家から一番近くにある書店に行く、と一概に言っても、私の住んでいる家から徒歩で行ける範囲に書店はない。
つまり、必然的に車やバス、電車といった交通手段を使うことになる。そしていつもなら、私は最寄り駅まで歩いていって、そこから電車でひと駅乗り、その後にまた歩くという経路を使っていたのだが。
「おお、これがセギ兄の車か~」
私は、車の助手席に乗っていた。
運転手はもちろん、車の持ち主であるセギ兄。
去年の夏に免許合宿とやらをサークル仲間と一緒に行って、みんなで取得したらしい。昨日今日を除けば、私の脳内イメージにあるセギ兄は中学生で止まっていたので、めちゃくちゃ新鮮だ。
「僕の車っていっても、親のお古だけどね。どうせぶつけるからって」
ハンドルを握りつつ、セギ兄は苦笑する。そんなことを言っているわりには発進も停車もとてもゆっくりの安全運転で、車に乗る時に周囲を三周は見て回ったが真新しい傷はまるでなかった。
しかし、念のためということもあるので一応訊いてみる。
「ちなみに、今までぶつけたことあるの?」
「いや、ないけど」
「ぶつけないまでも擦ったこととか、擦りそうになったことは?」
「んーないかな」
「警察に注意をされたことは」
「まあ、ないね」
うん、やっぱり大丈夫そうだ。
心配性なセギ兄をいじって小突くジェスチャーをしながら、私はキョロキョロと車内を見回す。
軽自動車だけど車内は広々としていて、掃除が行き届いているのかかなり綺麗だ。物は少なく、ティッシュの箱や交通安全のお守りがぶら下がっているほかには、特に目立ったものもない。カースピーカーから流れているのは数年前に流行った有名なバラードで、私もよく知っていてたまにカラオケで歌う曲だ。
「なんか、すごくセギ兄っぽい車だね」
「えー、そう? なにもないけど」
「むしろそれがセギ兄っぽい。なんか、かわいいぬいぐるみとか置きたくなる」
「あー、昔あったな。懐かしいな」
「でしょ」
昔。まだセギ兄と疎遠になっておらず、一緒に遊んでいた頃。
私は、物が少ないセギ兄の部屋がつまらなく感じて、勝手にぬいぐるみや本、挙句にはゲームといった自分の持ち物をいくつか彼の部屋に置いていた時期があった。そして、セギ兄と部屋で過ごす時には、その置いておいた物の中から一緒に選び、日が暮れるまで遊ぶのだ。
もっとも、セギ兄は持って帰るように何度も言っていた。でも、なんだかんだで私よりも綺麗にちゃんと保管してくれていたので、私はセギ兄が小学校を卒業するギリギリまで持って帰ることはしなかった。
ほんとに懐かしかった。
なんとなく、ホッとした。変わっていくセギ兄の中にも、変わっていない部分を見つけた気がして。我ながら、なんて面倒くさい女だろうか。
そうして昔話にも花を咲かせていると、車はあっという間に書店があるショッピングモールに到着した。駐車場近くにあるいつもとは異なる入り口から入り、エスカレーターを登って三階にある書店へと向かう。
「あった。ここか」
所狭しと本棚が並ぶ奥の方に、目当ての問題集コーナーはあった。高校受験の時はとにもかくにも必死で、いくつもの問題集を自分で探しては買ったものだけど、高校に上がってからはすっかりご無沙汰だった。
「あ、この青色の数学問題集はいいよ。僕も結構使ってた」
セギ兄の指さす先には、やたらと分厚い辞典みたいな本が棚差しされている。
「え、これ? 厚すぎない?」
「解説が結構充実してるんだよ。あと、基本から応用まで幅広く網羅してるから、受験期まで長く使えるよ」
「うーん、そうなんだ……」
おそるおそる手にとってみる。めっちゃ重い。ザ・辞書って感じだ。
「え、二千五百円? ヤバッ!」
しかも高い! ぼったくりじゃないだろうか。
我が家の教育方針として、お小遣いがやや多い代わりにお弁当じゃない日の昼食代や教材代は自分で出さないといけない。公私ともにお金の使い方を勉強するためらしいが、それはすなわち、この二千五百円を私が出さないといけないことになる。ええ、つらっ。
私が思わず正直な感想を漏らすと、セギ兄はあけすけに笑った。
「わかる。僕も友達と買いに来て全く同じ反応をしたから」
「えーだってそうでしょ。ていうか、セギ兄使ってたのあるならそれちょーだいよ」
「そうしたいのは山々だけど、僕の時とは範囲とか結構変わってるみたいだから、新しいの買った方がいいんだよ。大丈夫。今日は僕が出すから」
そう言うと、セギ兄は青い辞書みたいな問題集を店内買い物カゴに入れた。
「え、なんで。悪いよ」
「いいんだ。大学生だからバイトもしてるし、これは僕からのせめてもの応援ってことで」
「応援、ですか……」
そう言われるとなかなか無下にはできない。そしてセギ兄が買ってくれた問題集となれば、ぞんざいに部屋の隅で埃を被らせておくわけにもいかなくなる。頑張ると決めた以上はやるけれど、ほんとに大丈夫かな明日以降の私。
私が心中に漂う不安と闘っている最中にも、セギ兄はオススメだという参考書や問題集を何冊かカゴに入れていった。総額は遂に一万円の大台に突入。これは本格的に気を引き締めていかないといけない。
「それと、これ。さすがにまだ要らないけど、いつか買わないといけないから見ておくといいよ」
「う、過去問だ……」
問題集が並んでいる横の棚には、有名どころの大学を筆頭に、赤やら青やらの背表紙が特徴的な過去問集がズラリと並べられていた。そこにはもちろん、セギ兄の通っている大学名が書かれたものもある。
「ここにあるのは過去五年分のやつだね。僕が受けたのは三年前だから、僕の受験当時の問題も載ってるはずだよ」
「へえ、どれどれ」
棚から金大の過去問集を手にとってパラパラとめくる。ずっしりと確かな重さを感じながら見ていくと、中ほどにそれはあった。
「うへ、問題ながっ」
最初に見たのは英語の長文問題。見開き一ページにも及ぶ長文を読んで、いくつかの設問に答える問題だ。その前には何やら数字がたくさん並んでいる数学の問題が、後ろにはこれまた何ページにも及ぶ評論を読んで答える国語の問題があった。
「はははっ、あったなこの問題。一見すると難しそうなんだけど、解いてみると意外といけるというか、面白い問題なんだよ」
「えーほんとに~?」
「ほんとほんと。ユヅちゃんが三年になった時にぜひやってみて感想聞かせてよ」
なんだか悪戯っぽい笑みを浮かべるセギ兄。これは絶対何かあるやつだ。早々に問題を解いてセギ兄の真意を知りたいところだが、私の実力が伴っていないのでどうにもならない。
「あ、それとこの本もいいよ。大学の情報とか過去の入試データ、あとはその大学のコラムみたいなのも載ってるから、大学選びの参考になると思う」
「ふーん」
持ってるだけで憂鬱になりそうな過去問集を本棚に戻し、そのさらに横の棚にあるくだんの本を手にとって見てみる。なるほど。確かに過去の受験者数や合格ラインの想定点数など受験に必要そうな数字が並んでいる。地方別に刊行されていて、これは私の住んでいる地方の大学を中心に集めているようだ。
「あ」
さらにめくっていくと、金大のページがあった。入試関連データのほか、キャンパス内の風景写真や学部ごとの説明、学食の人気メニューランキングみたいなコラムまで書いてある。昨年度時点の一番人気メニューはネギ塩唐揚げ丼らしい。
想像してみる。
セギ兄と一緒に、学食で向かい合って食べている光景を。
さっきの講義がどうだとか、課題がなんだとか、そんな話題を口にしながら唐揚げを頬張る。セギ兄は苦笑いを浮かべ、同じくご飯を食べながら話を聞いてくれる。多分、ううん絶対に美味しくて、楽しい。
「いいなあ」
つい素直な感想が口からこぼれてしまい、私はハッとして口元を押さえる。
「はははっ、でしょ」
そんな私の様子を見て、セギ兄は微笑ましいものを見るように笑う。
「高校も楽しいけど、大学も負けず劣らず楽しいよ。だから、勉強頑張っていこう」
違う。そうじゃない。
私が羨ましく思ったのは、そんな楽しそうな大学生活を、セギ兄と一緒に送っている人たちだ。
でもそんなことは言えるはずもなく、私は曖昧に笑って誤魔化した。
私が大学生になる頃には、四歳年上のセギ兄は大学を卒業して社会人になっている。今よりも時間なんてまるでなくて、きっと会うことすらままならないんだろう。
迷いはまだある。
でも、とりあえず目指してみると決めた。セギ兄が通って、楽しんでいる大学がどんなところか興味があるのは、本当のことだから。
「あ、そうだ。もし良かったら、今年の夏休みにでも大学来てみる?」
「え?」
そこで、思いがけない言葉が飛んできた。私は驚いてセギ兄を見る。
「やっぱり、写真で見るよりも実際にその場に行った方がイメージも掴めるし、やる気も出るんじゃないかなと思って。夏休みなら人も少ないし、どう?」
「行く!」
私は即答した。そんなの、行くに決まっている。セギ兄と一緒に大学に行けるなんて、またとない機会だ。
否が応でもテンションは上がり、そんな私の前のめりな様子にセギ兄は苦笑する。
「はははっ、じゃあそのためにも、次の試験で赤点は回避しないとな」
「うっ、確かに。赤点続くと補習だもんなあ」
「その様子だと一年の時に経験済み?」
「えーさあー? ドウデショー?」
棒読みで答える私を見て、またセギ兄は肩をすくめた。
少しばかり恥ずかしくは思う。でも、一気にやる気は上がった。我ながら単純なものだ。
「じゃあ、そろそろ帰って勉強の続きをするか」
「うん!」
今なら過去一番集中できそうだ。
気合半分、どことなくぽわぽわした気持ちも感じながら、私は手元の本を棚に戻した。
その時だった。
「あれ? 柚月?」
すぐ横から、聞き慣れた声が飛んできた。
ハッとして見ると、そこには宮坂くんを連れた愛佳が立っていた。