今日も、昨日と変わらない光景があった。
教室のドアを開ければ吹き込んでくる、夏らしい湿気を含んだ生温かい風。その風に壁に張られた掲示物は揺れ、「おはよー」という朝の定番の挨拶や楽し気な会話が乗って聞こえてくる。窓の外を流れる雲も、手ににじむじんわりとした汗の感触も、何もかもが変わらない。
「おはよー! 柚月!」
そして、自席に鞄を置いたと同時に、夏の太陽に張り合うみたいな明るい笑顔を浮かべる友達の愛佳も、変わっていない。
「お、おはよ。愛佳」
「あれ、どしたの? 柚月、なんか調子悪い?」
動揺が声に出ていたのか、挨拶を返した私に愛佳は心配そうな眼差しを向けてくる。
本当に、同じだ。
昨日も愛佳は、ショッピングモールでセギ兄とその女友達を偶然見かけて落ち込んでいる私を心配してくれた。一限目の体育の時間をサボってまで、話を聞いてくれた。「柚月の悩みを聞くことのほうが、授業なんかよりも大事なんだよ」って、言ってくれたのだ。
「ううん、私は大丈夫だよ」
顔をのぞきこんでくる愛佳に、私は今できる精いっぱいの愛想笑いで返す。もしかしたら見抜かれているかもしれないけれど、言葉に偽りはなかった。
そう。私「は」、大丈夫だ。大丈夫じゃないのは、きっと、愛佳のはずで。
「ねえ、愛佳。昨日のことなんだけど……」
愛佳が私の愛想笑いを追求してくる前に、私は続けて昨日起きた出来事をおずおずと話題に出す。
昨日、私と愛佳はついに見つけてしまったのだ。
この高校に伝わる都市伝説じみた噂、「縁切り結びの玉手箱」を。
それはかつて、今はない演劇部に所属していた女子生徒の悲恋の想いが詰まっている箱だ。その箱を開けば、過去の恋愛の思い出がきれいさっぱり消え去って縁が切られ、未来の恋愛が上手くいく良縁が結ばれると言われている。
根拠も証拠もなければ、根も葉もない取るに足らない些末事だと思っていた。そういう類の噂話が好きな愛佳がどこぞから聞きつけてきただけのオカルト話だと信じて疑わなかった。
しかし、玉手箱は実際にあった。
黒く光沢のある染料で塗装され、紫色の組紐で封がされた木製の小箱だった。すっかりこじらせてしまった恋に悩む私を元気づけ、勇気づけようとしてくれた愛佳と一緒に訪れた美術準備室に、それはあった。
そして愛佳は、その黒塗りの木箱を開けてしまったのだ。
「ほら、美術準備室でのこと。愛佳は……覚えてる?」
そんなはずはないとは思いつつも、努めて真剣に私は訊く。
あれは噂に過ぎないもののはずで、きっと誰か、それこそ美術部の人とかが課題か何かで作ったものが転がっていただけのはずで。ほとんど祈るようにそう思いながら見つめていると、愛佳は暫し考えるように教室の天井を見上げてから、ゆっくりと口を開いた。
「えっと、ごめん。なんか、あったっけ?」
彼女の返事に、私は思わず息を呑んだ。
「お母さんから聞いたんだけど、あたし、昨日の放課後に貧血で倒れたんだよね? なんか、柚月が近くにいた先生を呼んでくれて保健室まで連れていってくれたらしいって。もしかして、あたしたちって美術準備室にいたの?」
「あ、えと……」
うそをついている様子もなく、忘れようとしているわけでもなく、本当に覚えていないらしい反応を見せる愛佳に、私は口ごもるしかなかった。
まさか、本当に過去の恋愛に関する記憶を忘れている……?
咄嗟に首を横に振る。
いや、まだわからない。もしかしたら、貧血のショックでちょっと記憶が混濁しているだけかもしれない。確かめる方法は、まだもうひとつある。
私は一度小さく深呼吸をしてから、愛佳に向き直った。
「そう、なんだよね。それで、あんまりこんなことは言いたくないんだけど……宮坂くん、酷かったよね」
お願い、覚えていて。
本来なら忘れていたほうがいいほどのことなのに、つい、そう願ってしまった。
けれど愛佳は、やはり不思議そうに小首を傾げる。
「宮坂って……ああ、そういえばサッカー部にそんな人いたっけ。え、その人がどうかしたの?」
「あ…………」
力ない声が、私の口から漏れる。
きょとんとした顔で、むしろ変なことを言っている私を心配している表情の愛佳を前に、私は受け入れるしかなかった。
あの玉手箱って、本当の本当に、本物だったの……?
自然、美術準備室での出来事が頭を過ぎる。
愛佳は、偶然にも恋人である宮坂琉生の自分勝手な一面を知ってしまった。宮坂くんは、愛佳の前のカレシである先輩に友達の女子を紹介して別れさせ、愛佳が負った傷に寄り添い癒すことで自らが恋人の場所に収まったのだ。そして愛佳はそのことを知って絶望し、傷つき、見つけたばかりの縁切り結びの玉手箱を開けて、倒れた。
まさかとは思った。
何度呼びかけても返事がなく、急いで私は先生を呼んできて愛佳を保健室へと運んだ。保健室の先生は貧血と診断し、愛佳の両親に連絡を入れたから私には帰るようにと言ってきた。愛佳は未だ気を失っていたし、変に食い下がるのも不自然に思えたのでその場は大人しく家に帰った。
その日はわからなかった。家に帰ってからメッセージを送ろうかとも思ったけど、私も混乱していてなんて送ったらいいのかわからなかった。
一晩経って、私はようやく愛佳に訊く心の準備ができたのだ。
そうして尋ねた結果が、これだ。
「……ごめん。なんでもない」
宮坂くんがどうしたのかなんて、伝えられるはずもなかった。
愛佳は彼の心無い身勝手な言葉に傷つき、自分の意思で玉手箱を開けたのだ。だったら私は、その意思を最大限尊重するまでだった。
でもどうして、こんなにも心がざわつくのだろう。
玉手箱を見つけ、それが本物だったという衝撃のせいか。
あるいは、酷くて最低な恋人だとはいえ、確かに楽しかったはずの思い出まで愛佳が忘れてしまったからか。
それとも……。
「柚月。ちょっとこっち、来て」
そこで、唐突に愛佳は私の手を握った。思いがけない彼女の行動に私は目を見張る。
「え、でも。もうすぐ予鈴が」
「そんなのどうでもいいでしょ。ほら、早く」
鳴り響く予鈴のチャイムを背中に、私と愛佳はまたも教室を足早に飛び出した。