【佐知side】
玄関から、軽やかでどこか浮き立つような麻美の声が響いてきた。
声の調子ひとつで、彼女の機嫌の良さが伝わってくる。
今日は麻美が彼氏を連れて来る日。
どんな人が来るんだろうって朝から何度も時計を見ては、その瞬間を心待ちにしていた。
麻美はいつも彼氏が出来ても誰かに紹介するようなことはしなかった。
でも今回は紹介したいと自分から言ってくれたから、真剣にお付き合いをしている人なんだろう。
麻美はモテるけれど、恋愛をすることがそもそも好きじゃない子で、「周りが恋愛してるから私もしてみてる」みたいなことをよく言っていた。
本当に好きになるってどういうことか分からないらしい。
よくそんな相談をされていたっけ?
でも最近は出掛ける前に私にヘアアレンジを頼んできたり、大人っぽくなるメイクの仕方とかを聞いてきていたからきっといい人がいるんだろうなって予感はしてた。
まさか連れてきてくれるとは思わなかったけど、楽しみだなぁ。
どんな人だろう。
きっと麻美が選んだ人なんだからいい人に決まってるよね。
「ただいまー……佐智姉いる?」
麻美が玄関口から声をかける。
私は返事をして向かうことにした。
「はーい、今行くね!」
いよいよか……。
その一言に、なんの前触れもなく心臓が小さく跳ねた。
やっぱり成長したわね、麻美。
これから色んな恋バナだって話せたりするのかな?
少し歳が離れた妹だけど可愛くて仕方ないんだ。
足音を辿り、廊下を歩く。
いつものように、笑顔を作って玄関先に行った時だった。
「こんにちは~」
明るく、穏やかで、聞き覚えのある声が耳を打った。
その声に、私の中の何かが一瞬で凍りつく。
「はじめまして。麻美ちゃんとお付き合いさせてもらってます、千葉です」
えっ……!
そこに立っていたのは、私も知っている人だった。
──ドクン。
透也……。どうしてここに透也がいるの……っ。
「……あ」
声にならない息が漏れる。
反射的に呼びかけそうになった名前を、なんとか飲み込んだ。
透也も気づいたようだった。私を見た瞬間、その表情が一瞬だけ変わった。
過去を知る人間と、思いがけず再会してしまったとき特有の、居場所を失ったような、そんな顔をしていたから。
思わず漏れる声を飲み込んで、心の中で呼んだ名前は、唇を震わせるほど甘くて痛かった。
麻美の彼氏がまさか、透也のことだったなんて……。
どこで出会ったんだろう。
年も違う、バイト先にだっていい感じの人はいなかったはずだ。
私はあんなに会いたいと願っていても、この男に会えなかったのに……。
ずっと忘れられなかった男がいる。
男らしくて、たくましくて、大好きで……人生生きてきた中で一番好きだった人。
そんな人が目の前にいるなんて想像もしない。
「どうしたの?佐知姉」
「……ああ、いやなんでもないの……」
透也と目が合う。
目の前の彼の顔、声、立ち方、目の奥の切ない光。
すべて、あの頃となにひとつ変わっていなかった。
──ドキン、ドキン、ドキン。
心臓がゆっくりと動き出す。
「はじめまして、麻美の姉です。どうぞゆっくりしていってください」
私は平然をよそおってそう告げた。
ああ、どうして神様ってこんなに残酷なんだろう。
ずっと好きだった人がこんな風に私の前に姿を現すなんて……。
放課後の教室。
夏の帰り道。
駅のホームで、別れ際に不器用に手を振ったキミ。
全部一瞬にして思い出してしまう。
こんなにも、覚えてるものなんだ。
忘れたはずだったのに。
もう、何年も経ったのに。
このままこの場所にはいられなかった。
「ごめん麻美……さっき仕事が入っちゃって……今から出勤しないといけないの」
「えっ、今から?」
「分かった。じゃあまた今度時間がある時に連れて来るね」
少し残念そうな顔をする麻美。
ごめんね。
本当なら祝福してあげたかったのに。
「うん。今日はゆっくりしていってね!千葉さんも、どうぞゆっくりしていってください」
それだけ言うと、私はふたりに背中を向けた。
「佐知……!」
しかし、透也は私の名前を呼んだ。
呼ばないでよ……。
昔みたいに名前を呼ぶのはやめて。
もうあなたと私は関係のない人なんだから。
私はなにも言わずキッチンへ逃げ込んだ。
ああ、ちょっと不自然だったかな。
おかしかったよね。
でもああするしかできなかった。
目の奥がじんわり熱くなるのを誤魔化しながら、私は外に出る準備をする。
本当は仕事なんてない。
でも今、動揺したままここにはいられないから。
カバンを持つ手が微かに震えていた。
透也。
変わってなかった……。
少しだけ大人っぽくなっていて、でもあの時の顔は変わっていない。
あの頃のまま、大人になった透也がそこに立っていた。
私の大事な妹、麻美の「彼氏」として。
なにも知らない、無邪気な妹の笑顔が脳裏をよぎる。
心が、千切れそうだった。
麻美には言えない。
私たちが高校時代に付き合っていたこと。
私がずっと大好きな人であったことを言うことは出来ない──。
入学してすぐの春、教室の席替えで私のななめ後ろになったのが、千葉透也だった。
彼は入学式の日から目立つ存在で、制服の着崩し方も、軽いノリの話し方も。
どこかチャラそうで、でも笑顔だけは不思議と人懐っこくて、見ているだけで周りを明るくする人だった。
女子も男子も、彼のまわりに自然と集まっていて、とにかく人に好かれるんだ。
「ねぇ、千葉くんってめっちゃカッコよくない?」
「わかる!絶対モテるタイプだよね。なんていうか気遣いとか出来てさぁ……軽そうだけどなんか憎めないし」
そのとき私は、内心「ふーん」と流していた。顔が良くてチャラい男なんて、たいてい中身も薄っぺらいのに。
みんなどうしてそういう男を好きになるだろうな。
「麻美はどう思う?あんためっちゃ美人だからお似合いじゃない?」
「……あんまりタイプじゃない」
「やった!じゃあ私狙っちゃおう~」
友達の美香は他校に彼氏がいるというのにそんなことを平気で言っていた。
私も一緒にいる香織だってそう。
ひとつ上の先輩と付き合ってるのにいい人がいないか探してる。
けっきょく恋愛なんてそれだけちっぽけなもので、私はわざわざする気になんてなれなかった。
それから美香と香織と遊んで帰った帰り道。
なに気なくスマホをいじっていると、突然SNSのアカウントにメッセージが送られてきた。
【こんにちは!美香の彼氏の翔太っていいます。この間、偶然会ったよね?】
美香の彼氏からなんでメッセージなんて……?
そういえば、偶然あったな。
美香たちと遊んでいた時に、彼氏の翔太くんと出くわしてこのままカフェに行こうよ!って美香が熱烈に言うから断れなくて一緒に行ったんだった。
美香はきっと偶然会えたから翔太くんとふたりで遊びたかったんだろうけど、翔太くんが「じゃあみんなで一緒に」なんて言うからそうするしかなかったんだろう。
私たちにとってはありがた迷惑だったけれど、これも美香の機嫌を損ねないために仕方のないことだった。
そして美香と翔太くんは人前だということも気にせずイチャイチャしていた。
そんな翔太くんがなんの用だろう……。
美香にサプライズで届けて欲しいものがあるとか?
そう思っていると、さらにメッセージが送られてくる。
【この間会った時、麻美ちゃんめっちゃ可愛かったな~って思って。美香には内緒で、今度はふたりで会えたりしない?】
なに、これ……。
よく美香と付き合っててこんなこと出来るな。
やっぱり男の人って信用出来ない人ばっかりだ。
だから嫌なんだ。恋愛なんてするのが。
胸の奥でざわざわと黒い感情が広がっていく。
私はメッセージを無視することにした。
それから何度がしつこくメッセージが送られてきたけれど、私は一度も返すことはなかった。
美香に言うか迷うな……。
でも聞いたら気を悪くするかもしれないし……やめておこう。
そんな風に思った翌日、学校に行くと美香は自分の机の上で泣いていた。
「美香、どうしたの!?」
私が慌てて駆け寄ると、美香は私のことを睨みつけた。
「美香……?」
側にいる香織ちゃんも怒ったような顔でこっちを見ている。
「どうしたのじゃないでしょ、白々しい!」
なんで怒っているの……?
「あんた、人の彼氏取ったでしょ!」
「えっ」
私が美香の彼氏をとった?
「なに言ってるの?そんなわけないじゃない」
「とぼけないでよ!知ってるんだから!今朝、翔太から言われたのよ!麻美ちゃんのことを好きになったから別れて欲しいって!きっとあんたが影で翔太と連絡とってたんでしょ」
「違う!待って、私そんなことしてない……たしかに翔太くんからメッセージは来たけど一度も返してなんか……」
「ウソよ!そんなわけない!きっと私が知らない間に密に連絡とって会ったりしてたんでしょう?」
違うのに……。
必死に伝えても誰も信じてくれなかった。
教室のあちこちから、私を見る視線がじりじりと集まってくる。
「佐知いつかやりそうだと思ってたんだよね。男子の気を引いてさ、自分はモテますアピールしてたし」
「待って、私そんなことしてない……!」
「ほら、またそう言って認めない。モテるけど、自分は恋愛興味ありませんよ~みたいな素振りめっちゃしてたじゃん」
本当に恋愛は興味がなかったから言ってただけなのに……。
誰も私の言葉を信じようとはしてくれなかった。
そして美香は溜め息をつき、ひとことだけ吐き捨てた。
「もういいから、邪魔だからどっか行って?ずっとウザいと思ってたの。男子はみんなして佐知ちゃん佐知ちゃん。いい気になってさ、ウゼーんだよ!」
「美香……」
その瞬間、わかった。
もう、なにを言っても無駄なんだと。
その日から、私はひとりになった。
一緒に笑った昼休みも、放課後の帰り道も、この空間は誰の声も届かない場所へ変わった。
ただひとりきりで座る私の周りを、みんなの楽しそうな笑い声が遠巻きに通り過ぎていくだけ。
まるで、自分だけ世界から消えたみたいだった。
休み時間になっても、話しかけてくれる子はいない。
ひとりでお弁当を広げて食べて、そんな孤独な生活が続いた。
耳に届くのは、小さくひそやかな悪意ばかり。
「麻美ちゃん、美香ちゃんの彼氏とったんだって」
「こわ~!でも色んな人に色目使ってそうだもんね」
ウワサなんて、火がつけばあっという間だった。
いつの間にかクラスの人だけじゃなくて、他のクラスにまでウワサはまわった。
なにも言い返せないまま、私は友達の彼氏をとった女としてクラスの人からイジメられるようになった。
学校に行き、机の引き出しを開けた瞬間、指先にぬるりとした感触がまとわりつく。
「……なに、これ。」
教科書もノートも、ベタベタに濡れていた。
カバンの中身までも、びしょ濡れだった。
「うわ、なんかアイツの席汚いんですけどー」
「空気悪くするからやめて欲しいよね」
背後から誰かが、わざとらしい声で言う。
振り返れば、美香たちと一緒にいる数人の女子が、口元を押さえて笑っていた。
「掃除用具入れのバケツ、倒れたんだって〜」
「ウケる!キレイにアイツのところだけ濡れてるじゃん」
わざとされたのは明確だった。
それでも私は、なにも言い返せなかった。
「……っ」
唇をぎゅっと噛みしめて耐えることしかできない。
くやしい……。
でもどんなに私がやってないと言ったって信じてくれる人はいない。
仲間はいなんだ。
私は無駄なことはしない。
抗わないで、受け入れて、それからみんなが飽きるのを待つことしかできない。
それから、放課後になり、仕方なく濡れたままの鞄を抱えて昇降口に向かうと、クツ箱の前でもう一度息が詰まりそうになった。
ない……。
私のクツが無い……。
隠されたんだ。
こんなふうに私がイジメの標的になる日が来るなんて思ったこともなかった。
あんなことがなかったら、今でも美香たちと笑っていたんだろうか。
考えても仕方のないことばかり、頭の中で考えていた。
私は、仕方なく濡れた鞄を抱えたまま上履きで校門まで歩いた。
もう探す気力さえなかった。
お母さんにはなんて説明しよう……。
イジメられてるって言ったらきっと心配するよね。
お母さんは私と6歳年の離れた妹を女手ひとつで養っている。
5年前、お父さんの浮気で離婚してからずっとだ。
そんな母に心配はかけられない。
「……っ、う」
いつまで続くんだろう、この地獄は……。
一体いつ解放されるんだろう。
胃が逆流していくような感覚になっていた時、背後から声が響いた。
「クツなくしたのか?」
そうやって声をかけてきたのは、同じクラスの千葉透也だった。
「上履きのままじゃん。まさかぼーっとして気づかなかったってことはないだろ?」
私は一度だけ視線を移すけれど、気づかなかったフリして立ち去ろうとした。
千葉くんはクラスのリーダー的存在。
きっと私のこともバカにしようとしたんだろう。
「あっ、おいってば……!待てよ」
うざいなあ。
いいじゃないか。
みんなに好かれてて、たくさんの人が集まってきてなんでも容量よくこなせる。
欲しいもの、全部持ってるんだからそれでいいじゃん!
どうしてバカにするためにわざわざ人に構ってくるんだ。
必死に追いかけてくる千葉くんは、私に向かって言った。
「それじゃあ帰れねぇだろう?無くしたんなら一緒に探そうぜ」
は……?
なに言ってるんだろう。
バカにしにきたんじゃないの?
それとも最初だけ優しくして隙を見せたら、地獄に落とすみたいなことがしたいわけ?
「いいから話しかけないで」
そっけなく言い放ったら千葉くんは言った。
「俺が無理。そんなの見つけちまってそのまま帰らせられねぇだろ?外は危ないよ、なにが落ちてるか分かんねぇしな」
その言葉がなんだかニセモノには聞こえなかった。
それは私の心が弱ってるからだろうか。
人にすがりたくなってしまっているからだろうか。
「じゃあ……」
気づけばそんな風に言っていた。
千葉くんは二カっと歯を見せてから、クツを探すことを協力してくれた。
ふたりで色んなところを探した後、焼却炉のゴミ箱の中に私のクツを発見した。
「あったぞ!」
「本当だ!」
私はほうっとため息をついた。
まだ燃やされてなくて良かった。
これが時間になって燃やされてしまったら、もう取り返しがつかなかった。
「良かったな、佐知」
「ちょっ、佐知って……」
「え、だって苗字忘れちまった!だから佐知でいいだろう?」
にっと歯を見せて笑う姿になぜだか胸がざわついた。
ずっとひとりぼっちだったから、笑いかけられて凍っていた心が動いたのかもしれない。
彼は私のクツを差し出すと言った。
「なにかあったら俺に言えよ」
私は少しだけ笑うことができた。
彼に言ったところでイジメが解決するわけじゃない。
どうにもならないことだって分かってる。
でもその気持ちが嬉しかったんだ。
私もほんの少しだけ心が救われた気がした。
私はクツを両手で持ちながらお礼を告げた。
「ありがとう、千葉くん」
笑顔を見せると、千葉くんは浮かない表情をした。
「……お前さ、イジメられてんの?」
「えっ」
知ってて協力してくれたわけじゃなかったんだ。
「知らなかったの?同じクラスなのに……」
「人の悪いウワサ話とかさ、そういうの嫌いでそんな流れになりそうだったらいっつもどっかでサボってたから、よく知らね」
そうか、そうだったんだ。
じゃあこの人は単純に私が困ってるのを見て助けようとしてくれたんだ。
そういえば席も前の方にあるし、昼休みになると教室を出てしまうことが多いから気づかなかったのもうなずける。
この人はシンプルに優しいんだ。
だからモテるんだろうな……。
漠然とそんなことを考えていると、千葉くんは言った。
「くだらねぇよな、イジメって……人のこと悪く言う必要なんかねぇのにな。なんでこんな悪口ばっかり広まるんだろうな」
「……私もそう思う。人なんて関係ないじゃない、しょせん他人なんだし」
「ふははは!なんだ、お前……けっこう冷めてんな」
「えっ、そう?」
「おお……もっと悲しんでるのかと思ってた」
「辛いけど、でもいいの。どうせ時が過ぎれば忘れると思う。これから人生って長いでしょ?振り返ってみてみた時にあんなのなんでもなかったって思えると思うから」
「……こんな達観してるやつ初めてみた」
千葉くんは不思議そうにつぶやく。
「でもさぁ……苦しいには変わりねぇだろ?だからその時は助けてって言えよ?たまには他人に頼るのも悪くないぜ?」
二っと歯を見せる千葉くん。
他人なんて……好きじゃない。
だからずっと期待しないで来たのに。
「気が向いたらね」
少し手を伸ばしてみたくなった。
私たちはその日、そんな会話をして別れた。
人は嫌いだ。
別に他人に期待しなくたって生きていける。
頼らなくても生きていけるから、このままでいい。
でも千葉くんがクツを探してくれた時、私の心が少し救われたのは事実だ。
それから次の日──。
私が学校に向かうと、また絶望の日々が待っていた。
ほんの少し救われたから世界が変わってくれるかもしれないなんて、淡い期待は簡単に打ち砕かれる。
机には【ビッチ】とマジックで落書きされていたり、美香が私のカバンを奪い取るとそのまま窓の外からカバンを投げ出した。
「キャハハハハ~~お前、このクラスにいらないからこのまま家戻ったら?」
「ウケる~!ままー!パパ―!助けて~って泣きわめいたらいいんじゃない?」
「てか、コイツん家パパいねぇじゃん?父親の浮気だっけ?そんなんだからお前も人の男取ろうとするんだよ」
甲高い笑い声。
それももう慣れた。
別にいい。
私はただそれに慣れるだけ。
慣れればそれで……。
しかし、苦しくてしかたなかった。
「家族の……ことは、言わないで……」
はじめて美香と香織に反抗した。
信頼できる友達だと思ったから、離婚した理由を話したのに。
こんなことみんなに言ってほしくなかった。
「お願いだから!家族のことは言わないでよ……っ」
私が父親に似てるから人の男をとるって……?
そんなの、言わないで……っ。
苦しい。
本当に未来の私が過去を振り返って、あんなのなんでもなかったと思えるんだろうか。
私のこれからの人生に“未来”が存在するんだろうか。
暗い人生がこの先ずーっと待っているんじゃないだろうか。
「……っ、ぅ……もう、やめてよぅ……」
ずっと泣かないようにしてた。
泣いたら面白がられてもっとやられると思って、反応を出来るだけ薄くして、なにも感じてみたいにすれば収まるって。
でもいつまでこれを耐えたらいいの?
早くイジメが終わりますようにって頼みながら学校に行かないと行けないのはもう嫌だよ。
「たす、けて……」
私は小さくその言葉をつぶやいた。
もう誰でもいいから、私を助けて……。
するとその時。
「おい、お前なにやってるわけ?」
後ろから低い声が聞こえてきた。
「……っ!」
見なくても誰だかわかった。
千葉くんだった。
一番助けて欲しかった人。
本当に“助けて”と言葉にしたら、来てくれた。
「そんなことして恥ずかしくねぇの?ダセーことしてんじゃねぇよ」
「ダセーって。千葉くん聞いてよ。この女私の彼氏とったんだよ?私に秘密で会ったり連絡とったりしてたの!そんなの、イジメられて当然じゃん!」
──ダンッ。
「イジメられて当然なやつなんかいるわけねぇだろ?」
千葉くんの声は聞いたことないくらい低い声だった。
どうして守ってくれるんだろう。
話したこともなかったのに。
こんな底辺まで落ちた私に気に入られる必要なんてないのに。
誰も私に手を伸ばさなかったのに、どうしてこの人だけは助けてくれるんだろう。
その時、千葉くんがキラキラして見えたんだ。
「佐知、行くぞ」
そう言って千葉くんは私の手をとると、そのまま階段を下りて投げられたカバンを拾いに行った。
「あり、がと……」
千葉くんは落ちたカバンをパンパン叩いて、泥を落としてくれた。
「さっき、佐知って……」
「ヤベ、また勢いで呼んじまった……つーか、いいだろう。お前もさ、俺のこと透也って呼べよ?」
「……気が向いたら」
「おい」
そんな話をしていると、少しだけ笑えた。
でもこのままクラスに戻るのか……。
千葉くんが言ってくれたとはいえ、またあの空間に戻るのは嫌だな。
そんな風に思っていた時、千葉くんは、にっと笑いながら手を差し出した。
「今から学校サボろうぜ」
「え……?」
予想もしなかった言葉に、驚きが顔に出た。
だけど千葉くんはそんな私を見て、穏やかに笑う。
「な~んか今日、遊びたい気分なんだよな~な?いいだろう?」
「でも先生に……」
「決まり!行こうぜ」
そういうと、千葉くんは強引に私の手を引っ張った。
そして、私はそのまま千葉くんと一緒に校舎を出ることになった。
「……本当に、サボるの?」
「当たり前だろ」
歩くペースを緩めることなく、私を先導するように歩いていく。
「でも、どこに行くの?」
「ゲーセン行こうぜ」
いいのかな……。
私、今まで学校をさぼったことはなかった。
ゲーセンだって美香と香織たちとは一緒に行ったことはあるけれど、プリクラを取るだけでそんなに楽しいと思ったことはなかったたし……。
校門を抜けて、人目の少ない道を歩く。
駅前のゲームセンターは、昼間のせいか閑散としていて、空調の音だけが機械の合間をすり抜けていた。
透也は私の手を引いて、クレーンゲームの前で立ち止まった。
「ほら、これ……お前好きそうじゃん」
ガラスケースの中には、私の好きなキャラクターのぬいぐるみが並んでいた。
「あっ、これ好きなやつ」
思わずそんな風に言葉をこぼしてしまう。
「だと思った」
透也はなんのためらいもなく千円札を崩して、硬貨を入れた。
無駄に強気な操作とは裏腹に、1回目、2回目とぬいぐるみは掴めずに落ちる。
透也は「くそ、アーム弱すぎ」なんて悪態をつきながら、諦める様子もなく再挑戦する。
「本当にとれるかな?お金かかっちゃうからいいよ?」
「い~や、取ってやらないと男としてカッコ付かないだろ?」
かっこつかないって……。
そして三度目、アームはふわりとぬいぐるみの頭を掴み……まるで魔法みたいに、取り出し口へと落ちた。
「す、すごい……とれた!」
「ほらな」
手渡されたぬいぐるみを私は抱きしめた。
こんな景品とってもらったのははじめてだ。
お父さんもいなかったし、こういうことしてくれる人がいなかったから。
「ありがとう」
それから透也とは色んなことをした。
ゲーセンでひととおり遊んだら、その後はファミレスに行ってお昼ご飯を食べて、それから食べたりないってなって駅前のワゴンが販売しているクレープを食べたりもした。
すごく楽しい一日だった。
久しぶりだなぁ……こんなに笑うことが出来たのは。
「たまには、こういう日もいいだろ」
「うん……」
嬉しくて、でもうつむく私。
「透也は……どう思ってるの?美香たちが言ってたウワサ……」
私はウワサをみんなの前では否定していない。
それはもう無駄だと分かっていたから。
でもこの人には勘違いして欲しくなかった。
「……別に、どーでもいいな。俺は信じてないから」
「そ、なの……?」
「ウワサなんてくだらねーじゃん。嫌なものばっかだしな。俺は大事なことは本人に直接聞く。本人から聞いた話しか信じねぇよ」
軽い口調だった。だけど、その軽さが、今の私には息ができるほど優しかった。
誰も近づいてこない場所に、あっさり踏み込んでくる彼は、きっと無神経なんかじゃない。
分かっていて、あえてそうしてくれているんだ。
本人の話ししか信じないというのなら、私は自分の口でしっかりと言いたい。
「あのね、私ね……美香の彼氏と浮気なんて……」
そこまで言うと、透也が自分の手の平で私の口元を覆った。
「ん……」
「言わなくていいよ。佐知はそんなことするやつじゃないって知ってる」
──ドキン。
小さくつぶやくと、透也は照れたように頭をかきながら笑った。
「ありがと……」
そうだよね、きっとそうだ。
透也は優しい人だから。
あの瞬間から私は、透也のことが気になりはじめたのかもしれない。
「……じゃあ。またサボろうな」
帰り際、透也がそう言った時、私は小さく笑った。
「うん」
たったそれだけのやりとりが、あの頃の私には十分すぎるくらい救いだった。
好き、という言葉にはまだ届かなかったけれど。
孤独の中に差し込んだ、ただひとつの温かい光。
きっと、それが彼だったんだ。
それからというもの、遠也と過ごす時間は日に日に増えていった。
彼はいつも一緒にいるグループを外れて、気づけば自然と毎回私の元に来てくれた。
休み時間になるたびに、私の机にやってきてはどうでもいい話をしてきて、
お昼の時間も「一緒に弁当食べようぜ」って誘ってくれた。
教室のざわめきの中で、ぽつんと孤立していた私は、彼の声にどれだけ救われたんだろう。
話題はくだらないものばかりなのに、笑うだけでこんなに心があたたかくなるなんて。
遠也と一緒にいるうちに、次第にイジメはやんでいった。
きっと人気者の遠也になにか言われるのが怖いんだろう。
コソコソ悪口を言われることはあるものの、嫌がらせをされることがなくなって私はほっとしていた。
放課後の時間、私たちは屋上に行って話をする。
屋上はひんやりと風が通って気持ちよかった。
西日が体育館の屋根をオレンジ色に染めていて、金網の向こうではカラスが鳴いていた。
グラウンドの片隅に落ちたボールが、風に転がる音が微かに聞こえる。
夕方の静けさの中で、世界がゆっくりと色を変えていくのを、私たちは並んで眺めていた。
「ここ、いい場所だな」
「そうでしょ」
透也が柵のそばに腰かけて、ペットボトルのジュースを一口飲む。
私はその隣に立って、遠くに見える住宅街をぼんやりと眺めていた。
「サボってゲーセン行ったかと思えば、今度は秘密基地みたいなところを探しに行こうなんて……落ち着きないね、遠也」
「とかいいつつこんないいところ知ってんじゃん」
「まぁ……」
この屋上の場所はイジメにあうようになってから知った。
それまでは屋上なんて行ったことなかったのに、教室での居場所がなくなった時人はなんとしてでも行き場を探すんだなぁと思う。
この空の下なら誰の視線も気にせずにいられて、ほんの少しだけ、自分を取り戻せた気がした。
「今は大丈夫なのか?」
「うん……最近は落ち着いてるから大丈夫。遠也のおかげ」
「そんなことねぇよ。でも佐知が元気になってよかった……」
透也はそう言って笑う。
その顔がなんとなく子どもみたいで、こっちまでつられて笑ってしまった。
「そんなことより、私に構っていていいの?人気者の千葉くんなら放課後も色んな人から誘われてるんじゃないの?」
私がたずねると、透也は言う。
「俺はいたい人と一緒にいるから」
──ドキン。
心臓の音が、一拍置いて跳ねる。
なによ、それ……。
そんなこと言うなんてズルい……。
その時、風が吹いて、私の髪をふわりと揺らした。
隣で透也がなに気なく、その髪を指先でつまんで直してくれる。
「おまえ、髪さらさらだな」
「なに、急に」
「いや、思っただけ」
私は慌てて横を向いた。
頬が熱くなる。
チャラチャラしてて、誰にでも軽口叩いて、ふざけてばっかりのくせに。
ふたりきりになるとなんだか静かで、そのギャップに戸惑ってしまう。
「……ねえ、透也は、好きな人とかいないの?」
だから知りたくなってしまった。
彼のことをもっと知りたい。
もっと彼の近い存在になりたい。
はじめて私はそれが恋というのだと気がついた。
すると透也はペットボトルを傾けながらちょっとだけ笑った。
「いないよ」
「ふーん。そうなんだ」
うつむきがちに答えるとさらに透也は言った。
「でもまぁ……気になる子ならいるかも」
「気になる子……?」
教室でいつも一緒にいる子?
それとも他校の子とか……?
色々考えていると、透也は言う。
「佐知」
「えっ」
「佐知のこと気になってる」
──ドキン。
その言葉を聞いて、どこか自分でも気づかないようにしてた気持ちに触れてしまったみたいだった。
……私、たぶん──
遠矢のこと、好きだ。
頬が熱をもって、胸がきゅっと締めつけられる。
ドキドキする心臓の音が、夕暮れの静けさの中でやけに大きく聞こえる。
「じゃあ付き合う?」
私がなにげなくたずねると、透也は言った。
「いや、そういうの適当にしたくねぇし……ちゃんと伝えて、自分の気持ちも整理してからだな」
そんなことを言う。
本気だからこそ、軽く踏み出せないってことなのかな。
いつその日がやってくるだろうか。
期待して待っていて、やってくるんだろうか。
今、私は誰かに嫌がらせされることはなくなった。
教室ではもう、物がなくなったり机に変な落書きをされたりすることもない。
けれどそれがきっかけで、「もう大丈夫だな」って透也が、またみんなの元に戻ってしまったら……。
それだけは、絶対に嫌だと思った。
日が傾いて、屋上は一面オレンジ色に包まれていた。
金網の向こうには、放課後の空にゆっくりとカラスが旋回していて、どこか寂しげな鳴き声が耳に残る。
夕焼けの光がまぶしくて、けれど目をそらしたくなくて――私は視線を落とすようにして、ぽつりと、思っていることをそのまま口に出した。
「透也のことが好き……付き合いたい」
自分の声が、風に乗ってどこまでも響いてしまうような気がした。
どうしよう。言っちゃった。
彼は「整理する」って言ってたのに。
私は、それを待てるほど余裕なんか持てなかったんだ。
もうこれ以上、彼に遠くへ行ってほしくなかった。
心臓がバクバクとうるさくて、顔が火照っているのが自分でもわかる。
そんな私を見て、透也は一瞬だけ驚いた顔をした。
でもすぐに、どこか決意を固めたような、まっすぐなまなざしで私を見て言った。
「おいおい、保険かけたのにそんなこと言ってくれんの?」
「だって……っ」
胸の奥がぎゅっと痛くなるような、そんな気持ちを抱えながら答えると、透也はほんの少しだけ笑った。
でもその笑顔はからかいでも冗談でもなくて、ちゃんと私の言葉を受け止めてくれた証みたいだった。
「じゃあ俺も腹くくるわ……佐知のことが好きだ」
──ドクン。
胸の真ん中に、深く、真っ直ぐな音が響く。
初めてドキドキした人だった。
初めて、本当に手に入れたいと思った。
誰かの言葉や目線で、こんなにも心が揺れることがあるんだと初めて知った。
でも、それが苦しいだけじゃなくて、うれしくて、胸がいっぱいになって――これが恋なんだって、はっきりわかった。
「なんか照れるな、これからよろしくな」
「……うん」
赤く染まる空の下で、透也が伸ばした手に、私はそっと手を添えた。
夕日のあたる彼の横顔は、あの時私を絶望から救ってくれた時と同じ、やさしい顔をしていた。
絶望から救い出してくれたヒーローを、私は好きになった。
そしてこの恋が、こんなにも苦しく、切ない展開を迎えてしまうなんて……この時は、まだ想像すらしていなかった──。