それからしばらくして、やっと落ち着いた杏樹さんを宥めて、俺達は買い物の支度を始めた。
幸い俺自身が小柄で細身な体型だったので思ったよりブカブカにはならなかったが、昨晩の彼シャツ同様『彼氏の服を借りました』感が漂っている。
「に、似合わないですか?」
「別に似合わないわけじゃないんだけど……」
勝手にこういうスポーティーな格好はしないんだろうなと決めつけていたので、貴重な様子を見ているような新鮮な気分だった。
しかしポニーテールは神だ。うなじが可愛い。
ずっと見ていられると眺めていたらと、ついに羞恥心に耐えきれなくなった杏樹さんが耳まで赤くして隠してきた。
「そんなマジマジと見ないで……、早く行きましょ?」
ぷくーっと頬を膨らませて、萌える。
何だ、この可愛い生き物は。
「杏樹さんはパンケーキとか好き? お兄さんが奢ってやるけん、たくさん食いな?」
「な、何ですか、急に……。好きは好きですけど、そんなたくさんは食べられないです」
「いやー、可愛いなって思って。杏樹さんになら一生推せるな、俺」
冗談半分でからかっていると更に顔を真っ赤にして、ついにその場から逃げ出してしまった。
その反応は本気で推せるぞ、杏樹さん。
素直で可愛いし、何よりもあの見た目だ。きっと回りの男も放っておかないだろうなぁ。
————いや、実際のところどうなんだ?
そういえば、彼氏がいるかいないか、そういった質問をしていなかった。そんな存在がいたら俺を頼ったりしないという先入観があったせいだろう。
もし彼氏がいるなら、俺はどうなるんだろう? この関係は終わってしまうんじゃないだろうか?
こうしてモヤモヤした気持ちのまま、俺は街へと繰り出すこととなった。
————……★
「今日はたくさん付き合ってくださってありがとうございます。おかげで色々揃えることができました」
「いやいやー、俺も買いたいものが買えたから良かったよ」
車の後部座席が埋まるくらいの買い物を済ませた俺達は、一度荷物を置いてから改めて食事へと出かけ始めた。
崇の彼女さんのオススメの店で、ハンバーガーとビールが美味い店らしい。
服装も杏樹さんらしいガーリーなお装いになり、俺の密かにテンションが上がった。
行き交う男達の視線が彼女に集まる。隣を歩いている俺も優越感に浸っていた。
「そういえば……一之瀬さんは彼女とかはいないんですか?」
「え、いないけど、急にどうした?」
低賃金で馬車馬のように働かされていた社畜にそんな余裕があったと思うか? 高校卒業して以来、彼女どころか異性と関わった記憶すらない。
「かっこいいのにもったいないですね。でも良かった……もしいたら追い出されるかなって心配だったから」
そもそも彼女がいたらシェアハウスの誘いなんて切り出さない。彼女を差し置いて美少女と同棲する男なんて、ミンチにして豚の餌にしてやればいい。
「つーか、俺よりも杏樹さんだろ? こんな美少女を放っておくなんて、世の中の男は腑抜けばかりだな」
あ、それって俺も含まれる? 自分で自分の首を絞めている?
いや、俺の場合は信用問題さえクリアしたら、今すぐにでも彼女になって欲しいくらい気になっているんだけれども。
(とはいえ、俺のような無職に杏樹さんみたいな美少女は高嶺の花だけどな)
だが、俺の質問に中々答えが返ってこなかった。
青褪めた顔で苦笑いしている彼女をみて「しまった」と後悔した。
——いるのか? 彼氏………。
二人の間に気まずい空気が漂う。さっきまでの楽しい雰囲気が嘘のようだ。
信じたくないが、杏樹さんは彼氏がいるのに他の男の家に泊めさせて欲しいと平気で言える女性だったのか? いや、もしかしたら何か理由があって俺を頼ってきたのかもしれないから、安易に疑うのは良くないかもしれない。
「いいたくなければ答えなくてもいいよ。けど彼氏を悲しませるようなことだけはしないようにな?」
「違……っ、彼氏はいないんですけど、その……」
否定の言葉を続けようとした時、何かが視界に入ったのか、一瞬で彼女の表情が青褪めた。何だと振り向くと、そこには制服を纏った長身のイケメンが杏樹さんを食い入るように凝視していた。
「杏樹? 杏樹か? 心配したんだぞ! それより誰だ、その男は。ずっと連絡してたのに、まさかお前……!」
——えぇー……、それ、彼氏確定の修羅場のセリフ。黒か、杏樹さん、君……
だが何か様子がおかしい。青白くなるまで血の気の引いた顔にガタガタと震える指先。呼吸の仕方もおかしくて只事じゃない雰囲気だ。
もしかしてコイツ、杏樹さんに
(いや、それは俺の願望で、実際杏樹さんが——って可能性もある。けどな……)
「杏樹! 俺という男がいながら他の男といるなんて!」
「嫌、放して! やだ、ヤダ……!」
尋常ではない拒み方。二人にとって俺は部外者かもしれないけれど、怯えている杏樹さんを放っておくわけにはいかない。
俺は彼女の腕を掴んでいた手を振り解き、そのままタクシーをつかまえて乗り込んだ。
背後から男の叫び声が聞こえたけれど関係ない。まずは距離を取ることが最優先だろう。
——だが、どうしても悪いことばかり思い描いてしまう。杏樹さんを信じたいけど不利なカードばかりが揃う。完全に黒だ、これは。
「……杏樹さん、さっきの男は……?」
「ご、ごめんなさい。一之瀬さんに迷惑をかけるつもりじゃなかったんですけど……、まさかこんなところで会うとは思わなくて」
いや、隠し通せたらいいって問題でもないんだが。
流石にどんな美少女でも、浮気するような人は嫌だ。俺は彼女の出方次第では突き放さなければと覚悟を決めていた。
「あの人が……私を引き取った親戚の息子なんです。家でも外でもずっと付き纏っていて、私の学校の人間にも自分が彼氏だって言いふらしていて……ストーカーのように付き纏って困っているんです」
「そうなんだ、やっぱり杏樹さんの彼氏——……え? 親戚の息子? ってことは杏樹さんを性的に見てくるど変態野郎?」
「そうです。私のお風呂を覗いてきたり、下着を盗んだりしてきた兄弟の一人です」
嘘だろ、あんなイケメンが変態行為をしていたなんて!
頭がクラクラした。逃げて正解だったのかもしれないが、これは……後々面倒な展開になりそうだ。
「あの人のせいで学校で孤立して、彼氏どころか友達も出来なくて辛かったんです。でもどうしよう……まかさこんなに早く見つかるとは思っていなかったです」
彼氏がいないことは判明したが、杏樹さんを苦しめる悪の根源に見つかってしまった不運を二人で悔やみながら家へと戻った。
————……★
「しっかし、イケメンだったな……身長も180センチは余裕で超えてたな。俺は170ないのに……(ぶつぶつ)」