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第38話

 別に我儘な客というのはイオンが初めてではない。

 品数が少ないという文句も、無い物を今すぐ作れという命令も過去に何度か聞いたことはある。


 売り切れへの文句は申し訳ございませんと、ならもっと早く来いを真綿に包んだ言葉で返す。

 今すぐ作れの場合は先程口にした通り材料も人手も無いから無理ですで終わらせる。

 確実に欲しいなら予約しろもセットなのでつい口にしたが、目の前の相手に対しては予約も断りたかった。


「当店は家族で細々と営業しておりますのでお客様のような方には不向きな店かと……」


 薄氷の上を歩くような気持でやんわりと拒絶の言葉を口にする。

 少し前までは平和で怠惰な時間を享受していたのにどうしてこうなったのだろう。


「嘘を吐くな。この店は多くの貴族から贔屓にされているのを知っているぞ」


 不快そうな顔で言われ内心ムッとする。

 多くかはわからないが確かに貴族の常連客はいる。


 でも彼らは貴族の身分を笠に着て我儘を言ったりはしない。

 どうしても急ぎでこの店の菓子が欲しい、材料はこちらで用意するかと頼まれたことはある。 

 基本は店のルールに合わせて注文をしてくれる。

 欲しいものが無いから作れなど傲慢に命令されたことは無い。


「ええ、他の貴族の方は無理のない注文をして頂いております」


 貴族相手に無礼なのは駄目だが弱気で曖昧な対応をしていも目の前の相手には通じない。

 俺は改めて背筋を正した。


「今作れと言われも出来ないものは出来ません」

「……チッ、僕はイオン・ゴールディングだぞ!」


 やっぱりイオン本人だったか。怒鳴られた事実よりも彼の名乗りに注目する。

 別人のように外見は変わったが癇癪持ちな中身は変わっていないらしい。


 ゲームでも自分が軽んじられたと思うと彼はこうやって怒鳴っていたなと思う。

 正直だから何だとしか当時も今も思えない。

 多分特別扱いしろとか恐れおののけという意図で名乗っているのだろうけれど。


 父は仮眠中だが起こす気はない。そもそも起こしても材料は無いから指定されたケーキは作れない。

 ベイクドチーズケーキの材料はある。フルーツタルトも依然と違うフルーツなら作れそうだ。

 苺はもう使い切ったから無理だ。でもそれを説明するつもりは無い。


 だったらベイクドチーズケーキとフルーツタルトだけでも作れと命令されたら嫌だからだ。

 一度でも無茶を聞き入れたらこの手の客は繰り返すだろう。


「お客様がどなたでも、対応は変わりません。材料が無い以上ご要望を叶えることは出来かねます」


 俺が毅然として言い切るとイオンは狼狽えた表情を見せる。

 いや狼狽えているというよりは傷ついたというのが近いだろうか。

 しかしそんな顔をする理由は分からない。


「……僕は、イオン・ゴールディングなんだぞ」

「はい、先程伺いました」

「お前、もしかして僕の事を忘れたのか?」


 不安そうな顔で訊いてくるイオンに戸惑いを覚えながら答える。


「いいえ、以前ご注文いただいた時のことは忘れておりませんよ」


 膨大な敷地を延々と歩かされたことも、そこまでして運んで来たケーキを全部見もせずテーブルから叩き落とされたことも。

 そのショックで自分が大人気なく泣いて彼に怒鳴ったことも全部忘れていない。


 短い言葉の中に様々な感情が籠った俺の返答を聞いたイオンは何故か肩を落とし落ち込んだ様子だった。


「わかった、もういい。帰る」


 彼の様子が気になったが、退店するという台詞に意識が持っていかれる。

 多分誰も居なければ万歳三唱していただろう。

 そんな心情を表に出さないように耐え俺は深々とお辞儀をした。


「お役に立てず申し訳御座いませんでした」


 又のお越しをお待ちしておりますなどとは絶対に言わない。

 彼は無言でドアノブに手をかけ扉を開く。その拍子にドアベルが軽く鳴った。


「……お前が痩せろと言ったから、痩せたのに」

「えっ」


 小さな声が聞こえ、その言葉の内容に俺は驚いて顔を上げる。

 しかしその時既にイオンの姿は店から消えていた。


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