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第7話「進路希望」

 学校が終わって家に帰ると、既にセギ兄は来ていた。

 今日はコーヒーを片手に、なにやらリビングでお母さんと話し込んでいたみたいだった。というのも、あの猫舌のお母さんのコーヒーカップがすっかり空になっていたからだ。少なくとも、三十分近くは話していたに違いない。


「ねえ、さっきお母さんと何話してたの?」


 セギ兄を伴って自室に引っ込んだ後で私は尋ねた。

 お母さんは本当にお喋りだ。余計なことを言ってないといいけど、なんて思っていると、セギ兄はなんてことないふうに答える。


「ああ。ただ、ユヅちゃんがどの大学に行けるかなって話をしていただけだよ」


 言われて思い出す。そういえば、愛佳への言い訳として使ったけれど、事実として進路希望調査票を明日までに書いて提出するように今朝のホームルームで言われていたんだった。しかも、第三希望まで書いたそれを家族に見せてサインもらう必要がある。


「ほら、僕も通っていたからわかるけど、あの高校って二年のわりと早い段階から進路希望調査をとり始めるだろう? そんなことを話してたら、おばさんから『二年のうちはより高い目標の志望校を書いておいた方が成績も伸びやすいのかねえ』って訊かれたんだ」

「そ、そうなんだ」


 想像していたような最悪の話題ではなかったけれど、やはり余計なことというかほっといてほしい内容ではあった。おそらくお母さんとしてはセギ兄が通っている金大を本命に据えつつ、その上の最難関と呼ばれるレベルの大学を目指すことで成績が伸びないか、と考えているんだろう。似たような話は先生も言っていたし。

 ただ私は、その考え方はあまり好きではなかった。行きたい大学くらい、自分で決めさせてほしかった。どう足掻いても届かないようなレベルの高い大学をひとまず目指してみろと言われてもやる気は起きないし、そもそもとして行きたいわけでもないのだ。そんなんで成績が上がりやすいだろうとか勝手に期待されてもありがた迷惑だ。

 でも、じゃあ行きたい大学はどこなんだと改めて訊かれると、わからなかった。

 今の私には特別やりたいことがあるわけでもなければ、セギ兄のように興味のある学部や学科があるわけでもない。愛佳は付き合っているカレシと同じ大学、あるいは少なくともその近隣にある大学に行きたいと言っていたけれど、私にはそういうのもいない。せいぜいが、初恋の人が卒業した大学に未練がましい興味を抱いている程度だ。さすがにもう、それだけで頑張れる段階はとっくの昔に過ぎ去っていた。

 自然と、俯いてしまう。

 空っぽだった。

 今の私には、どうしようもなく中身がなかった。

 なんだか、申し訳なくなってきた。

 こんな私のために、家庭教師の時間を割いてもらって。

 さっさと、やめてしまった方がいいんじゃないだろうか。


「焦らなくていいよ」


 その時、軽い感触が頭の上に乗っかってきた。

 思わず、ハッと顔を上げる。

 ローテーブルを挟んで真向いに座っているセギ兄が、手を伸ばして私の頭を撫でていた。


「僕は、そんなことしなくていいと思う。ユヅちゃんが行きたいと思う大学を、素直に目指せばいいんだよ。もしまだわからないなら、これから見つければいいんだからね。何を隠そう、僕だってその口なんだし」


 セギ兄は短く笑う。


「僕だってさ、高二の時は全然行きたい大学とかなくて、なんとなく近場の大学を適当に書いてた。それで、文系だけど数学もわりと好きだったから、とりあえず経済学部を目指してみただけなんだ。それがそのまま今になってる。経済に本格的に興味が出てきたのは、大学に行ってからだよ」

「え、そうなの?」

「そうそう。だから、焦らなくていいよ。わからなかったら、なんとなく行きたいかもって思える大学を目指してみなよ。試験問題と違って、確かな正解なんてないんだし」


 意外だった。

 私の頭の中にあるセギ兄は頭が良くて、ちゃんと将来を見据えて今の大学を目指して進学したんだと思っていた。

 それが実は、今の私とあまり変わらない思考で進学先を決めたらしい。


「そっか。それも、そうだね」


 なんとなく、心が軽くなる。進路決めもそうだけれど、セギ兄との距離が少し縮まったような気がして、嬉しくなる。

 でもそうか。もし、それでいいなら……。

 確かな正解が、今はないのなら……――


「ねえ、セギ兄。金大って、どのくらい点数が必要なの?」

「え?」


 私の質問に、セギ兄は目を丸くする。私は、構わずに続けた。


「まあ、その……私も、とりあえず近くの大学を書いておこうかなって思って。あと、セギ兄が行ってるから、純粋に興味はあるし」


 恥ずかしさから、咄嗟に視線を逸らす。

 今行きたい大学はどこかと訊かれたらわからないけれど、今少しでも興味のある大学はどこかと訊かれたら、それは間違いなく金大だ。言うまでもなくセギ兄が通っているからで、それ以外の理由は何もない。

 頬が熱い。努めていつも通りの調子で訊いてみたけれど、大丈夫だろうか。


「そ、そっか。それはなんというか、光栄だな」


 セギ兄も、少しばかり照れたふうに笑った。二人して恥ずかし気に目を合わせては逸らす、変な間が流れた。


「そうだな。それは、僕も気合入れて教えないとな。じゃあ、これからの問題集探しも兼ねて、一緒に書店へ行こうか」

「うん」


 私は、すぐさま返事をした。

 もう少しだけ、頑張ってみようかなと思った。

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