「ユヅちゃん。ここはね、SVOC文型なんだ。だから日本語訳をする時は、OとCがイコールで結ばれることを意識してみるといいよ」
「う、うん」
書店で買ってきた、もといセギ兄が買ってくれた問題集を広げつつ、私はひとつため息を吐いた。
さっきから全然集中できていない。せっかく今日はセギ兄が家庭教師をしに来てくれる日だというのに。というか、前回の家庭教師の日で残った課題すらまだ終わってない有り様だ。いくらなんでも悲惨すぎる。
原因は、考えるまでもなく明白だ。
数日前、私は愛佳から紹介したい人がいると告げられた。いや、正確には愛佳のカレシである宮坂くんが、自身の友達を私に引き合わせたいらしい。
なんでも、同じサッカー部に所属している彼の友達が、私のことを知ってぜひ紹介してほしいと言ってきたようなのだ。どこで私のことを知ったのかと愛佳に訊けば、宮坂くんと愛佳が付き合い始めた時に、宮坂くんが愛佳のことを説明するためにSNSを見せ、そこで私も写った体育祭か何かのクラスの集合写真を見て一目惚れしたとのことだった。
はっきりいって意味がわからない。私は誰かに一目惚れされるほど整った顔立ちはしていないし、女子高校生らしい華やかさもまるでない。なんとも無難な平凡女子なのだ。そんな私のいったいどこに惚れる要素があるのか、どう考えても謎だ。
ただ、相手はどうしても一度遊びに行ってみたいとのことで、宮坂くんや愛佳を交えた四人でどこかへ行かないかということになった。愛佳は私とセギ兄のやりとりを見た後ということもあり、そこまで乗り気ではないようだった。けれど、私がセギ兄への恋心を全否定したこともあって、話をせざるを得ない感じになってしまったようだ。
「もし嫌だったら、あたしから断っとくから無理はしないでね。でも、一応考えてはみて」
愛佳からそんなふうに言われてしまえば、すぐに断ることはできない。本心では私も乗り気ではないので、結局断ることにはなりそうだけどどうしたものか。
「ユヅちゃん、手が止まってるよ」
「うん……」
「ユヅちゃん? 聞いてる?」
「うん……え?」
そこで、視界を大きな手が二、三度横切った。ハッとして顔を上げれば、隣に座るセギ兄が心配そうに私のことを見ていた。
「どうしたの? なにかあった?」
「あ、えと」
「もしなにか悩み事とか困り事があるなら、相談に乗るよ? 勉強に関係なくてもね」
思わず口ごもる。
さすがは幼い頃から面倒見のいいセギ兄だ。そんな言葉をかけられると、自然と心が温かくなってくる。
しかし、いくらなんでも「この前セギ兄も会った友達から紹介したい人がいるって言われてて」などと言えるはずもない。セギ兄にとっては知ったことじゃない話だし、むしろ誰にでも優しいセギ兄だから「一度会ってみてから決めたら」なんて無難なことを言うに決まって……
「あ」
そこで、ふと思い立った。
逆だ。これはもしかしたら、チャンスかもしれない。
私は暫し逡巡したのち、ゆっくりとセギ兄に向き直った。
「……あのね。実は、同じ高校の男の子から、デートに誘われてるんだ」
「え?」
「友達の紹介なの。同じ高校なんだけど、一度も会ったことない人だからどうしたらいいか迷ってて。セギ兄は、どうしたらいいと思う?」
努めて真剣に、私はセギ兄を見据えた。
私は、セギ兄が私のことをどう思っているのか知りたい。
この前も自覚したけれど、私の心の中にはまだ昔の初恋の欠片が散らばっている。その欠片が時々悪さをして、セギ兄のSNSの写真やさりげない仕草に反応してしまうのだ。
だからこそ、私はセギ兄が家庭教師をしてくれている間に、今の自分なりの答えを見つけようと思っている。そしてこれは、少しズルいかもしれないけれど、その一歩を踏み出すためのチャンスだ。
もし、セギ兄が少しでも私に異性としての好意を抱いてくれているなら……。
「デ、デートの誘い、か。その相談は、少し意外だったな」
セギ兄はそれと見てわかるほどに戸惑った。でもこれは、私がデートに誘われているということよりも、恋愛相談という事実そのものに困惑しているだけのようだ。私は何も言わずに、彼の返事を待つ。
セギ兄は、何事かを考えるように天井を見上げた。暫しの沈黙が下りる。
本来なら、家庭教師をしてくれている間にする類の話ではない。それでも、先ほどの言葉通りどんな悩みでもセギ兄はしっかり向き合ってくれる。私は、そんなセギ兄のことが、やっぱり……。
「んーまあ。会ったことないなら、一度会ってみるのもいいんじゃないかな」
でも。
セギ兄は、私が予想した通りの言葉を、予想した通りの落ち着いた声色で返してきた。その表情は妹を見守るような穏やかさに満ちていて、嫉妬や不安といったドロドロとした感情の色は全く宿っていない。
「……そっか」
どこまでも想定通りで、予想通りの反応なのに、私は自分でもわかるほどに力が抜けた。落胆した。
やっぱり、セギ兄はセギ兄だった。
「じゃあ、行ってみようかな」
セギ兄の、バカ。
その日の夜。私は愛佳に、遊びの誘いを受ける旨の返事を送った。