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第34話:子どもと大人の緊張感


次の日の土曜日。

あたしたちはふたり、電車に乗っていた。


恭ちゃんはこの間、あたしに相談をした時に両親に会う決意が出来たらしい。

そこですぐに連絡を入れてくれた。


がたん、ごとん、と小さく揺れる車内。

朝の陽射しが斜めから差し込んで、窓ガラスにうっすらと影を映している。


車窓の外は、少しずつビルが減って、住宅街が広がり、やがて畑や林がまばらに見えてきた。


「すご~い、恭ちゃん見て!景色めっちゃキレイだよ」

「ああ」


なんて、恭平ちゃんは興味なさげにつぶやいた。


そっか、恭ちゃんには見慣れた景色だもんね。


膝の上に置いた紙袋の中には、母親に持たされたお茶菓子が入っている。


「ご挨拶に行くなら手ぶらはだめよ」と言われて、慌てて選んだ小豆のようかんと、季節の干菓子。


お父さんお母さんに渡すならこういう方がいいのかな、と思って選んだんだけど、ほんの少し和風すぎたかも。


そんな不安を抱えながらも、それをにぎる手に自然と力が入っていた。


服も、いつものふわっとしたブラウスじゃなくて、落ち着いたベージュのワンピースにした。


メイクも気持ちひかえめで、髪はいつもよりしっかりまとめた。


高校生って思われるのが一番よくないから気合いを入れて大人っぽくしたつもりだけど、正直、今は緊張で胃がちょっとだけ重い。


「ローカル線だからな、人がいなくていいな」


恭ちゃんがそう言って窓の外を見ながら、少しだけ口元をゆるめる。


「……初めて乗ったよ~、こういう雰囲気の電車」


天井の低さとか、少し硬い座席とか、外の景色がすぐそこに見える感じとか……都内の電車と全然違って、まるで遠足みたい。


思えば恭ちゃんと旅行に行くことも今までなかったから、ちょっとしたプチ旅行って感じで楽しいかも!


「あと2時間くらいかかるからな」

「えっ……そんなに?」


思わず声が大きくなった。


「まあ、俺のとこ田舎だからな。のんびり時間をかけて行こうぜ」


そんなふうに言われて、肩の力が少し抜けた。


「うん、いいね。それ」


恭ちゃんもいつもいそがしく仕事をしているから、こういうゆっくりと流れる時間にリラックスしているみたいだった。


にしても、恭ちゃんがこんな田舎から出てきてたなんて知らなかったな。


付き合ってても、知らないことっていっぱいある。


恭ちゃんの実家の場所だって、こうやって初めて知ったし、どんな家で育ったのかとか、どんな家族がいるのかとか……これから知っていくんだなって思うと、楽しみでもあるし、ちょっとだけ不安もある。


でも、きっと挨拶が終わった頃には、来て良かったって思えるようになっているよね?


人もあまりいない電車の中、あたしはそっと体を彼に寄せた。


「……ん」


恭ちゃんが驚いたようにこちらを見る気配がして、でもなにも言わずに肩を受け止めてくれる。


電車のリズムに合わせて揺れながら、ふたりの体温がほんの少し重なっていく。

なんだかこの時間が心地いい。


窓の外、春の光を浴びた田園風景がゆっくりと流れていった。


「恭ちゃん、緊張してる?」


電車の揺れに合わせてぽつりとたずねると、彼は少し肩をすくめて笑った。


「ああ、わりとしてる。電話でさ、母親には伝えたんだ。彼女を連れて行くことと話したいことがあるって。母さんは楽しみにしてるって言ってたんだけど……親父とは全然話してねぇし、家の前まで来て帰れって追い返される可能性もある」


恭ちゃんは苦笑いしながら、窓の外を見つめた。


「そっか……」


恭ちゃんのお父さんって、どんな人なんだろう。


話を聞く限りじゃ、たぶん無口で、濃いヒゲが生えてて、漫画に出てくるような、昔ながらの頑固親父って感じしか想像できなかった。


って、失礼か……。


でも、そんなお父さんの元で育った恭ちゃんが、今こうして隣にいて、あたしに会わせてくれるって言ってくれたことがただ、嬉しかったんだ。


電車に揺られること約2時間。

ガタン、ゴトンという音に混じって、窓の外の景色がゆっくりと変わっていく。


気づけば、車窓にはもうビルの影はなくて、代わりに、背の高い木々が左右に並びはじめていた。


風に揺れる緑の葉。土の匂いがどこからか届きそうなのどかな空気。

駅に近づくアナウンスが流れて、電車が速度を落としはじめる。


「あっ……」


わたしは思わず、窓の外を指差した。

線路の向こうには、広がる田園風景。見渡す限りの緑。


背の高い杉の木、遠くに連なる山の稜線。

白い雲がぽっかりと空に浮かんでいて、それすらも絵に描いたようだった。


「降りるぞ」


電車がホームにすべり込むと、車内にアナウンスが流れた。


がたん、と軽い揺れと共に停車する。


あたしは紙袋を抱え直しながら、恭ちゃんと一緒にゆっくりと立ち上がる。


扉が開くと、ふわっと土と緑の混ざった匂いが鼻をくすぐった。


そして改札を抜けた瞬間、ほんの少しだけ息を吸い込んだ。


「すごい、大自然だ~!」


ホームの向こうには、田んぼと森と、小さな駅舎がぽつんとあるだけ。


どこか、映画の中に入り込んだみたいな風景だった。


「ここで、恭ちゃんは育ったんだね……」


う、うと涙をハンカチで拭くあたし。


「変なことしてないで行くぞ」


恭ちゃんはあたしの演技は無視して手をとった。


駅を出ると、空気がふわっと冷たくて、胸いっぱいに吸い込んだ空気は、透き通っていた。


「ここからまたバスだから」

「そうなの!?」


東京じゃ、駅まで行ったらほとんど歩けるんだけど……。


そして、そのままバスに乗り込む。


窓際の席に座って、風景をぼんやり眺めていたら、気づけばあっという間に30分が過ぎていた。


「……ついたぞ」


恭ちゃんの声に顔を上げると、バスがゆっくりと停まった。


揺れる車体から降り立つと、視界いっぱいに広がる山の輪郭と、瓦屋根の並ぶ家々。


澄んだ空気が、肌にそっと触れた。


「あれが家だから」


恭ちゃんが指さす方には大きな家が建っていた。


「……ほんとに、来たんだね」


自然と出たその言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。


緊張が高まっていく。


ここが恭ちゃんの家……。

すると恭ちゃんは家の前のインターフォンを鳴らすことなくドアを開けた。

玄関の引き戸がカラリと開く。


「ただいま」


あたしものぞき込むように恭ちゃんの後ろから顔を出すと、中から優しげな顔をしたお母さんが出迎えてくれた。


「恭平おかえり。それからいらっしゃい、話には聞いていたわ。そちらが彩乃さんね」


出迎えてくれた女性の声は、どこか弾むように柔らかくて、最初に思っていた緊張が少しほぐれる。


目元にしわを浮かべてにこやかに微笑むその人は、恭ちゃんのお母さんだった。


髪をきれいにまとめていて、品のある落ち着いた雰囲気。

でもその中に、どこか親しみのあるやわらかさがにじんでいて……その微笑みが、恭ちゃんとそっくりだった。


優しそうな人……。


「はい。宮原彩と言います。あの、これ……良かったら食べてください」


そう言って、ぎゅっとにぎっていた紙袋からお菓子の入ったお品を取り出す。

お母さんが失礼のないように、と紙袋から出して差し出すように教えてもらった。


「あらまぁ、もうそんなの気を遣わなくていいのに~!」


受け取った恭ちゃんのお母さんは、手をひらひらさせながら、明るく笑った。


「じゃあ、お茶でも淹れるから、リビングにどうぞ。お客さんなんて久しぶりだから、嬉しいわ~」


軽快な口調でそう言いながら、あたしたちを家の中へ案内してくれる。


恭ちゃんのお母さん、すごい優しいじゃん……!


ぐっと構えていたあたし。

お母さんの雰囲気を見てほっとした。


玄関を抜けると、廊下には季節の花が活けられた小さな壺や、昔ながらの木の家具。

優しい香りのお香のにおいがふんわりとただよっていた。


……なんだか、明日香さんにも似てるかも!


ってまぁ兄妹だから当然なんだけど……!


もっと緊張するかもって思ったけど、大丈夫だった!


あたしはほっと小さく息を吐い時、その空気がガラリと変わった。


リビングの中心、テーブルの向こう側。

男性が、深く腰を下ろしていた。


背筋がまっすぐで、広い肩幅に渋いグレーのセーター。

眉が濃くて、口は一文字。


そして、あごにはきれいに整えられた濃いヒゲ。


「親父……」


恭ちゃんが小さくつぶやく。


あの人が、恭ちゃんのお父さん……。


お父さんの顔立ちは、どこか恭ちゃんに似ていた。


輪郭も、鼻筋も、目元の形も。


その声に応えるように、恭ちゃんのお父さんが、ゆっくりと顔をこちらに向けた。


じろりと、こちらを見据えたその目つきに、急に緊張感が高まり、思わず背筋がぴんと伸びた。


和やかだった空気が、一瞬で張り詰める。


目が合っただけなのに、心臓の音がどくん、と大きく響いた。


でも、ここで気後れしちゃだめだ。


あたしは恭ちゃんの隣にいることを選んだ。


なら、きちんと目を見て、挨拶をしなきゃ。


そう思って口を開こうとした時、お父さんが先に言葉をこぼした。


「ふん。やっと顔を見せたと思ったら、彼女なんて連れて来て……帰ってくる前に言うことがあるんじゃないのか」


低くて、重たい声だった。

言葉そのものに重さがあって、ずしりと響いてくる。


恭ちゃんは口を固く結んだまま、なにも言わなかった。

その横顔が少し強ばっているのがわかる。


ど、どうしよう……。

なにか言わないと……。


そう思っていた時、恭ちゃんは言い放った。


「せっかく帰って来たのにグダグダ文句言うなよ」

「なんだと!」


お父さんの声が一段大きくなった瞬間、空気がぴんと張りつめる。


ちょっ、最初からケンカごしはないでしょ恭ちゃん……!


これからあたしを紹介してくれるんだよね!?


ヒヤヒヤしていた時、お母さん声が奥から響いた。


「もう、やめなさい!彩乃さんが来てくれているのにみっともない!」


恭ちゃんのお母さんの声が飛んできた瞬間、ふたりはびくっとして、まったく同じタイミングで顔をぷいっと逸らした。


……え?

今の……まるで鏡合わせみたいなのは一体……?


こらえきれずに、あたしは口元を手で隠して小さく笑ってしまった。


もしかして……恭ちゃんのお父さん、恭ちゃんにそっくり?


無口で不器用。あんまり口数は多くなくて、照れ隠しの顔の逸らし方まで同じ。


そりゃ家族だから少し似てるのは当然なんだけど、思った以上に性格が似てるのかもしれない。


だからぶつかり合ってるのかな?


なんだかさっきまでの緊張が少し和らいで、あたしはそっと息をついた。


「教師の道を断って俺から逃げるように行った東京はどうなんだ?どうせお前のことだ。根を上げてなんとなく生きているんだろう」


「残念。新卒で入った会社、超楽しく働かせてもらってますけど」


その言い方が、いつもの恭ちゃんらしくて、可愛く見えた。


お父さんの前だとちょっとだけ子どもっぽく見える……。


どこか完璧で、大人っぽくて、落ち着いた彼も……親の前ではこうして、素直に反抗もするんだと思ったら、ふと、頬がゆるんでしまった。


「ふふっ」

「なに笑ってるんだよ、彩乃」


「ううん」


あたしは慌てて首を振ったけど、たぶん顔がにやけていたんだろう。


ちょうどそのタイミングで、お母さんが湯気の立つ湯呑みをトレイに乗せてやってきて、ちゃぶ台にそっと置いてくれる。


「さあ、座りましょう。お客様に立ち話なんてさせるものじゃないわ。ねっ、彩乃ちゃん、疲れたでしょう?座ってゆっくりしていってね」


うながされて正座で腰を下ろすと、やっと少しだけ緊張がほぐれた。


お父さんもリビングのイスに腰を下ろす。


こうして向かい合うタイミングが来て、今だ……!


あたしはふかく息を吸い込んだ。


「改めまして、宮原彩乃といいます。恭平さんと……お付き合いさせていただいてます。今日はご挨拶に行けたらと思いおうかがいしました」


ペコっと頭を下げる。


まさか高校生のうちに、こんな風にご両親にきちんと挨拶をする日が来るなんて思ってなかった。


緊張しないはずがないけど、言葉にできてほっとしてる。


しばらく沈黙があって、お父さんがふっと表情をゆるめた。


「遠いところからありがとうございます。大したお構いできませんがゆっくりしていってください」


お父さんの優しい言葉を聞いてあたしはほっと胸をなでおろした。


恭ちゃんのお父さん、話してくれそうだ……。


「それで宮原さんは、今おいくつで?どこの会社に勤めてるんですか?恭平と会社が同じで交際がはじまったんですか?」


え……?と一瞬思った次の瞬間、恭ちゃんが食い気味に言い放った。


「勤めてねぇよ、コイツまだ高校生だから」

「な……っ」


恭ちゃん……。


恭ちゃん!!


あなたったらなんてことをしてくれているの!?


せっかくゆっくりと説明をしようと思っていたのに……。


一気に一番気にしていた爆弾を簡単に投下しないでよ。

恐る恐るお父さんの反応を見てみれば、案の定わなわなと震えている。


「高校生?お前はなにをしてるんだ!」


ああ、もう……だから言わんこっちゃない。


恭ちゃん、あたしの両親に言う時の慎重さはどうしちゃったの?


「よく平気な顔して戻って来れたな。社会人としてしっかりやっているなら家に入れてやってもいいと思ったが……まさか高校生の彼女を連れてくるなんて!分かってもらえると思ってるのか!甘いヤツめ」


「親父には理解してもらおうなんて思ってねぇよ」


「なんだと……!」


ああ、もう……ほら。

そうなるに決まってるよ。


これはどう考えても恭ちゃんが悪い。


もっと他に言い方があったはずだ。


一番慎重に言わないといけないことだったのに、恭ちゃん……なんでお父さんの前だとそうなっちゃうのかな。


「俺は許さん!誰がなんと言おうと絶対に許さんからな!」


お父さんの怒号がリビングに響く。


「ふんっ」


そしてお父さんは鼻を鳴らしそっぽを向いてしまった。


うう、どうしよう……。


この地獄の空気。

しかし、恭ちゃんも負けず嫌いなようでふんと顔をそむけたまま話すことはない。


これじゃああたし……受け入れてもらえずに終わっちゃうよ……っ。


あたしは、恭ちゃんとお父さんの間でピリついた空気に、ただただおろおろと視線を泳がせていた。


受け入れてもらえるように、ここに来たんじゃないの?


そう思った時、玄関からガチャ、という音が響いた。


明るい声と一緒に、バサバサとなにかを抱える気配がする。


次の瞬間、荷物で両腕をいっぱいにしながら、ひょこっと顔をのぞかせたのは……。


「明日香さん!」


恭ちゃんのお姉さんの、明日香さんだった。


思わず、あたしは声を上げて立ち上がりそうになる。


明日香さんは姉御肌で、結婚して旦那さんとアメリカで暮らしているしっかりとした女性だ。


芯があって強くてカッコよくて、あたしも頼れる女性なんだ。


「彩乃ちゃん、いらっしゃい。うん、彩乃ちゃんも恭平もいるなんていい時に帰ってきたわ」


軽やかにクツを脱いで、荷物をポンと玄関に置くと、そのままリビングに入ってくる。


その動きがあまりにも自然で、さっきまでの空気がウソみたいに見える。


「ねぇ、お父さん。気に入ったでしょ?彩乃ちゃん。可愛くていい子なのよ~」


明日香さんの言葉にお父さんはふんっと鼻を鳴らして答えた。


「気に入ったもなにもない!俺は高校生なんて反対だ」


再びピシャリと声を張る。

けれど、その空気すらも、明日香さんは動じない。


「そっか、明日香は彩乃さんに会ったことがあったのね」


「そうだよ~恭平の家に行った時にね!あたし彩乃ちゃんのこと気に行っちゃったのよ」


「バカバカしい。高校生だぞ?話にならない」


そして、彼女がなにかを思い出したように少し口元を引き締めて、ゆっくりと口を開いた。


「なに言ってるのよ……自分だってそうだったくせに」


え……?

恭ちゃんとあたしがお父さんを見ると、明日香さんが代わりに話をしてくれた。


「うちのお父さんとお母さんね、元々先生と生徒だったのよ。ね? お母さん」


明日香さんの明るい声が、あの張り詰めていた空気を一気に和らげた。


「うん」


恭ちゃんのお母さんが静かに、でもどこか嬉しそうに笑ってうなずく。


「年の差婚だとは思ってたけど教師と生徒!?なんだよ、自分のこと棚に置いて文句いいやがって」


「い、言うなと散々言っただろう」


あせったように反論するお父さんの顔が、さっきまでの厳格さから一瞬だけ崩れる。


その様子に、あたしくすりと笑った。


明日香さんが帰って来てくれて良かった……。


少しこの場が和んだ気がする。


そしてお父さんの視線が、まっすぐにこちらを向いた。


「父さんは恭平の心配をしているんじゃないんだ」


ぴしゃりと言い放つと、お父さんは静かな声で言った。


「キミは恭平と付き合っていることで、悩むことが多くあるかもしれない。同級生だったら同じような時間を送っていて、会いたい時に会うことができる。でも大人となるとそれは違う。仕事の付き合いで行かなくてはいけない場所。大切な日よりも優先してやらなきゃいけないこともこれから出てくるだろう」


あたしはお父さんの言葉をうなずきながら聞いていた。


言葉のひとつひとつが、心に深く落ちてくる。


優しいわけでもなく、厳しいわけでもなく、ただ静かに、真っすぐに伝わってくる。


きっとそれは恭ちゃんのお父さんが経験してきたことだから言えるんだよね。


「それが原因で傷つくことだってこの先必ずあるだろう。傷つくと分かっていても、それでも恭平がいいと思うのか?」


あたしはその問いに、迷わず、真正面から向き合いたいと思った。


恭ちゃんのお父さんは、ただ反対しているんじゃない。

教師という立場で歳の差恋愛をしてきた先輩として、そしてひとりの父親として、誰よりも現実を見ている。


年の差や立場の違いが、どれだけ大変か。

その中で、お互いをどう支えるか。


そういうことを、誰よりも早く、深く考えている人なんだ。


やっぱり、恭ちゃんと似てるね……。


そうやって相手のことを考えてくれているんだよね。


だから、あたしはしっかりお父さんの目を見てはっきりと声に出した。


「はい」


迷いはない。

それは何度も考えたことだから。


「上手く行かないこと、すれ違ったりもすること。今でも少し感じています。それはこれからも起きることもしっかりと頭に入れています。でも……どれだけ傷ついても、恭平さんの側にいたいです。支える、なんてまだ偉そうなことは言えないですが、将来は恭平さんを支えていけるようなパートナーになります」


自分で言って、胸の奥が熱くなった。


まだまだ分かってもらえないかもしれない。


子どもの言っていることなんて、とか。思われたりするかもしれない。


それでもあたしが恭ちゃんを好きな気持ちは初めからずっと変わってない。


真剣な眼差しで、お父さんを見つめた。


言葉はもう出し切った。あとは、届くのを待つだけ。

そのときだった。


恭ちゃんのお父さんの口元が、ふっとゆるんだ。


「……誰かさんと同じことを言うんだな」


誰かさん……?


小さく笑ったその声は、さっきまでの厳しさとは違っていて。どこかあたたかかった。


「お母さんね」


その言葉に、先に反応したのは明日香さんだった。


「母さんもなにか言ったのか?」


すると恭ちゃんのお母さんは言う。


「そうね……歳の差でからかわれたり、両親に反対されたりしたの。その時にお父さんに別れようって切り出されてね。私はその言葉に別れません!ってはっきり告げたのよ。あなたを支える覚悟は出来ています。覚悟出来ていないのはあなたの方じゃないですかってね……」


す、すごい……。

明日香さんの男らしさはお父さんに似たのかなと思ったけれど、案外お母さんだったり……?


そして恭ちゃんのお母さんは笑う。


「ふふっ、あなたが思っているより、彩乃さんも過去の私もしっかり覚悟があるのよ。子どもだからって、なににも考えてないわけじゃないし、支えられるばっかりじゃなんだから」


お母さん……っ。

にこやかに笑うお母さんの横顔が、なんだかすごくキレイに見えた。


それは、たぶん信じて見守っている人の顔だった。


「そうだな」


恭ちゃんのお父さんは、照れくさそうに視線をテーブルに落としながらも、小さくうなずいた。


その背中が、どこか柔らかくなったように感じる。


そして、再び顔を上げると、恭ちゃんの方をまっすぐ見据えて言った。


「恭平。大切な彼女をしっかりと守ってあげなさい。俺が色々言ってもどうせ言うことなんて聞かないんだ。今の会社がどうとかは知らないが自分で責任を……」


すると、話の途中で明日香さんが言う。


「え~お父さん、恭平の会社の新聞の切り抜きとか集めてるじゃん?」


えっ!


「ち、違うぞ!どうせブラックな会社に勤めてるんだろうと思って調べあげてやったんだ。まぁ、お前のところの社長の考え方は嫌いじゃないが……」


あたふたと手を振るお父さん。耳までほんのり赤くなってる。


なんか、こんなこと言ったら失礼かもしれないけど、恭ちゃんのお父さんってかわいい人……かも。


そりゃそうだよね。

あたしのお母さんも言ってた。


自分の子どもを心配しない親なんていないって。


お互いに素直になれず出ていってしまったけれど、恭ちゃんのお父さんはずっと彼を心配していたんだ。


そんなお父さんを、黙って見ていた恭ちゃんは、静かに口を開いた。


「……ケンカして逃げるように出て行ってごめん」


ぽつりと、ほんの一言。

それでも、その声には何年分もの想いが詰まっていた気がした。


「離れてみて、親父の言ってることがよく分かったよ。自分が甘えていたことにも気づけたし、言葉ばっかりだったことにも気がついた。だからさ、次顔見せる時は誇れる会社でしっかり胸張って働いてますってことを言いたかったんだ」


恭ちゃんの声は、はっきりしていて、まっすぐで。


どこか、今まで聞いたことのないくらい、静かな決意がこもっていた。


「…………」

「ありがとう、親父」


まっすぐに見つめる恭ちゃんの目は少しばかり潤んでいた。


自分を育ててくれた両親は、いつだって、どんな時でも見ていてくれる。


たとえ離れていても、言い合いをしても、心の奥では絶対に見捨てないって……今回のことで分かった。


恭ちゃんのお父さんはふんっと鼻を鳴らすと、照れた顔を隠すようにそっぽを向いた。


そして、恭ちゃんも少し照れたように顔をそっぽに向けたその姿に、思わずあたしは微笑んでしまう。


やっぱり、恭ちゃんはお父さんにそっくりだね。


「良かった。恭平もお父さんも素直じゃないからいつ仲直りするのかと思ったよ」


明日香さんが両手を腰に当てて、ちょっと呆れたように笑った。


「さ、解決したところだしご飯でも食べよう。あたし色々アメリカで買って来たから」


そう言って、リビングの片隅に置いてあったキャリーバッグのチャックを開ける。


中からは、カラフルなパッケージのクッキーやジャム、チーズやスパイスの瓶が次々と出てきて、そのたびに「それなに?」「おいしそう!」「ちょっと変な匂いしない?」なんて笑い声が飛び交った。


「さぁ、お話は終わり。ご飯にしましょう」


台所では、恭ちゃんのお母さんが炊き込みご飯と味噌汁を用意してくれていて、香ばしい香りが部屋いっぱいに広がる。


「さあさあ、席について! 彩乃さん、そっち座ってね」


明日香さんがあたしの背中を軽く押してくれて、あたしはちゃぶ台の一角にちょこんと座った。


「和と洋が混ざってんの変な感じだな」

「文句言わない!」


恭ちゃんと明日香さんも久しぶりの掛け合いを見せていた。


そしてご飯を食べながら恭ちゃんの昔の話や、お父さんとお母さんの話を聞かせてもらった。


恭ちゃんのお母さんが、おだやかな声で語る。


「わたしたちね、先生と生徒の関係だったけど、その関係じゃなくなるまで、付き合うことはなかったのよ」


当時の空気を思い出すように、静かに語るその表情には、どこか遠い懐かしさがあった。


「卒業するまでってこと?」


「そう。卒業してしばらく経ってからかな、付き合い出したのは」


恭ちゃんのお母さんも教員免許を取っていたようで、そこで教育実習があったタイミングで距離を縮めたらしい。


「付き合ってからも、ほら……歳の差が全然違うでしょ?すれ違いが多くてね……。それでも、大切に想い合ってたから、ちゃんと乗り越えてこれたの」


お母さんが話すその“想い合う”という言葉が、まっすぐ胸に響いた。


そしてふと、お父さんの方を見ると、なにも言わずにうなずいていた。


少しだけ照れくさそうに、でもその眼差しには確かな信頼があって。


ふたりの間に流れるあたたかな空気が、すごく心地よくてあたしはそっと、目を伏せた。


“好き”って、こんなに強い気持ちなんだな……。


先生と生徒。

立場の違い、年齢の差、すれ違い。


それでも、いまこうして並んで笑い合えているふたりの姿を見ていると、“好き”という感情は、どんな困難も乗り越えられる力になるんだと、自然に思えた。


この気持ちは一生、大事にするよ、恭ちゃん。

心の中で、そっとつぶやいた。


気づけば、窓の外は夕暮れに染まっていた。


おしゃべりの声も、食器の音も、ゆるやかに落ち着いていく。


「そろそろ、帰るか」


立ち上がった恭ちゃんの言葉に、部屋の空気が名残惜しそうに揺れる。


「え~、もう? 泊まって行けばいいのに~」


明日香さんが、あからさまに残念そうな声をあげる。


「着替えなんて持ってきてねぇから、また今度だな」


そう言って、恭ちゃんは少しだけ笑った。


その横顔はどこか安心しきったようで……あたしもつられて微笑んだ。


「またいつでも来ていいんだからね」

「はい!今日は本当に、ありがとうございました」


玄関でクツを履いていると、明日香さんもお父さんも出てきてくれて、家族全員で見送ってくれた。


みんなに受け入れてもらって、あたしの心は温かくなった。


「おじゃましました」


あたしは深く一礼し、恭ちゃんとふたりで家を後にした。


街灯がぽつぽつと灯り始めた帰り道。

あたりは茜色から紺色へ、静かに溶け込んでいく。


「せっかく来たんだから、恭ちゃんだけでも泊まっていったらいいのに。あたしは地図見て帰るから良かったんだよ?」


ぽつりと言うと、恭ちゃんはすぐに返す。


「バーカ。お前ひとりで帰したら、迷子になるだろ?」

「失礼な。携帯で調べればちゃんと帰れます!」


「いや絶対迷うな」


むっとして見上げると、恭ちゃんはくすくす笑っていた。


「ウソだよ。薄暗くなってるのに、可愛い彼女ほっぽってのんびり実家で過ごせる男なんて、いねーよ」


「……っ」


思わず言葉が詰まる。

鼓動が、たった一言で加速するのが分かった。


いつもそんなこと、言わないくせに。

こんな時だけ、急に言うから……ずるいんだ。


返事ができなくて顔を真っ赤にしていると、恭ちゃんはすぐ横で、意地悪な声でささやいてきた。


「彩乃ちゃん、なぁに照れてんの?」

「もう!」


たまらず言い返すけれど、口調に怒気はなくて。


むしろ、顔の火照りをごまかすために、わざとらしく声を張っただけだった。

そのまま歩いていたら、バス停が見えてきた。


そこで、恭ちゃんがふと足を止める。

そして、なにも言わずに「ほら」と言って両手を広げてきた。


い、いいの……?

恭ちゃんに抱きついて?


そう思っていると、「おいで」と彼は優しい声で言った。


あたしは迷わず、その腕の中に飛び込んだ。


ぎゅっと抱きしめられた瞬間、すぐ耳元で恭ちゃんの声が聞こえた。


「……やっと、心の引っかかり、全部なくなったな」

「うん……」


「彩乃のおかげだ……あんな頑固な父さんに受け入れられたのも彩乃が頑張ってくれたからだよ」


あたしはぶんぶんと首を振った。


「そうじゃないよ、恭ちゃんが真剣にあたしのことを思ってくれていたからだよ」


親は絶対に子どものことを見てる。


だから恭ちゃんの気持ちが伝わったんじゃないかな。


お父さんも厳しい人だけど、本当は愛のある人だって分かったから。


「お前、いつからそんな大人っぽくなったんだよ」

「え、そう……?」


「追い越されないように気を付けないとな」


追いつけるのかな。

でも今ならなんでも頑張れる気がした。


もっと、もっと恭ちゃんに触れていたくて、ぴったりと身体を寄せると、彼の腕がさらに強くあたしを包み込んでくれた。


温かくて、安心できて。

このまま、ずっとここにいたいと思った。


だけど、ふいにその腕がそっとゆるめられた。


「彩乃、手、出してごらん」

「え……?」


少しだけ身体を離されて、あたしは戸惑いながらも、言われたままに手を差し出す。


夜の風が頬をかすめていく中、恭ちゃんはあたしの左手を取った。


そして、彼の指先が、そっとあたしの薬指に触れる。


「へ……っ、恭ちゃん、これ……」


ひんやりとした金属が、指にぴたりとおさまる。

その小さな光が、街灯の灯りに照らされてきらりと揺れた。


「……指輪……っ」


あまりに不意打ちで、息をのむ。

それがどれだけ特別な意味を持っているのか、瞬時にわかってしまったから。


「これから先、不安になることがあったら、それを見ろ。俺の気持ちは、変わらないって証だから」


落ち着いた声で、でも、ひとつひとつの言葉を大事に噛みしめるようにして……恭ちゃんは、あたしの前でそっと片膝をついた。


その姿はまるで、どこかの映画のワンシーンみたいだった。


夕暮れの空の下で。誰にも邪魔されない、ふたりだけのあたたかい時間が、そっと流れている。


そして彼は、薬指にそっと唇を寄せる。


「ちゅっ」と小さな音を立てて、指輪にキスを落とした。

それだけで、胸の奥がじわりと熱くなる。


「彩乃。……愛してる」

「恭ちゃ……」


「どんな困難があっても俺はお前を守り続けるって誓うよ」


真っ直ぐに、まるで心に飛び込んでくるような言葉だった。


ぶわっと涙があふれて、止まらない。


「……っ、恭ちゃん……」


頬をつたって流れる涙を拭うことも忘れて、あたしは彼を見つめる。


好きでいてよかった。

あきらめなくて、本当によかった。


「恋愛対象外」だなんて言われたことも、泣いた夜も、不安になった日も……全部、全部この瞬間のためにあったんだって、今なら思える。


そうやって思わせてくれた、恭ちゃんに。


「ありがとう……あたしも、だい、すきです……」


あたしは、めいっぱいの気持ちをこめて伝えた。


彼の目をまっすぐ見つめて、言葉を乗せる。

この瞬間だけは、きっと一生忘れない。


風がやさしく通りすぎて、彼の手があたしの頬に触れた。

あたしも、同じ気持ちだよ。


その言葉の代わりに、あたしはもっと強く彼を抱きしめた。



どんなに、大人ぶったって彼の隣は並べない。

どんなに好きだと言ったって、いっつも子ども扱いされてかわわされる。


頑張って、背伸びしてみたって、絶対に届く距離じゃないけれど……。

それでも頑張って近付きたいの。


「恭ちゃん……大好きだよ」

「俺も。愛してるよ、彩乃」


だって、ずっと頑張っていたら、いつかは振り向いてくれるかもしれないから。


恋愛対象外だって、あたしはそんなの気にしない。


そこに”好き”の気持ちがある限り、何度だって気持ちを伝えるんだ──。



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