大失恋したんだから当然かもしれないが、なかなか眠れなかった。
涙ぐんだり顔も知らない鵜飼とかいう奴に腹を立てたり、昔のことをあれやこれやと回想しているうちにこのベッドで葵と抱き合った日々のことを思い出して悶々としたり、朝の六時ぐらいまでそんな感じのことを繰り返した後、いつのまにか意識はぷっつりと途切れていた。
起きたら窓の外はくっきり青い空が広がっていて、強烈な夏の太陽が地上を突き刺している。タイマーを設定していたエアコンが切れていたため、全身汗だらけで目覚めた。壁の時計はもう十二時近い。
土曜日で学校に行く必要がないとはいえ、時間をものすごく無駄にした感じがする。それにまったく寝た気がしない。スマホを見ると江里からラインが入っている。『起きたら電話すること』
『おはよ。何してるぅ?』
電話なんかしなきゃよかったと思った。これだけ気の滅入ってる時には江里のお気楽そのものの声が神経に障り、そしてそんなことで苛立つ自分にもっと気が滅入ってしまう。
「何もしてないよ。今起きたとこ」
『あっそ。それより行かなくていいの? 葵のとこ。今まさに絶賛不倫デート中だよ』
不倫に「絶賛」をつけるのはどう考えても正しい日本語の使い方じゃない気がするのだが、それを指摘するのも煩わしい。
「行けるわけねぇよ。さっきフラれたばっかの俺が連れ戻しに行ったって、余計に格好悪いだけだし」
『んっ、フラれたってことは、コクったの?』
「あぁ。玉砕だったけどな」
『へーやるじゃん。なんか保樹のこと見直したし』
何がおかしいのか、江里は電波の向こうできゃらきゃら笑っている。酒も飲んでないのに頭はクラクラで、頭蓋骨の内側で江里の笑い声が好き勝手な方向に飛び交っていた。もう切るぞと言おうとすると昨日まで彼女だった女の子の口調が急に真面目になる。
『なんてフラれたの?』
「俺のことそういうふうに見れないんだってさ。そう言われちゃ引き下がるしかねぇよな」
『そっか。でもまぁいいじゃん、今はそれでも』
「よくねぇって」
『保樹には、あたしにはない力があるよ』
いつも能天気な江里の言葉に確かな重みが加わる。あたしにはない力、のところが耳奥でリフレインされる。江里は何を言おうとしてるんだろう。
『もっと自信持ちなよ、保樹は葵の幼なじみなんだよ。親とかよりもあたしよりももちろん鵜飼さんよりも、葵に一番近いのは保樹だと思う』
「そうかな」
『そうだよ。それに大事なのって、恋とか愛とかだけじゃなくない?』
「……」
『ラ・メールっていうの』
へっ、と声が裏返った。電波の向こうでスマホ片手にニヤリ笑っている江里の姿が見えそうだった。
『葵が今日、鵜飼さんと食事するレストラン。ホテルの名前は……』
「江里」
『何?』
「俺、ある意味江里のこと愛してるわ」
もし葵に出会わずに江里と出会っていたら、俺たちはニセモノなんかじゃなく、本当の本当にいいカップルになれただろうか? いやそれはたぶん、ない。俺は恋とか愛とかとは違う角度からしか江里を見ることが出来ないし、江里もまたそうなんだ。
ふふっ、と小さく笑う声がする。
『あたしもある意味保樹のこと愛してるよ。それ以上に、葵をね』
電話を切った後すぐ、俺は走り出した。こういうところが葵が俺のことを単純だとかガキとかって言う理由なんだろう。強い感情が湧き上がった時、それに突き動かされずにはいられない俺。でもいいじゃないか、単純でガキで。ガキっぽいって、悪い意味しか持ってない言葉じゃないはずだ。
ヒロインの元へ男が走る、陳腐な恋愛ドラマのお決まりのクライマックス。そんな美しいシーンなんてフィクションの世界でしかありえないと思っているのに、今俺は本当にその陳腐なクライマックスの中にいた。
現実はドラマとは違って、格好悪い。気温三十二度の真夏日の中を疾走するため汗は文字通り滝のように噴き出し、銀座の駅で降りた時は服のままシャワーを浴びた人みたいになっていた。
人にぶつかって罵声を投げられたり道を間違えたりホテルのロビーでコンシェルジュに不審人物扱いされながらも、ようやく『ラ・メール』にたどり着いた。
社会のてっぺんに位置する人たちが下々の者を見下すためにわざわざ作ったような、ホテルの最上階の高級フレンチ。でっかい海老やてかてか光る鯛なんかが泳がせられている巨大な生け簀が目につく。
こんな高いところまであんな高級食材を生きたまま運ぶだけでも、相当な手間とコストがかかるだろうに。それを惜しむことなく、下々の者とは違う世界で食事を楽しむ。ここはそういう人間のための店なんだ。
お上品な富裕層ばかりが集う店内ではTシャツに短パンで汗ぐっしょりの俺は白鳥の群れに紛れ込んだ鳩のようで悪目立ちしまくりで、すぐにウェイターが慌てて声をかけてくる。
髪を七三に撫で付けた大人に捕まる前に、葵を見つけた。奥のテーブルで四十半ばぐらいの男と向かい合った葵が、目も口もぽっかり開いてこっちを凝視している。アップにした髪の毛や品のいい黒のワンピースのせいで、実年齢より五歳は上に見えた。
「何なんだ、君は」
まっすぐ二人に向かっていった俺に、男が声を震わせる。怒っているというより、ただただびっくりしているといった感じだった。それにしてもこいつが鵜飼とは。
腹はでっぷり突き出ているし髪の毛は絶滅寸前の状態だし、冷や汗の浮いた顔は脂でテカテカしている。もっと格好よくてシブくて、いわゆるナイスミドルというやつを想像してたのに。
これじゃあ俺のオヤジのほうがよっぽどいいじゃないか。こんな男を彼氏に選び、身体を許した葵に腹が立った。そして拍子抜けしたような気持ちもあった。
「葵の幼なじみです」
何かと言われたら他に返しようがない。鵜飼が一瞬ちらっと葵を窺い、そして戸惑い顔のまま俺を見た。葵は下を向いて唇を噛み、顔面蒼白になっている。
「幼なじみって。そんな人に、僕らの間に入っていける権限はないだろう」
「大事なのは彼氏とか恋人だけですか。葵のことをこんなに大事に思っている人間がいる、それだけですごいことなんじゃないですか」
鵜飼がうっと息を詰まらせる。俺の言葉と店じゅうの注目の視線が、この男から威厳や大人の尊敬されるべき資質など、根こそぎ奪ってしまったらしかった。いや、もともとこいつはこの程度の人間だったのかもしれない。自分の半分も生きていない俺に向かって、言い返す言葉も持たないんだから。
「あなたには奥さんも子どももいる。その上、この女の子は未成年だ。これ以上あなたと葵の関係を続けさせるわけにいかない」
脂ぎった頬に赤みが広がり、葵がさっと顔を上げて驚きで強張った目を俺に向けた。他のテーブルの客もウェイターたちも、一人残らず鵜飼に注目している。
こんなところで気取ってステーキやムール貝なんかを食べてる奴だって、他人のプライバシーを面白がる下世話な根性は下々の俺たちとさして変わらない。鵜飼が完全な負け犬の顔で声を震わせる。
「ちょっと、君、非常識過ぎやしないか。私は……」
「言い訳は結構です。行くぞ、葵」
腕を引くと葵は抵抗することなく、素直に俺に引っ張られてきた。あまりにすんなりと従うもんだからかえって気味が悪い。人間じゃなくて、物を言わない人形かなんかの手を引いているようだった。
レストランを飛び出してエレベーターに乗り、ホテルのロビーを出る。エントランスの階段を降り切ったところで、ようやく俺は足を止め、冷たい葵の腕を離す。クーラーから吐き出された冷気が消え、灼熱地獄の午後の世界で向き合った途端、平手が飛んできた。力が上手く入らなかったらしく、あまり痛くなかった。
「どうしてよ。どうしてこんなことするの」
幅の広い二重の目が盛り上がって、アイラインが滲んでいた。
葵は泣いていた。