買ってきたカフェオレを口に含みながら、俺は改めて杏樹さんに視線を向けた。
この上ない美少女なのに伏目がちで不幸なオーラを纏ったダウナー系。この雰囲気や容姿から目が逸らさない。
「今は土日だからいいんだけど、これから学校はどうするん?」
強張る身体。伝わってくる緊張。ギュッと裾を握り締めた仕草に胸が痛んだ。
しまった、切り出すのが早かったか?
「……学校には行きます。でも家には帰りたくないです」
その返答に少しだけ胸を撫で下ろした。どうやら問題は家庭だけのようだ。とはいえ頼る友達もいないところを見ると、そちらも楽観視できないだろうと苦笑が溢れた。
「んじゃ、杏樹さんの親戚が捜索願を出さないように連絡すれば問題ないかな。電話でも手紙でもいいから一報だけは入れておいてよ」
「————え?」
呆気ない言葉に彼女は虚をつかれたような表情を上げてきた。
「いいよ、別に。シェアハウスしてると思えば。俺も社畜辞めたばっかで気が滅入っていたし。二人で這い上がっていけばいいんじゃね?」
「でも、だからと言って、二つ返事で決められるようなことじゃ」
「ははは、ついこの間まで最低な環境にいた人間だぜ? 仮に杏樹さんが
そう、職もない。養う家族も彼女もいない。
「だからさ、せめて杏樹さんの役に立てれば……少しは徳が積まれるんじゃねぇかなーって思ったり」
自暴自棄気味に笑っていると、彼女が手を伸ばして俺の頭を優しく撫で始めた。
「——は?」
思ってもいなかった行為に、思わず情けない言葉がこぼれた。もう何年もこんなふうに撫でられたことがない。それこそ小学生の時以来じゃないだろうか? しかも六歳も年下の学生に撫でられるなんて。あり得ない、あり得ない……。
「あまり……自虐的にならないで下さい。私は一之瀬さんの優しさに救われたんです。正直、家に誘われた時には貞操の危機を覚悟していたんですが」
あ、やっぱり警戒していたんだ。そりゃ、そうか。それが当たり前だろう。
「でも一之瀬さんは……言葉のとおり手を出さなくて、優しい人で。私はそれだけで救われた気持ちになりました」
「いや、人間として当たり前だろう? そんなんで救済されたと思うとか、今までどんな生き方を……」
そこまで口にして、慌てて口元を押さえた。
してきたんだ。彼女はそんな環境で生きてきたんだ。
両親を失って、ろくに知りもしない親戚に引き取られて、誰にも相談もできずに自殺に追い込まれるほど悩み続けて。
「そっか、そうだよな……杏樹さんも大変だったんだ。いいよ、ここにいる間だけでも気を楽しにて寛げばいいよ」
今度は俺が彼女の頭を撫で回した。
まるで猫のように目を細めて、それでも受け止めてくれた彼女に笑みを溢しながら愛でた。
「——っと、決まれば、色々買い出しに行かねぇといけないな。杏樹さんの服や歯ブラシとかも。あと食器や調理器具も揃えないとな」
今まで風呂に入って寝るだけだった我が家。年頃の娘さんを預かるには、あまりにも何もなさすぎる。
「そんな気を使わなくても、私は最小限のものがあればそれでいいですから」
「いや、人間規則正しい生活を送らないと、気が滅入るからな。貯金だけはたんまりあるから気にしなくていいよ。っていうか、せっかく時間もあるんだから旅行とかもしてぇよなー。杏樹さん、二人で色々出掛けて楽しむか!」
そんな無責任な提案に、彼女は初めて声を出して笑った。やっと年相応の、十八歳の顔で無邪気に笑った。
「一之瀬さんって、かなりポジティブな人ですよね。そっか、楽しむ……そんな余裕、今までなかったけど、いいんだ。私も楽しんでいいんだ」
「当たり前だろう? きっと天国の親御さんもそれを願ってるって。暗い顔ばかりで落ち込んでいたら、うかうか成仏も出来ずに地縛霊になっちまうよ」
「やっぱり人間って死んだら幽霊になるんですか? 私、霊感ないから見たことないんだけど」
「俺もないな。って言うか、いくら家族でも幽霊は見たくねぇし。やっぱりちゃんと成仏してもらいたいと思うから、見えない方がいいな」
それよりせっかくの休日、今日は何をしよう。必要なものを買いに行くついでに美味しいものでも食べに行きたい。
「んじゃ、行こうか。久々に美味いパスタやピザが食いてぇなー」
支度をしようと立ち上がった時だった。シャツの裾を掴まれ、思わずバランスを崩しそうになってしまった。
どうしたのだろうと杏樹さんを見ると、瞳いっぱいに涙を浮かべて必死に堪えていた。
「私は……幽霊でもいいから会いにきて欲しいと思ってた。私だけ遺されて、ずっと寂しくて。なのに会いにきてくれないのは、私のことなんてどうでもいいからなのかなって……」
咄嗟なことに、掛ける言葉が見つからなかった。
そんなつもりで言ったんじゃない。深い意味なんてなかった。でも彼女は真剣に悩んでいて、ずっと責め続けていたんだ。
他の人間なら容易にスルーするようなことを。
「——幽霊は、こうして生きている人間に触れることができないし、姿を見せることもできないからな。もしかしたら傍で見守ってくれているかもしれないけど、そのことを俺達は知ることもできないから仕方ねぇよ」
小さく震える彼女を包むように抱き締めて、後頭部の辺りをポンポンと撫でるように叩いた。
「誰かに慰められたかったのなら、俺が慰めてやるから。だからそんなふうに自分を責めるのはやめろよ。大丈夫、杏樹さんは一人じゃない」
やっと素の彼女に触れることができたようで、嬉しかった。そして俺達は互いの存在を確かめ合うように、そのまま抱き締め合っていた。
————……★
「(これが少女漫画なら『トゥクン……』とトキメキの効果音が鳴る場面だけど。そしてAVならベッドになだれ込んで、アハンイヤン——って、こんなことばっか考えているから彼女ができないんだろうな、俺は)」