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第六話 子どもでいよう(9)

涙の理由なんてよくわからないまま、それを聞き出すことも出来ないまま、気まずい空気を間に挟んで一緒に地元へ帰った。


帰りの電車の中でずっと葵は座っていて二度と口を聞かないと決意した人みたいにぎゅっと唇を噛んで黙り込み、俺は立ってドアに背中を預けながら、そんな葵をなるべく見ないようにしていた。ほとんど言葉もないまま別れるともう、葵から連絡はなかった。次の日も、その次の日も。



 さすがに焦った。俺は結果的に、葵に一番嫌われることをしてしまったんじゃないだろうか。あんなふうに公衆の前で不倫が明らかになった以上葵と鵜飼が今まで通り関係を続けていくことは難しいはずだから、最大の目的は達成されたとも言える。


その代わり、俺はもっとも無くしたくないものを失ってしまった。自分を捨てて好きな人を守る、無償の愛、素晴らしいじゃないか……なんて、さすがに思えない。



 三連休の後に終業式がやってきた。朝から脳味噌が溶けそうな暑さでその上ずっと眠れてないせいで全身が重くて、とても学校に行く気にはなれないがそんなわけにもいかなかった。


だるくてしょうがない腕で玄関のドアを開けると、夏の朝の白い光の中、家の前の路地に葵が立っていた。朝方まで降っていた雨のせいでそれ自体が発光するように濡れ光るアスファルトと一人のきれいな女の子の組み合わせは、水彩画のようだった。



「おはよう」



信じられない気持ちのまま門のフェンスを後ろ手で閉めると、葵は当たり前のように言う。何かがふっきれた顔の上部で、睫毛の長い目が黒く輝いていた。不登校から立ち直っ

た黒井にも似た表情だった。



「どしたの?」

「たまには一緒に学校、行こうと思って」



 俺はそう、と短く相槌を打つ。葵が歩き出し、少しだけ距離を開けて俺も足を動かす。


朝の渋滞は静かで、少しずれたリズムで進む二人の靴音が新鮮な空気を震わせていた。



「あたし、鵜飼さんと別れた」



 歩きながら葵が言った。三日前とは何かが違う、思いつめたものがなくなった横顔。女は強い、江里の言葉が思い出される。俺の知らないところで、俺の力なんか借りなくたって、葵はちゃんと乗り越えてしまったらしい。



「鵜飼さんのことはあんまり好きじゃなかったんだ。前に付き合ってた一臣や、その前の先輩とは違って。保樹の言うとおり、ただ、大人になりたかっただけなのかも」

「本当は、まだ藤屋のこと好きだろ?」



 葵はコクッと頷く。少し寂しそうに、でもとても堂々と。好きな人をいつまでも忘れられない自分、無力な子どもに過ぎない自分を、ようやく認められたのだとでもいうように。



「本気で好きだったからね。簡単には忘れられないと思う。今は、しょうがないよ」


「そっか。土曜日、なんで泣いてたの? 葵が泣くなんてすげぇ珍しいから、びっくりした」


「みんなの前であんなことになって恥ずかしかったから」



 そんな状況に追い込んだのは俺なので、そうはっきり言われるとなんとも返しづらい。それと、と葵は続ける。



「それと、あの人の人間の小ささがわかっちゃって、幻滅して。それからもうひとつ、保樹が来てくれて本当に嬉しかったの」



 思わず葵を凝視していた。気まぐれな小悪魔のようないたずらな天使のような女の子が、初めて俺にくれた慈悲の言葉。それだけで身体の芯がぐにゃりと溶けて、今にも足が地面を離れて宙に浮かびそうになる。葵がニッと歯を見せて笑う。



「言っとくけど、だからって別にあんたを好きになったわけじゃないからね」


「わかってるよ……なぁ、俺さ、葵が付き合いたいって思ってくれるような、葵が自然に好きになるような、そんな男になるよ。葵が大人がいいなら、早く大人になるし」


「それは、いい。慌てて大人になることないでしょ。あたしたち、まだ子どもなんだもん。ゆっくり大人になれば」



 葵は空を見ていた。どこまでも限りなく続いていく青が俺たちの頭上にのびのびと広がっている。


早く大人にならなきゃと息まくのでもなく、子どもを嫌うのでもなく、ありのままで今を楽しもうとしている葵の目は、今まで何百回となく見たどの時より、きれいだった。俺がへぇと鼻をならすと、葵が軽く頬をふくらませる。



「何よその、へぇっての」

「葵、ほんとにちょっと大人になったんだなって」

「馬鹿にしてる?」

「してないし。てかそのリング、つけたんだ?」



 ちょっと視線をずらした先には、左の小指に輝くピンクの石が見える。葵がああ、と思い出したように言って、右手でさっと指輪を撫でた。



「うん、もともとあんたが江里に買ったやつね」

「なんで? 幸せな時につけないと意味ないんじゃないのか? お前、いつ幸せになったの?」



 葵がくいっ、と伸びをしながら言う。少しだけ染めた長い髪がしなやかな身体の動きに合わせてさわっ、と揺れる。



「ていうか、自分が幸せなことに気づいたからさ」



 目の前の幼なじみのあまりの眩しさに、俺は脳貧血を起こしそうになる。


 たぶんまだ片思いの日々は続いていく。今日はこんなことを言ってる葵だって、先のことはわからない。また葵に彼氏が出来て、俺がモヤモヤすることもあるかもしれない。


でも、焦らなくていい。いつか二人がためらいなく自分が大人だと言えるようになったその時、葵が俺の手を頼りにできるように、そんな未来に向かって進んでいきたい。


 そのために今はまだ、正々堂々、子どもでいようじゃないか。


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