ホームルーム前の慌ただしさが残る廊下を駆け抜け、私が愛佳に連れて来られたのは昨日も訪れた非常階段だった。手すりも足場も白く塗られた塗装が剥げ、錆が目立ってきている。そんな鉄製の踊り場に降り立つと、愛佳は吹き荒ぶ風で乱れた髪を押さえながら尋ねてきた。
「それで柚月。昨日、何あったの?」
彼女の言葉にハッとする。
昨日、何あったの?
その問いかけは、まさに昨日のこの時間、この場所で言われた言葉だった。またも私の心の内を見透かしているらしい友達に、思わず私は苦笑を浮かべるしかなかった。
「もうー柚月、また笑ってる」
「ごめんごめん」
このやりとりも昨日したばかりだ。そして愛佳の反応を見る限り、昨日のこの時間のことは忘れていない。それだけで、少しばかり安心できた。
けれど、さすがに昨日とは違って、そのまま何があったのかを話すわけにはいかないと思った。
昨日の放課後の愛佳は、かなり傷ついていた。絶望していた。そんな深い悲しみを、今は玉手箱のおかげできれいさっぱり忘れている。さっきは覚えていてと願ってしまったけれど、辛い感情や記憶を忘れられているのなら、きっとそれに越したことはない。
だから、無理に話す必要なんてない。
「柚月?」
「ああ、ごめん。でも、ほんとになんでもないよ。ただ、宮坂くんが蹴ったサッカーボールが当たりそうだったねってだけ。だからほんとに、大した話じゃないの」
私は曖昧に笑う。
そうだ。あんな最低な恋人のことなんてすべて忘れて、さっさと次の新しい恋を探したほうがいいに決まってる。まさに、玉手箱の謂れそのものだ。そしてその謂れを現実のものとしている今の愛佳に、昨日の出来事は毒にはなれど薬にはならない。昨日のことは、私の胸の内に秘めておけばいいのだ。
「ふーん、そうなんだ。じゃあ、これはなに?」
でも、愛佳は私の笑顔だけでは安心できないとばかりに、小さく息をついてからつと私の目の前にあるものを掲げた。
「え」
それは、スマホだった。画面には、普段からよく使っているSNSのトークルームが映っている。やりとりをしている相手の名前がある場所には、「琉生」という文字があった。
「昨日の夜にさ、たくさんメッセージが来てたの。誰かわかんなくて、怖くてさ。その時は中身も見ずにトークルーム削除しちゃったんだ。でも朝にまた、メッセージが来てて。宮坂の下の名前知らなかったんだけど、この『琉生』って人が、もしかして宮坂なの?」
「え……と」
直球で訊かれて、私は言葉に詰まる。
普通なら過去のやりとりで埋まっているはずのトークルーム。けれどそこには、『愛佳? 大丈夫?』、『もしかして、なんか怒ってる?』という吹き出ししかない。トーク履歴があるトークルームを丸ごと消したという行為も、宮坂くんからのメッセージを見るだけで返信をしていない画面も、昨日までの愛佳だったらするはずのないありえないことだ。そんなありえない内容からまざまざと玉手箱の力を再確認させられ、驚きのあまり私は取り繕うことも忘れていた。
「昨日チラッと見えた最新メッセージもさ、なんか妙に親し気だったんだよね。ここでもなんか心配してくれてるみたいだし。で、柚月に会ったら誰なのか訊こうと思ってたんだけど、その反応を見るにやっぱり宮坂なんだね」
「あ、ちがっ」
「ああ、いいっていいって。柚月、結構すぐ顔に出るからバレバレだよ」
愛佳は短く笑いながらひらひらと手を振る。もうここまで見抜かれてしまうと、さすがに今から愛佳を納得させることは無理だと思った。
「……ごめん、愛佳。その通りだよ」
「そっか。それで、話してくれる? 今まで全く接点がなかった宮坂が、どうしてあたしに親し気なメッセージを送ってくるのか。……ううん、というより。昨日の放課後、美術準備室でいったい何があったのか」
「……うん」
それから、私は観念して愛佳にすべてを話した。宮坂くんは実は愛佳の恋人であること。私がセギ兄との関係で悩んでいたこと。放課後、愛佳と一緒にあちこちを回って勇気づけられたこと。それには縁切り結びの玉手箱が絡んでいて、美術準備室でたまたま見つけてしまったこと。そして、窓の外から聞こえた宮坂くんの声と、その後に愛佳がとった行動まで、すべて。
昨日の愛佳の様子から、話すことでまた彼女の気持ちが沈んでしまわないか心配していたが、杞憂だった。
「へぇ~なるほどね~。まさか本当に玉手箱があったなんてね~」
愛佳は思い出すことも落ち込むこともなく、ただ平然と頷いていた。
どうやら彼女は、私が落ち込んでいて昨日と同じ時間帯にここで話を聞いたことや、放課後に私を元気づけようとあちこち校内を回ったところまでは覚えているみたいだった。けれどその具体的な内容についてはあまり記憶がなく、なんとなくぼんやりと楽しく話をした程度の印象しかないらしかった。
改めて、玉手箱の噂が本当だったのだと認識する。
でもそれとはべつに、やはり私の心は妙にさざ波立っていて、落ち着かない。
「ほんとに、ごめんね。私、ビックリして、動揺しちゃって……つい、隠そうとしちゃって」
「もうー、なんで謝るの。柚月、べつに悪いことしてないじゃん。悪いことしてたのは宮坂だよ。それに、玉手箱の力が本物だったらビックリするのも当たり前だし、何があったか話せないのも無理ないことでしょ。多分、あたしが柚月の立場でもそうなってたと思うし」
「そ、そうかもしれないけど」
それでも、私は結局話してしまった。
愛佳が玉手箱を開けてでも忘れたかったことを、訊かれたとはいえ話してしまったのだ。その事実が、どうしても私の心に影を落とす。
昨日の愛佳の表情を思い出す。
今まで見たことがないくらい、彼女の顔は歪んでいた。私を勇気づけてくれた時の頼りがいのある愛佳の表情はどこにもなかった。それほどまでに愛佳は傷ついていた。
あんな愛佳は、もう二度と見たくない。
愛佳に、あんな表情をしてほしくない。
だから本当は何があったかなんて話すことなく、きれいさっぱり忘れたままのほうが、良かったはずなのに……。
「……ぁ」
そこまで考えて、ふと思い至る。
ずっと私の心にあった、不快感とともにうごめく嫌な感覚の正体に……。
「ほんとにもう、柚月は」
ふわりと、柔らかな感触が頭にあった。無意識に俯いていた私の顔を、愛佳が抱きすくめていた。
「あ、愛佳?」
「柚月ってさ、ドライそうに見えて意外と優しいんだよね。だから好き」
ぐりぐりと私の髪に彼女の頬が擦り付けられる。どこか甘い匂いが、鼻先をくすぐる。
「あたしにまで気を遣うことないんだよ、柚月。さっきのもあたしが知りたいと思って訊いたことなんだし。それにもしかして、心のどこかで『本当にこれで良かったのかな』とか思ってんじゃないの?」
「あ……」
愛佳の問いかけがすとんと私の胸に落ちてきた。妙にざわついていた心の内が、さらに輪郭を濃くしていく。
まさに、その通りだった。
愛佳は、育んできた恋の行く末を知って絶望し、玉手箱を開けた。
筋違いかもしれない。私が口を出すべきことじゃないのかもしれない。そもそも不意を突かれたというのもある。
けれどどうしても、これで良かったのかと、止めることができなかったのかと、心のどこかで思わずにはいられなかった。
確かに愛佳は傷ついていた。悲しんでいた。宮坂くんも最低だった。
でも、宮坂くんとの日常で幸せそうに笑っていたのも確かなのだ。
あの場は愛佳を押し留めて、冷静にその後のことを考えることはできなかったんだろうか。
玉手箱を開けてすべてを忘れ去ることが正解だったんだろうか。
そんな、今となってはどうしようもない後悔が、私の心の中には渦巻いていた。
「ごめんね、柚月。昨日のあたしが、勢い任せに玉手箱開けちゃったみたいで。話を聞く限りの想像だけど、きっとあたしは相当ショックだったんだと思う」
「うん……」
愛佳の言葉に、私はふるふると首を振る。そんなの、無理もないことだ。
愛佳はひと呼吸おいて、言葉を続ける。
「柚月がどう思うかは置いておいて、正直、今のあたしも忘れられて良かったって思ってる。だけど、こうして聞いちゃったからには、このままフェードアウトっていうのも性分に合わないなとも思ってるの。だから、玉手箱を開けちゃった今のあたしなりの方法で、ケリをつけることにするよ」
「今の愛佳なりの、やり方?」
彼女の胸から顔を上げると、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた愛佳と目が合った。
「真っ向勝負だよ」