それから二週間が経った日。
私は、千葉さんと一緒に自分の家の前に立っていた。
風が頬をかすめていくのに、体の内側はじっとりと熱をもっていて、手のひらには汗がにじんでいる。
鼓動もやけに大きくて、ずっとドキドキしてる。
この間、千葉さんに「挨拶したい」と言われて、思いきって佐知姉に相談したら……。
「なにそれ超嬉しい!紹介してよ~!」と、予想外のテンションで返ってきた。
美容室の仕事までわざわざ休みを取ってくれたのは、ちょっと驚きだったけど……。
まぁ、いろいろ相談に乗ってもらったし、こういうのをちゃんと伝えるのも大事だって思った。
でもやっぱり、緊張する。
私は玄関の前で小さく深呼吸をひとつ吐く。
今日、両親はふたり揃って出かけている。
だから家にいるのは佐知姉だけ。
このタイミングしかないと思って今日を選んだ。
両親に話すのは、もう少し勇気が必要だから、もうちょっと待ってて欲しいな。
でも、お姉ちゃんが賛成してくれたらきっと自信が持てると思うの。
隣に立つ千葉さんを見ると、私よりもずっと落ち着いているように見えた。
「……なんか、私の方が緊張する。千葉さん、もしかしてこういうの慣れてる?」
「まさか。……でも、麻美ちゃんのお姉さんでしょ? それなら大丈夫だよ」
「ずるいな〜。大人は余裕で……私は初めてなんだから、そりゃ緊張もするよ」
今まで付き合ってきた人に、家族を紹介したことなんてなかった。
正直、そこまで好きになったこともなかったし、将来のことなんて考えたこともなかった。
だからこそ今、受け入れてもらえなかったらって考えると、不安でたまらない。
「そっか……麻美ちゃんははじめてなのか。それ、なんか嬉しいな」
千葉さんはそう言って、照れくさそうに鼻をかいた。
「麻美ちゃんって、絶対モテてきたと思うし……初めて紹介したいって思った相手が俺ってことでしょ?」
「ま、まぁ……」
「かわいい」
そんな風にストレートに言って、ぽんぽんと私の頭を撫でる。
……最近、千葉さんは私のことをよくかわいいって言ってくる。
直球で言われるのは嬉しいけど、照れが勝ってしまって私はつい、ふいっと顔をそむけた。
「子ども扱いするのやめてください……!」
「ちぇ、つれないなあ」
「もう中に入りますからね!」
言いながら、勢いよく玄関のドアを開ける。
「ただいまー……佐知姉、いる?」
「はーい、今行くね!」
廊下の奥から、いつものリズムの足音が近づいてくる。
そしてやってきた佐知姉は、家用のラフなワンピース姿をしていた。
でも、どこかしっかりメイクもしていて、部屋着なのにキレイで整ってる。
「こんにちは〜」
「はじめまして。麻美ちゃんとお付き合いさせていただいてます、千葉遠矢です」
千葉さんが丁寧にお辞儀をする。
その姿は背筋がぴんと伸びていて、まるで営業マンみたいにきちんとしている。
さすが千葉さん……やっぱり大人って感じする。
けれどその時だった。
「……あ……」
佐知姉の口から、小さく息を呑むような声が漏れた。
私はその異変に気づいて、佐知姉の顔をのぞき込んだ。
「どうしたの?」
「……ああ、いや、なんでもないの」
その言い方が、なんだかウソくさく感じたのは私だけだろうか。
「はじめまして。麻美の姉です。どうぞ、ゆっくりしていってください」
そう言って、佐知姉はなにごともなかったように微笑み、私たちを部屋に通してくれた。
リビングに座って、ゆっくり話せるかと思っていたその時。
佐知姉が、私にだけ聞こえるような声で言った。
「ごめん麻美……さっき、急に仕事が入っちゃって……今から出勤しなきゃいけないの」
「えっ、今から?」
美容室ってそんな急に呼び出されるのかな……?
今日は休みって言ってたのに。
不自然な行動に驚くけれど、仕方ないか……。
「分かった。じゃあまた今度、時間ある時に改めて連れて来るね」
「うん。今日はゆっくりしていってね!千葉さんも、どうぞごゆっくり」
佐知姉はそれだけ言うと、すぐにリビングから背中を向けて出ていこうとした。
その時だった。
「……佐知……!」
突然、背後から千葉さんの声が響く。
私は息を飲んだ。
……え?今、なんて……?
「佐知」って……どうして、佐知姉の名前を知ってるの?
私が呼ぶ前に、千葉さんの口から出た姉の名前。
それは、まるで昔から知っていたかのような、自然な呼び方だった。
次の瞬間、佐知姉の足が止まる。
リビングの空気が、一瞬で張りつめた。
私の中に、ざわりとした不安が広がる。
なんで、千葉さんは姉の名前を……知ってるの……?
佐知姉は一瞬だけ足を止めたけれど、なにも言わずそのまま走り去っていってしまった。
あきらかに不自然な雰囲気の佐知姉と千葉さん。
どういうこと……?
そう考えて私ははっとする。
そういえば、佐知姉と千葉さんは同じ歳かもしれない。
「ふたりってもしかして知り合い?」
私がたずねると、彼は少しだけ目を伏せ、曖昧に笑った。
「あー、そう。高校一緒だったんだ」
「えっ。そうだったんだ……」
まさか千葉さんと佐知姉が一緒の高校だったなんて……。
「すごいね、高校同じって。そんな偶然あるんだね」
「俺も驚いたよ」
笑って見せる千葉さん。
でも、その表情の奥にあるわずかな陰りが、どうしても引っかかった。
笑ってるけど、目がどこか遠くを見ている気がする。
『佐知……!』
あの時の真剣な声が、耳の奥でよみがえる。
胸の奥がきゅっと締め付けられるような、いやな予感。
佐知姉の様子もなんだか変だったし……。
「もしかして付き合ってたりして……」
私が冗談まじりでそういうと、一瞬だけ千葉さんが沈黙した。
そして少し遅れて、ぽつりとつぶやくように言った。
「そういうのはないよ。別に高校でもそこまで仲良かったわけじゃないし……」
じゃあなんでそんな反応するんだろう。
そのわかりやすい反応に、私は、自分の知らないなにかがそこにあることを、はっきりと悟ってしまった。
あの時の千葉さん……たぶんウソをついていたよね。
佐知姉となにがあったの?
私には教えられないこと?
それから、千葉さんと話しても彼はどこか上の空だった。
まるで心だけがここにいないみたいに、返事もあいまいで、声に力がない。
私はさみしくなった。
せっかくふたりきりの時間を過ごしているのに、どこかひとりぼっちみたいだった。
やがて時間になり、私たちは解散することになった。
「それじゃあ」
千葉さんがもう暗いから家の前で解散しようと言ったので、私は家の前で彼を見送る。
「またね、麻美ちゃん」
今日ずっと千葉さんと一緒にいたはずなのに、心の中にはぽっかりと穴が開いたみたいだった。
なんだろう、この感じ……。
私は思わず、彼を追いかけて手をとった。
「待って……っ!」
「どうしたの?」
そして千葉さんに言った。
「……キス、してほしい」
自分でもびっくりするような言葉だった。
でも、どうしても言わずにいられなかった。
だって寂しかったから。
千葉さんの心が、どこか遠くへ行ってしまいそうで怖かったから。
「こんなところで、誰が見てるかも分からないしダメだよ」
千葉さんは優しい口調で言った。
「嫌だ。じゃあ今日は家に帰らないもん」
わがまま言ってるって分かってる。
普段の私なら絶対こんなこと言わない。
でも……佐知姉とのやりとりを見てしまったからかな。
どうしても、ここで引きたくなかった。
「してくれないなら、家に入らない。それで……千葉さんのこと困らせるもん……」
すると千葉さんは周りを確認した後、優しく私の唇にキスをした。
「んっ……」
本当に一瞬で終わってしまったキス。
でも、その時だけは気持ちが通じたみたいで嬉しかった。
「ありが……」
お礼を言って別れようとした時。
「佐知……」
その声に振り向くと、そこには仕事終わりの佐知姉が立っていた。
「あっ、佐知姉……」
見られちゃったかな。
頬が熱くなる。
だけど、佐知姉の顔にはいつもの明るい表情はなかった。
怒っているような、呆れているような……そんな顔だった。
「こんなところでキスなんてよくないんじゃないの?」
「……分かってるよ」
「あんたね、また遊んでるっていうなら私は許さないから!」
佐知姉……?
「……ごめんね、麻美ちゃん」
千葉さんは佐知姉の言葉になにも応えず、私に声をかけて背中を向けてしまう。
「あっ、千葉さ……っ」
「麻美ちゃん。またね」
そうして腕をあげて立ち去ってしまった。
どういうこと……?
明らかに佐知姉と千葉さんの態度がおかしい。
佐知姉はいつもニコニコしていて、あんな風に嫌悪感丸出しで怒ったりしない人だ。
なにがあったんだろう……。
それから私たちはふたりで家に帰った。
その間は無言で、部屋に向かった時、佐知姉が口を開いた。
「ごめんね、あんなこと言って……」
佐知姉はあまり私と目を合わせないようにしているようだった。
「麻美の彼氏なのに、あんな風な言い方されたら嫌だよね。私……全然冷静じゃなかった」
「ねぇ……佐知姉。千葉さんとはどんな関係なの? 同じ高校だったとは聞いたんだけど……それ以上になにかあったの?」
すると佐知姉はうつむいた。
でもすぐに顔をあげて言う。
「ビックリしたわ、まさか知り合いと麻美が一緒にいるんだもん。でも大丈夫よ、そんなに仲良かったわけじゃないから」
千葉さんも佐知姉も同じことを言っていて、私は少しほっとした。
でも、だったら佐知姉はなんであんなに強い口調で言ったんだろう。
佐知姉は本当に人当たりがいい人で、どんな人にもいい印象を植え付けるのが得意だ。
でもさっきの佐知姉は、明らかに嫌悪感が見て取れるような態度だった。
「佐知姉は千葉さんが嫌いだったの?」
私がたずねると、佐知姉は静かに答えた。
「嫌な気持ちになったりしない?」
怖いけど、コクコクと頷く。
千葉さんのことは信じてる。
彼を受け入れること、彼を好きだと伝えるのだってすごく勇気がいった。
簡単な気持ちで付き合ったわけじゃない。
だからきっと大丈夫だ。
私は静かに深呼吸し、胸に手を当てる。
少し早く打つ鼓動を感じながら、目の前の佐知姉をまっすぐ見つめた。
すると、それに応えるように、彼女は言った。
「昔、アイツ……かなりチャラかったのよ。付き合ってる彼女をとっかえひっかえしてて、だから今もそうなんじゃないかって思ったの。麻美が大事だからさぁ、過保護姉ちゃん出ちゃったのかも」
「えっ、そんなこと……」
ちょっとかまえてた分、思わぬ言葉に拍子抜けする。
もっとなにか、ドロドロした関係があったのかと緊張していたから。
これは……佐知姉なりの心配だったんだ。
「大丈夫だった?気にしたりしない?」
真剣な瞳で問いかけてくる佐知姉。
私は小さく笑って、こくりと頷いた。
「うん、千葉さんがけっこうモテるのは分かってる。だからある程度遊んできたんだろうなってことも」
だからそこは覚悟していた。
年上の大人だし、あきらかに自分より経験値がある。
付き合ってきた女性の中に美人な人がいたりとか、私じゃ到底追いつかないような人がいる可能性だって分かってた。
それでも……。
「今は私の方を見てくれているならそれでいいって思ったんだ」
私の言葉に、佐知姉の顔がふっと和らいだ。
「良かった~っ。佐知姉いつもと違う顔してるからちょっと不安になっちゃった~」
「大丈夫だって」
ぱっと腕を広げて、佐知姉がぎゅっと私に抱きついてくる。
そのぬくもりに、子どものころの安心感がよみがえった。
「チャラいって聞いても不安にならないってことは、麻美も大事にしてもらってるんだね!よくよく高校生なんてだいぶ前の話だし、今はもうお互い大人になってるわけだしね?チャラチャラしてるんじゃないかって心配になる必要もないか」
私は少しだけ、胸を張って言った。
「今は……千葉さん、私が不安にならないようにしっかり気持ち伝えてくれてるの分かる、かも」
「そう……良かった」
佐知姉は小さく笑って見せた。
その笑顔が、少しだけ切なそうに見えたのは、気のせいだったのかもしれない。
「今日はごめんね!またゆっくり時間ある時に連れてきてね」
「うんっ!」
こうして佐知姉は「疲れた~」なんて言いながら、お風呂へと向かっていった。
背中にタオルを乗せて、スリッパをぱたぱた鳴らしながら歩くその姿は、なんだか子どものようだった。
良かった。
後で千葉さんにも連絡しておこう。
ふたりが知り合いだったのはビックリしたけど、そんなに関わりもなかったみたいだし……佐知姉も私を心配してあの言葉が出たって言ってたから大丈夫だよね?
今度はゆっくり、佐知姉に紹介出来たらいいな……。
大事な人を大好きなお姉ちゃんに紹介出来たら、さぞ幸せなことだろう。
「透也……」
私の部屋の外で、佐知姉がそうつぶやいたことも知らず、私はルンルンで千葉さんにメールを打った──。