こうは真っ暗だった。スマホには今夜も遅くなると、オヤジとオフクロの両方からラインが入っている。うちは典型的な共働き一家で、夕食は俺一人のことが多い。


その代わり朝食と休日の夕食は家族そろって食べるのが暗黙のルールで、ベタベタはしてないが夜十時台のドラマに出てくるような「冷たい家庭」「いかにも家族内殺人が起こりそうな家庭」ではない。



 今日も一人でインスタントの麺を茹でて錦糸卵を焼いて冷やし中華を作って食べようと思っていたのだが、あまり腹は空かず、とりあえず自室に直行してクーラーをつける。


家の近くの自販機で買ってきたコーラのプルトップを開けながら、中学の頃のことを思い出す。目の前のベッドで、葵と互いの性器が痛くなるまで抱き合った日々のことを。



 いじめ事件の頃から更なるいじめの原因になる俺を避け始めた葵だったが、中学になってもなんだかんだで互いの家を行き来することは多かった。


俺と葵がどうであれ、親同士やたら仲がいいんだからしょうがない。俺はもう中学生だから親の帰りが遅いからって葵の家に預けられることはなくなったけれど、おばさんが気を遣ってしょっちゅう俺を夕食に呼び、葵とひとつの皿から飯を食べた。


葵も今よりは愛想が良く、学校の奴の目がないところでは普通に俺と話すし、子どもらしい笑顔も見せてくれた。



 俺たちの間に大きな転機が訪れたのは、中二の夏休みだった。その日、アイスをおごるのと引き換えに宿題を写させてもらう約束をしていた俺は、何の下心もなく葵の家を訪れた。


おばさんは大正琴教室に通っている友だちの発表会があるとかで、留守だった。麦茶とお菓子を取ってくるからと台所に下りていった葵を部屋で待っていた俺は、ベッドの上に開きっぱなしになっていた雑誌を見つけた。俺が来る直前まで読んでいたらしい。



 何気なく雑誌を手にとって誌面を見て、目玉が裏返りそうになった。『知りたい! みんなの××事情』と題されたその特集には、その名の通りセックスに関する読者アンケートとその結果がずらりと並べられ、俺らとあまり歳の変わらない女の子たちの赤裸々な告白や体験談が生々しく書かれていた。


学校の先生に「はじめて」をあげた十六歳の女の子、彼氏と野外プレイした十五歳の女の子、経験スコア二百人以上を誇る十八歳の女の子……効果的な男の攻め方やSM入門なんてのも特集されていた。


男が読むマンガ雑誌のグラビアより数段露骨でエロい。読者アンケートによれば初体験年齢は平均十六・五才、オナニー経験者が五十パーセントって、いやこのデータぜったい盛りまくってるだろ、と内心で突っ込んだ。少なくとも中二の俺の周りに経験者なんてひとりもいない。



 夢中で雑誌に食いついていた俺は葵が部屋に入ってきたことに気づかなかった。言い訳が見つからず硬直する俺の前で葵は怒りながら泣いているような顔になり、学習机の上にドン、と麦茶のコップとかりんとうの皿が載ったお盆を置いた。衝撃で麦茶が少し飛び散った。


そのまま後ずさる俺に近寄り、雑誌をひったくる。強い力のせいでページが破ける。



「早くヤリたいと思ってるの、いけない?」



 雑誌を胸に抱きながら俺に背を向け、言った。男を家に呼ぶのにキャミソール一枚にデニムのミニスカートという無防備ないでたちは、俺にまったく男を感じてないからだろうか。腰からお尻にかけてのラインや脚の肉のつき方は、ガキの頃とは全然違っているのに。



「そのヤる相手……俺じゃ、駄目?」



 そう言うと、葵は一度びくんと肩を震わせたが、それだけだった。何も言わず、何かを待つように、俺に背を向けたそのままの姿勢で立ち尽くしていた。背中から近づいてそろそろと抱きしめると、葵は素直に身体を預けてきた。そうやって俺らは初体験を済ませた。


 そして葵は終わった後、階下でシャワーを浴びてバスタオル一枚の姿で戻ってきてから、すっかり温くなった麦茶のコップ片手に言ったのだ。「このこと、誰にも言わないでよ。言ったらマジで絶交だからね」……



 その後中学生の俺と葵は親の目を盗み、狂ったようにヤリまくった。まるで盛りのついた犬、というか盛りのついた犬そのものだった。


ネットでしか知らなかった知識を、俺たちは片っ端から試し、他人の身体から得られる自分の快感に夢中になった。けれどどれだけ身体を重ねても深くキスしても、葵は最後まで俺を彼氏と認めなかった。


デートに誘ったって「誰かに見られたら嫌」と何度断られたことか。セックスする関係になっても俺は相変わらず避けられがちで、葵にとって結局俺はセフレでしかないことに、ほどなくして気づかされることになった。


周りの友だちより早く経験出来たのは少し嬉しかったけれど、嬉しさを1としたらむなしさは100。葵とするのはめちゃくちゃ気持ちいい反面めちゃくちゃ辛かった。


どんなに同じ感覚を共有しても、葵の心は絶対手に入らない。コンドームが隔てる葵との0.1ミリが、俺にとっては100憶光年の距離だった。



 高校に入ってすぐ葵は二つ年上の先輩と付き合い始めた。校内でふらっと会っていきなりラインのIDを聞いてきたというナンパ野郎だ。


大舘家の庭に呼び出し、俺とはもうヤレないと何かの宣言みたいに堂々と告げた葵に怒ると、「あんたに怒る権利なんかない。そもそもうちら最初からそういう関係じゃないでしょ」とさらっと言われ、怒りは一瞬で飛んでいった。拒絶された痛みが、その時から今までずっと俺の胸を縛っている。



 葵は、俺が葵のことを好きだって知ってる。一度も伝えたことはないけれど。


知っててそんな言い方をするなんて随分ひどいのに、それでも葵をちっとも嫌いになれないのは、葵が危なっかしくてしょうがなくて、守ってやらずにはいられないからなんだと思う。葵はもちろん、俺に守られることなんか望んじゃいないだろうが。



 車のエンジン音がして親が帰ってきたのかと思い窓に寄ると、近づいてきた車は隣り合った俺と葵の家から数メートル向こうで停まり、中から葵が出てきた。


細い手が運転席に向かって振られるのを、はっきり見た。別れを惜しむこともなく、人目を避けるようにさっさと動き出す車。何事もなかったみたいに家に入る葵。


玄関のドアが閉まるのを見届けてしばらくして、スマホを手に取った。電話すると、葵は六回目の呼び出し音の後で出た。



『どしたの?』


 面倒臭そうな、不機嫌な声。まさか俺に見られてたなんて、思ってもいないんだろう。やりきれなさとぶつけようのない怒りが一緒にこみ上げてくる。



「今からお前ん家、行ってもいいか」

『いいけど』



 断るのも面倒臭いから、さっさと会ってさっさと帰しちゃおうという気持ちが見えそうだった。



 何も知らないおばさんは愛想よく俺を迎えてくれた。


「もうすぐ旦那も帰ってくるしこれから夕飯なの、保樹くんもよかったらどう?」



 他意のないお誘いを丁重にお断りし、階段を上って葵の部屋へ向かう。



 もしこの人に葵が不倫していることをぶちまけたら、さすがの葵も親に怒られ親に泣かれて、もうあいつに会うことは出来なくなるだろう。


でも、それはしない。葵から親の信頼を奪いたくなかったし、一歩間違えれば葵の家庭を壊してしまうことにもなりかねない。


第一、俺は結局、葵に嫌われることが怖い。葵を守りたい、その気持ちに嘘はなくても自分を犠牲にすることからは逃げてしまう。弱虫の卑怯者だ。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?