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第37話

「は?」


 咎めるような声に内心青褪める。

 うっかりイオンを呼び捨てにしてしまった。

 貴族と平民の上に今は客と店員だ。無礼なんてものではない。


 しかし彼は特にこちらを糾弾する様子も無く視線をケース内のケーキに戻した。

 どうやら俺が何を言ったかは聞き取れてなかったらしい。九死に一生を得た。


 そして安堵した途端に大量の疑問が沸き上がる。

 恐らく目の前の彼はイオンだ。しかしイオンとは似ても似つかない。


 少し前の彼はこの店に入ることすら出来なかった。

 大量の贅肉が邪魔をして入り口に詰まってしまったからだ。

 それを一緒に来た護衛騎士に押し出されて転がって消えた。


 その後俺は商品配送という名目で彼にゴールディング公爵邸に呼び出された。

 当時も特注の椅子じゃなきゃ座れない程の巨体だった。


 今目の前にいる青年は服のセンスと髪や目の色はイオンと同じだが、決して白豚扱いされるような体型ではない。

 俺が何の気も無く彼を見た時、裕福そうな青年だという印象を真っ先に抱いた。


 以前のイオンならまずその樽のような体格に驚愕していただろう。

 きっと今の彼が平民と同じ服を着て人混みに紛れても俺は正体に気付かない。


(そもそも本当にイオンなのか……?)


 愛想笑いの下で忙しく考えを巡らせる。

 確かにゲーム内や以前見かけた時にイオンが身に着けていたものと同じスーツを着ている。

 髪色も目の色も同じだ。


 でもただの偶然で赤の他人かもしれない。

 それともイオンの兄か弟、親戚かもしれない。


 だが彼が先程口にしたケーキの種類は俺があの日配達したものと全く同じだった。

 つまりそれはイオンが机から叩き落として滅茶苦茶にしたケーキと同じということだ。


 眼前の身なりの良い青年に対し、困惑と混乱の中に不快感が新たに混ざる。

 もし彼がイオン・ゴールディング本人なら。


(一体、どの面下げて何しに来た?)


 しかも執事も護衛騎士も連れずに一人で。そもそもケーキほを買いたいらしいが財布とか持っているのだろうか。


 何より彼がイオンなら父が作ったケーキを売るのは嫌だ。

 又俺への嫌がらせの為に台無しにするに違いないから。

 でもどう断ればいいのかすぐ思いつかない。


 イオンの部屋で箱に入ったケーキが乱暴に叩き落とされる瞬間を思い出し、喉が苦しくなる。

 そんな俺を見て、推定イオンは不審そうに整った眉を顰めた。


「おい、どうした。顔色が悪いぞ」


 全部お前のせいだ。そんなこと口に出来る訳も無く俺は笑顔の形で固まっていた唇を開いた。


「いえ、何でもございません。今お売りできるケーキはそこにある物だけになります」

「少ないな、欲しいケーキが無かったらどうすればいいんだ」


 そのまま帰ってくれ。心で叫びながらも口は言い慣れた説明をする。


「早めに来店して頂くか、確実にということなら数日前に御予約を頂く場合が多いです」

「今作れ」


 傲慢を具現化した台詞に直感的にこいつイオンだと判断する。

 もし別人でも同じぐらい腹が立つ人間だ。


「申し訳御座いませんが、材料も作れるものも現在店内におりませんので」

「品揃えが悪い上に人手不足か、これで人気店とは笑わせる」


 いやもうこいつがイオンかその関係者かはたまた赤の他人かとかどうでもいい。

 早く帰れ。帰ってくれ。そして二度と来ないでくれ。


 俺は本音が漏れないように唇をぴっちりと締めた上で空っぽの笑顔を保ち続けた。



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