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第六話 子どもでいよう(4)

葵は入ってきた俺に視線をちらっと寄越すことすらせず、ベッドの端に座って爪の手入れをしていた。既に制服からゆったりしたワンピースに着替えている。


本棚の上のCDラックには相変わらず、俺や普通の高校生はまず聴かないような、昔の洋楽のCDが詰め込まれていた。ブルース・スプリングスティーン、ジャニス・イアン、エリック・クラプトン、フランク・シナトラ等など。


中学の時の昼休み、発売したてのアイドル曲について熱く語り、振りつきで歌っていた女子たちに向かって葵が「そんな幼稚なもの聴いてると頭が悪くなるわよ」だなんて言い出し、葵のクラスでひと悶着あったことがある。


さすがに俺も忠告したんだ、いくら自分に好きなものがあるからって、他人の好きなものをそんなに否定しなくてもいいじゃないかと。すると葵はあっさり返した。「正しかろうが間違っていようが、言わなきゃ気の済まないことは、言うの。あんな女たちに嫌われたって別に構わないしね」……



 CDラックから学習机に目を移す。何枚か学校のパンフレットらしきものが並んでいる。高二の夏だから、こういうものを目にするのは初めてじゃない。だけど見過ごせなかったのは、どのパンフレットにも表紙に「美容」や「専門学校」の文字があったことだった。



「お前、美容師になるつもりなの?」

「見ないでよ」



 葵が慌てたようにベッドから立ち上がり、素早く机に駆け寄ってパンフレットを片付けてしまう。うちの高校は一応進学校なので、短大や専門学校に行く奴はちょっと珍しい。たいがいは、二流か三流の四年制大学を進路に選ぶから。



「何だよ、隠すことないじゃん」

「保樹には関係ないもん」


「またそれかよ。俺もお前も、ちょうど進路のこととか真剣に考えなきゃいけない時期じゃん。友だち同士、悩みを共有するってのも悪くないんじゃねぇの? お前っていつでも一人で考えて一人で結論出すけどさ」



 葵は黙っている。一人っ子にはありがちなことだが、葵は大事なことほど他人を頼らず、自分の考えだけで結論を導き出してしまう。江里が現れてからは恋愛相談もするようになったらしいが、かといって人の意見を素直に聞ける性格でもない。同じく一人っ子である俺にも少なからずそういうところはあるんだろうが、葵のほうがずっとこの傾向が強い。



「どうしてまた、美容師なんだ?」

「美容師になりたいから」



 随分空虚に響いた一言だった。そこには夢を追う人間の情熱がまったく感じられない。



「なんで? お前の夢、女優だろ」


 小学校の卒業文集に葵は「女優」と書いた。そのせいで葵をいじめていた女子たちからはまたとやかく言われたらしいが、それでも葵は卒業のその日まで堂々と「女優志望の女の子」として登校していた。くっきり二重の目が呆れたように見開かれる。



「そんなの、子どもの頃の話でしょ。高二にもなってそんなガキっぽいこと言ってらんないわよ。それに、早くお金稼げるようになりたいし」



 葵はまだ大人になろうとしているのだ。みんなより早く化粧をして髪を染めてセックスをして、二十五歳も年上の男と付き合ってみたこところで、満足していない。窮屈で仕方ない子どもの殻をさっさと脱ぎ捨て、完全な大人の女になろうとしている。



「やめろよ。そんな理由で美容師になろうとするなら、俺は反対だ」


「そんな理由って何よ、早く自立したいってのが悪いの? てか保樹に口出しされたくない」


「美容師だけじゃない、例の鵜飼とかいう男と付き合うのもやめろ」



 葵の顔がさっと強張り、尖った瞳が俺を見る。目で負けるわけにいかない。俺は真正面から責めるように葵を見返す。鵜飼と激しく抱き合ったせいなのか、マスカラが少し落ちかけて目の端が黒くなっていた。



「江里が言ったの?」

「そう」

「江里のおしゃべり」

「江里を責めんなよ、お前のこと心配してるだけなんだから」



 葵のほうから目を逸らした。傷ついたような、絶対触れられたくない部分をつねられたみたいな表情に、こっちが悪いことをした気になってしまう。



「お前はその鵜飼のことが好きなんじゃないだろ。大人っぽい人や大人と付き合うことで、自分が大人になろうとしてるだけじゃん? そういうの、やめろよ。まだ子どもなんだから。俺もお前も、結局まだどうしようもなく子どもなんだよ」


「俺ら、って何? あんたとあたしを一緒にしないで」


「一緒だよ。とにかく早く別れろ鵜飼と。今ならまだ別れても平気だろ、藤屋の時みたいに本気にならないうちにさっさと縁切ったほうがいい。不倫なんてどっちのためにもならない」



 藤屋の名前を出したのがまずかったのが、葵の顔が青ざめていく。本当は、きっと葵自身が一番わかってるんだ、自分が間違ってるって。だからって他人に言われたら素直に認められないし、みっともなく意地を張ってしまう。ほら、やっぱり子どもだ。



「別れない」

「別れろ」

「別れない」

「別れろ」


「そんなにいけないの? みんなより早く大人になりたいってのが、そんなに悪いこと?」



 葵の目が泣き出しそうだった。葵がそんなふうに俺を見るのは、たぶん初めてだった。胸の奥が痺れるように痛む。



「なんで、そんなに大人になりたいんだよ」

「子どもが嫌いだからよ」

「子どもだって、そんなに悪いもんじゃねぇよ」

「保樹は周りの人に恵まれてるからそんなことが言えるの」


「いつまでも昔のこと気にしてんじゃねぇよ。葵が子どもが嫌いなのは、小学校の時のいじめのせいだろ? そんなくだらない連中のせいで高校生にもなって歪んでるなんて、みっともねぇじゃん。お前が子どもを嫌いでいる限りそいつらにとらわれてるってことで、そいつらに負けてるってことになるんだぞ。そんなの悔しいだろうが」



 葵が俯いた。勝ったのは俺で、負けたのは葵だ。でも相手を打ち負かした勝利感なんてちらっともなくて、ただ葵を傷つけてしまった罪悪感だけが心を支配していた。疲れきった声がする。



「とにかく、帰って。これ以上あんたと話したくない」



 仕方なく部屋を出た。階段を下りるとあらもう帰るの? と葵の母に言われ、ヘラヘラ笑ってみせるしかなかった。結局何も出来ないまま、俺は大舘家の門のフェンスを後ろ手で閉めた。



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