ページを開く手が、震えていた。
スマホの画面越しに見える数字の羅列。
その中に、自分の受験番号を探す。
そう、今日は大学の合格発表日だ。
先日入試を受けてきた。
自己採点ではギリギリであまり評価は高くなかったから不安だった。
お願い……あたしの番号……あって。
探す作業が、ものすごく時間のかかることに感じられた。
何度も何度も、目でなぞる。
その瞬間、心臓が跳ねた。
……あった!
間違いじゃない。ちゃんと……あたしの番号がある。
「……受かった……」
小さく、息のように漏れた声はぽつりと響いた。
良かった……っ。
涙が、にじむ。
信じられないくらい、うれしかった。
この一年間、ずっと必死で走り続けた。
模試でE判定を取った時も、周りと比べて自信を失いかけた時も……それでもあきらめないって決めて、頑張った。
時に恭ちゃんに支えてくれて、真夜中に不安になって電話した日。
「大丈夫。お前はやれるって、俺が保証する」って、言ってくれたあの言葉。
そのたびに救われた。
はやく恭ちゃんに連絡しないと!
恭ちゃんは今、仕事中だからいつみられるか分からないけれど、早くに伝えたかった。
スマホを手に取って、一番上にある「恭ちゃん」の名前をタップする。
【受かった!!!合格したよ!!!】
メッセージを送ると、なんだかほっとして力が抜けた。
すると、すぐに返事が返ってきた。
【本当におめでとう。よく頑張ったな】
恭ちゃん……。
いつもは仕事中でメッセージがこんなに早く帰ってくることはない。
恭ちゃんも今日は、そわそわしてくれてたのかなと思うとさらに愛おしく感じる。
ありがとね、恭ちゃん。
ちゃんと今日伝えないと。
あたし、ちゃんとやれたよ。
恭ちゃんに、胸を張って報告できる未来を選べたんだ。
嬉しくて、泣きながら笑ってる自分が、今ちょっとだけほこらしかった。
この春、あたしはまたひとつ、新しい扉を開ける。
その扉の向こうにも、恭ちゃんがいて「こっちだよ」って手招きしていてくれたらいいな……。
それから夜。
恭ちゃんは「今日はできるだけ早く上がる」とメールで伝えてくれて、18時には家に帰ってきた。
「へへ、待てずに来ちゃった」
付き合う前にみたいにマンションのエントランスにいると、恭ちゃんはいつものように怒った。
「こら!夜に外に出るなって言っただろ?全く、迎えに行くまで待てねぇのかよ」
「待てないよ……」
だってもう今すぐに会いたかったんだもん!
っていうか、最初にお説教ですか?!
今日は特別な日なのに……!
すると恭ちゃんはあたしの目をまっすぐに見て言う。
「合格、おめでとう」
手にはケーキ屋さんのロゴが入った箱があった。
「……これ!ケーキ買ってくれたの?」
「まぁ……もう散々食べただろうけどな、俺もちゃんとお祝いしてやりたいし」
「恭ちゃん……」
たしかにお母さんたちも今日はケーキを用意してくれていた。
でも仕事終わりの恭ちゃんがここまでしてくれるなんて思いもしなかったから……すごく嬉しい。
「泣くの早すぎ」
そう言って笑いながら、恭ちゃんがあたしの頭をくしゃっと撫でた。
部屋に入ると、持ってきたケーキをテーブルに並べてくれて、あたしは冷蔵庫からお茶を出した。
一緒にケーキを食べて、今日の合格発表の話をして、あたしが「本当はめちゃくちゃ怖かった」って言ったら、恭ちゃんは静かに聞いてくれて、「でもお前は逃げなかった。それがすごいんだよ」って、また真っ直ぐな言葉をくれた。
今日は特別褒められデーだ。
ちょっと浮かれてあたしの好きなところとか聞いちゃってもいいですかね?
なんて思っていた時。
「……でさ」
そう前置きして、恭ちゃんがポケットから封筒を取り出した。
「これも一応プレゼントなんだけど」
「なに、それ?」
「あけてみ?」
言われたままに封筒を開けると。
「……えっ!」
中には、温泉旅館のチケットが二枚入っていた。
「これ……」
「彩乃が受かるって信じてたから、先にとっちまった」
それは有名な温泉地の名前で、ちゃんと週末の予約が入っていた。
「まあ……これも合格祝いな」
「嬉しい……!お母さんとお父さんに聞いてこないと!」
「ああ、それなんだけど……そっちも先に聞いてるから」
「ええっ」
あたしはビックリして目を丸めた。
恭ちゃん、いつの間にあたしの両親に許可とってたの!?
「彩乃の両親もさ、頑張ってたからこの日くらいは1日泊りでゆっくりしておいでってさ」
「恭ちゃん……全部用意が良すぎるよ」
「そりゃまぁ……俺もずっと待ってたからな。お前とゆっくりした時間を過ごせるの。それで……行けますか?」
「行くに決まってるじゃん……!」
その言葉と一緒に、恭ちゃんの胸に飛び込んだ。
恭ちゃんの手が、そっとあたしの背中を支えてくれる。
「頑張ったな、えらいぞ。彩乃」
「うん、ありがとう……!」
頑張ったご褒美がたくさん待っていて、あたしは逃げないで頑張れて良かったと思った。
逃げていた自分から変わることが出来て良かった。
それも全部恭ちゃんのおかげだ。
じっと彼の顔を見つめると、ゆっくりとした仕草で恭ちゃんが手を伸ばす。
指先がそっと髪をすくって、耳の後ろに触れた。
「……彩乃」
低い声で名前を呼ばれた瞬間、胸の奥があたたかくなる感覚になる。
「頑張ったご褒美」
そのまま、そっと体が近づき、唇が触れた。
「ん……っ」
やわらかく熱を持っている恭ちゃんの唇。
唇が離れると、そっと目を合わせた。
「もっと……」
指先がわたしの頬をなぞる。
もう一度そっと目を閉じるとふたたびキスが重なった。
「仕方ねぇな」
そんな風にいいながら、恭ちゃんはあたしのすべてを、優しく満たしてくれた。
「……っ、は」
今日は抑えられなくなって何度も何度も軽いキスをした。
「大好き」
「俺も」
頭をポンポン撫でられて愛おしさを感じる。
温泉旅行がとても楽しみだ!
そして旅行当日──。
空は気持ちいいくらいに晴れていて、少し早起きしたあたしは、寝ぐせを直してからお気に入りのワンピースに袖を通した。
……今日は、ちゃんと彼女っぽく見えるように大人っぽい服装。
何度も鏡の前でくるっと回って、満足したところで、スマホに恭ちゃんからのメッセージが届いた。
【おーい、まだか?】
やば!もう過ぎてる!
「行ってきます!」
あたしは大きめのバッグを肩にかけて、急ぎ足で家を出た。
旅行っていうだけで、なんだかちょっと特別な気持ちになるんだよね。
家を出ると、恭ちゃんはそこで待ってくれていた。
「お待たせしました」
「……おう、ちゃんと寝坊しないで済んだな」
「寝坊はしないよ!」
「服、かわいいじゃん」
不意にそんなこと言うから、顔が一瞬で熱くなる。
「うれしい……」
小さい声でつぶやくと恭ちゃんはくすっと笑って、あたしのバッグをさりげなく持ってくれた。
それから移動して、電車のホームに並んで、少し風の吹く中、ふたり並んで待つ。
やってきた特急列車に乗り込むと、指定席は並びのふたりがけ。
窓際の席に座って、外の景色を見ながら深呼吸する。
「楽しみだな」
隣で恭ちゃんが、ぽつりとつぶやく。
「うん。楽しみ。あたし、温泉旅行って初めてかも」
「じゃあ、彩乃の初旅行は俺がもらったってことで」
「それだけじゃないかもよ?」
「おい、コラ……煽るな」
コツンと恭ちゃんに頭を突かれる。
へへっ……だってお泊りだよ?
そりゃ期待しちゃうって。
窓の外には、街並みがだんだんと自然の風景へと変わっていく。
高く積まれた山。
ちらほらと咲き始めた桜のつぼみ。
青空の下、道を走るトラックや民家の風景までも、今日はなぜか全部が特別に見えた。
電車を降りて、駅前から出ている旅館の送迎バスに乗ると、景色は一気に山あいの静かな温泉街へと変わった。
「わ……すごい……」
両側に木々が立ち並び、ところどころに硫黄の香りがふわりとただよう。
旅館の名前が刻まれた木製の看板が見えたとき、あたしの心はまたひとつ高鳴った。
「あそこ!?」
「そうだよ」
バスを降りると、目の前に現れたのは、和風で落ち着いたたたずまいの旅館。
しっとりとした石畳の先には、瓦屋根と木の格子の入り口。
まるで時がゆっくりと流れるような空気に包まれていた。
「いらっしゃいませ。ご予約の三谷様ですね?」
恭ちゃんが「はい」と答え、チェックインを済ませる。
案内された和室のふすまを開けた瞬間、ふわっと畳の香りが広がった。
「わぁ……」
思わず声がこぼれる。
「気に入ったか?」
「気に入ったなんてもんじゃないよ。こんなところ家族でも来たことないよ」
「そうなのか?」
お父さんが出張族のため、あたしたちは家族で旅行にいくことはあまりなかった。
「なら良かった」
そして奥まで進んでみると、部屋の外にはなんと露天風呂が付いていた。
「きょ、恭ちゃん!?!」
「あーそう、言い忘れてたけど客室露天付だから。女子はそういうの好きなんだろ?」
「……す、すごすぎてちょっと」
だって客室露天風呂ってことは……絶対一緒に入るってことだよね!?
あたしと恭ちゃんの関係性がまた一歩進んでしまうんじゃないの!?
それから、仕切りの向こうに入って浴衣に着替える。
備え付けの淡い桃色の浴衣に袖を通すと、髪をまとめ直して、そっとふすまを開けると、そこには、すでに浴衣に着替えた恭ちゃんが立っていた。
「え……」
普段のスーツ姿と違って、黒の浴衣を着て髪をラフに流した恭ちゃんは、まるで旅館のCMに出てきそうなくらい、大人っぽく見える。
「か、かっこいい……」
「はぁ?」
「あたしの彼氏……めちゃくちゃカッコイイどうしよう」
「お前なぁ、今日テンションおかしいぞ?」
「だって……」
恭ちゃんの浴衣姿をまじまじと見つめていると、恭ちゃんがにやりと笑って、一歩、近づいてくる。
「まぁ……彩乃も、すげぇ可愛いけど」
「っ、……!」
ダメでしょそれ。
浴衣姿でそんなこと言わないでよ……!
浴衣に着替えて、荷物をほどいた後は、テレビをみたりテーブルに用意されていたお茶菓子を食べたりしてゆっくりした時間を過ごした。
受験期はこうやってテレビを見る時間もなかったし、時がゆっくり過ぎることを感じることもなかった。
だからこの時間がすごくいい時間に感じるんだ。
そんな風に思っていると、恭ちゃんはポツリと言った。
「彩乃は本当にすごいよな」
「すごい?」
「ああ、あんなにダメダメだったのに急に変われるんだからさ。志望してた大学だって難易度かなり高い大学だっただろう?なのに、一生懸命勉強して入っちまうんだもん。俺だったらたぶん無理だな」
「そんなことないよ!恭ちゃんの方が勉強できるんだから楽々じゃない?」
「いや、俺も壁に突き当たると逃げたくなるからな。その分お前は逃げずによく頑張ったよ」
「へへん」
頭をポンポンと撫でられていい気になる。
「でもこれから大学かぁ……青春ライフ送って俺のこと見えなくなっちゃったりしてな?」
恭ちゃんの口から弱音が出たのははじめてだった。
「恭ちゃん、そんなこと気にしてるの!?」
「そりゃそうだろ。大学生なんて一番楽しい時じゃん。おじさんのことなんか知らないって彩乃ちゃんなっちゃうんだろうな~」
「絶対ならないよ。だってあたし恭ちゃんにぞっこんだもん」
あたしはまっすぐに恭ちゃんを見つめて言った。
いつだってずっと恭ちゃんを見てきた。
はじめての恋も恭ちゃんだったし、ドキドキするのも恭ちゃんだけ。
だから他の人を見る日は、これから先なにがあっても絶対に来ないって断言できるんだ!
「でも……恭ちゃんがヤキモチ妬いてくれるなら、それはそれで嬉しいかも」
ニヤニヤしながら彼を見つめると、恭ちゃんはあきれ顔をした。
「やめてくれ……たぶんまじでメンタル来るな」
やっぱりあたしが大学生になるって不安なのかな?
そういえば、千葉さんも麻美の美容の学校は男女共に半分半分って聞いて不安になってたな。
「ふふっ」
大人って余裕があるのかと思ってたけど、案外自信ないこともあるんだなぁ。
不安にならないようにちゃんと伝えていかないとね。
「……じゃ、そろそろ風呂でも行くか?」
恭ちゃんの声に、あたしは「うん」と返事をしながらも、胸の奥がドキンと鳴っていた。
貸切の、お風呂。……ふたりで、入れる。
お風呂に一緒に入るなんてはじめてだよ……っ。
恭ちゃんがなに気ない様子で準備を始めてるのを見て、あたしは急いで脱衣所のほうへ向かった。
浴衣を脱いで、体に巻いたバスタオルをぎゅっとにぎる。
何度か深呼吸して、覚悟を決める。
少しして、そっと扉を開けると、湯気が立ち込めるお風呂がそこにはあった。
恭ちゃんの方は見ないようにして身体を洗って、それから湯舟に入る。
「なんでそんな端っこ行くわけ?」
「そ、それは……」
だいたいわかるでしょ?
しかし、こういう時の恭ちゃんはいじわるばっかりするって知ってる。
「じゃあ俺から行こうか?」
「恭ちゃん……!」
「冗談だよ」
そう言って恭ちゃんとあたしは離れたところでお風呂に使っていた。
「気持ちいね」
「ああ。外の空気も最高だしな……露天風呂っていいな」
恭ちゃんは日ごろの疲れをここで癒しているみたいだった。
しばらくつかっていると、いつの間に距離を縮めたのか恭ちゃんがあたしの腕を引っ張ってきた。
「ほら、こっち来いよ。さすがにずっと離れてるのはさみしいだろ」
「な、なんか恥ずかしい」
「じゃあ俺が行くけど?」
肩がピタっとあたる。
恥ずかしさでどうにかなりそうだった。
今日の恭ちゃんは、髪はちょっと濡れていて、どこか大人っぽくて……。
やっぱり、かっこよすぎた。
「お前……ちょっとバテててねぇか?」
「クラクラする~」
「なにしてんだ!早く上がるぞ」
ちょっと刺激的な体験は、あたしのせいでムードもへったくれもなく終わった。
それから少しクーラーがあたるところで休憩をして、体調が戻ってきた時に恭ちゃんが言った。
「……外、ちょっと見に行ってみるか?」
「いいね、それ」
あたしのひと言に、恭ちゃんが立ち上がる。
下駄を鳴らしながら、旅館の外の小道へ出ると、空気がすぅっと冷たくなった。
でも、それが気持ちいい。
春のはじまりの風は、冷たいくせに、どこかあたたかい匂いがした。
「星、出てる」
あたしが空を見上げると、恭ちゃんも同じように空をあおいでいた。
「東京じゃこんな風に見えねぇよな」
夜は静かでちょっとドキドキした。
星をしばらく眺めていると、恭ちゃんは言った。
「もしさ、将来俺が田舎に帰りたいって言ったらどうする?」
「えっ」
ビックリした。
まさかそんなこと考えてるなんて知りもしなかったから。
「帰りたいの?」
「いや、今は考えてないけど。両親の身体が悪くなったりしたらさ、姉貴は海外だろ?だから俺が帰ってやるべきだよなって」
……そっか、この間の帰省の時に恭ちゃんはそんなこと考えてたんだ。
「あたしだって一緒に恭ちゃんと田舎に行く。あっ!言っておくけど、あたしのためにあたしと別れるとか言ったらダメだから!」
だって別に場所はこだわってない。
あたしのやりたい仕事はどこでだって出来る仕事だから。
「なんか前置きされたな。お前、本当どんどんたくましくなるね。普通は嫌だ、行かないで。東京にいようよ!って言うだろ。そんなにいい女になってると、やっぱり心配だな」
「えっ、そうなの」
「大学生になってお前のこと狙うやついるんじゃね」
「じゃあその時は恭ちゃんが牽制して」
「牽制はまぁ……得意だな」
恭ちゃんは心あたりがあるのか上を向きながらそう答えた。
「でも嫌なことはハッキリ言っていいんだからな。無理はしないで欲しい。しっかりさ、話し合って決めていこうぜ」
「うん……!」
あたしたちはいくつも、困難を乗り越えてきた。
だから今の恭ちゃんとなら、どんなことがあっても大丈夫だと思うんだ。
お風呂上がり、体も心もふわふわとあたたかくなって、外を散歩して、その後美味しい海鮮のご飯を食べた。
そして部屋に戻ってきてあたしたちは少しお茶を飲んでから、敷かれていたお布団に入ることになった。
並んだふたつの布団。
部屋はほんのりとした照明だけが灯っていて、外からはときおり、風に揺れる木の音が聞こえてくる。
「……今日は、ありがとね」
「こっちこそ。彩乃と来れて、ほんとによかった。お前の楽しそうな顔が見れたしな」
恭ちゃんは、あたしの隣の布団で仰向けになって、天井を見つめていた。
あたしも、彼の横顔を盗み見ながら、胸の中がそわそわと揺れていた。
湯あがりのぽかぽかした身体を包む掛け布団が、妙にふわふわしていて、なかなか落ち着かない。
「……こうして布団並べて寝るのって、なんか、旅行っぽいよね」
「旅行だけどな」
「そうだけど、ほら、なんていうか……恋人同士の旅行、っていうのが特別感があるじゃん」
「そういうことか」
恭ちゃんがくすっと笑う声が、薄暗がりの中、すぐ隣から聞こえてきて、あたしは胸がきゅっとなるのを感じた。
ふたりの間に、ふっと、沈黙が落ちた。
さっきまでとはちょっと違う静けさ。
急に自分の心臓の音が大きくなった気がする。
しゃべったら、変に思われるかな。
黙ってたら黙ってたで、なにかを期待されてるような気もするし……!
ドキドキして、布団の中でごろりと少しだけ体勢を変えたら……カサリと布の音がして、その音さえやけに大きく感じた。
恭ちゃん、なに考えてるんだろ……。
隣でなにも言わずにいる彼のことを、意識しすぎて目が冴えてしまう。
今日するんだよね?
シないで寝ちゃうことってあるのかな?
思わず布団を口元まで引き寄せると。
「……なぁ」
不意に名前を呼ばれて、心臓が飛び跳ねそうになる。
「な、なに?」
「今、緊張してるだろ」
「そ、そりゃ……するよ」
くすぐったいような、焦れるような、もどかしい気持ち。
ずっと前から、想っていた。
大好きな人に、ちゃんと気持ちを伝えたいって。
今日みたいな特別な日に、ふたりだけの時間の中で……恭ちゃんに、ちゃんと“全部”伝えられたらって。
だから――。
「……恭ちゃん」
「ん?」
「……あたし、いいよ。準備できてる、から」
一瞬、空気が止まった気がした。
はじめてのふたりきりの旅行。
そりゃあもうシないわけないって、麻美もあたしの大好きな漫画も言ってた。
「……なにが?」
「なにが、って……」
あたしは布団の中で、両手で自分の胸をきゅっと抱きしめた。
「……恭ちゃんとなら、ちゃんとそういうのも、したいって思ってる。……今日だって、ちゃんと覚悟して来たんだよ」
かわいい下着を買って、持って来た。
恭ちゃんと、そういうことをするのは……そりゃ……緊張はあるけれど、あたしは大丈夫。
胸がドキン、ドキンと音を立てる。
緊張しているみたい。
でも、目は閉じなかった。
恭ちゃんの目を、ちゃんと見たかったから。
少しの沈黙のあと、彼は言った。
「……バカだな、彩乃は」
「えっ」
「そんなに震えてるくせに、言い切って……。ほんと、まっすぐで……」
恭ちゃんはあたしの頬に手を添えて、そっと撫でてくれた。
「ありがとう。……でも、まだダメだ」
「……なんで?」
「それは……お前が二十歳になるまで待ちたいって、前から決めてたから」
「……でも、もう、あたし――」
「焦らなくていい」
そっと唇に指をあてられた。
「気持ちだけで突っ走って、あとから不安になったり、後悔してほしくない。……彩乃とは、ゆっくり進んでいけたらいい」
そ、そんなぁ……。
二十歳ってことはあと2年も待つの!?
もうこんなに付き合ってるのに!?
「……恭ちゃんほんとに、我慢できる?」
「分かんねぇ、今も相当我慢してる」
──ドキン。
「……ばか」
恥ずかしくてあたしはそう言葉を吐いた。
我慢してるのは、あたしだけじゃなかったんだ。
「……彩乃」
「……ん?」
ゆっくり、恭ちゃんの顔が近づいてきた。
「……目、閉じて」
何度もキスはしてきたけど、こうしてお布団に入って、旅館で、ふたりきりの夜で……ってなると、なにもかもが違って見える。
「我慢するんじゃないの?」
恥ずかしくなりそんな言葉を吐くと、恭ちゃんはニヤリと笑った。
「キスはしないとは言ってない」
その声にドキン、と胸が鳴って、あたしは素直に目を閉じた。
次の瞬間、あたたかな唇がそっと重なる。
ゆっくり、優しくて、だけどすぐにもう一度。今度は少し深く唇はかさなった。
「……ん、ふ……」
鼻先が触れて、吐息が交わる。
ふたりの熱が近くて、体がぽうっと熱くなる。
触れ合うだけのキスじゃなくて、想いを込めるように、もっと深く。
「んんっ……」
たしかめ合うみたいに、唇が離れてはまた重なる。
「……彩乃、もう……終わり」
かすれた恭ちゃんの声に、あたしの身体がびくりと震えた。
「……もう少しだけ……」
だってこうやってふたりきりになれる時間がどのくらいあるか分からない。
大学に入ってあたしもいそがしくなることもあるし、恭ちゃんのプロジェクトがいそがしくなってしまうことがある。
だからこの時間を大事にしたいの。
あたしはそっと恭ちゃんの首に手を添えた。
だいたんだけど、大好きが伝わる一番の行為。
「ん……」
そして唇がまた重なった。
さっきよりも、熱くて、柔らかくて、気持ちが全部伝わってくるようなキスだった。
ふたりだけの、特別な夜はちょっと激しくて温かかった。
「……ねぇ、手、繋いで寝てもいい?」
「かわいいな、それ」
布団の中で、手を繋ぐ。
そのぬくもりは、どんなキスよりも深く、あたしの心に染み込んでいった。
「好きだよ、恭ちゃん」
「……俺も、愛してる」
あたしは、そっと目を閉じた。
朝──。
旅館の窓から差し込む光に目を細めて、あたしはゆっくりと起き上がった。
隣の布団では、恭ちゃんがまだ眠たそうにまどろんでいて……その寝顔を見ていると愛おしさが沸き上がってきて胸がきゅっとなる。
恭ちゃんは仕事で疲れているのに、あたしのためにこうやって旅行入れてくれたんだ。
「ありがとね、恭ちゃん……」
もう少しだけ寝かせてあげよう。
あたしは先にお化粧を済ませた。
そして恭ちゃんが起きてくると、朝ご飯をいただいたあと、旅館を出た。
「お世話になりました」
空は澄みきっていて、昨日とはまた違う、新しい一日が始まっていた。
「じゃあ、ちょっと寄り道してこうか。駅、まだ時間あるし」
「どこ行くの?」
「ちょっとした観光地。ここ来たなら、行っといたほうがいいって地元の人が言ってた」
へぇ……そんな場所があるんだ。
そう言って連れてこられたのは、旅館から少し山を登った先にある、小さな白い教会だった。
「……うわ、すごい……!」
森の中にぽつんと建つその教会は、まるで外国の絵本に出てくるみたいで、白い壁と尖った屋根、石造りの鐘楼に小さなステンドグラスが輝いていた。
「ここ、恋人の聖地って呼ばれてるらしいぜ」
「なんてステキなの……っ!」
あたしは目を輝かせた。
「ふっ、彩乃はこういうの好きだと思ったわ」
「大好き!」
だってさ、こういうところのジンクスとか絶対に信じちゃうんだよね。
「ウワサによると付き合ってるふたりが一緒に鐘を鳴らすと、永遠に結ばれるんだと」
「なにそれ……めちゃくちゃいい……」
よすぎる!
頬がゆるんでしまう。
「やってみる?」
「うん……」
手を繋いだまま、教会の中に入る。
天井は高く、空気はひんやりとしていて、静かで……まるで時が止まったみたいだった。
なんか神聖な場所って感じがする。
奥に設置された鐘のロープをふたりでにぎる。
「せーの、でいくぞ」
「……うんっ」
「「せーのっ」」
――ガラン。
響いた鐘の音は、まっすぐ天井へ昇っていって、目をつぶって聞き入ってしまうほどきれいな音だった。
「なんか、照れるね」
「……俺も」
ふたりで顔を見合わせて、笑う。
あの鐘の音がちゃんと未来にも、届くといいな。
そう思って高台から外を見つめる。
あたしは横にいる恭ちゃんの腕に、そっと寄りかかった。
「ずっと一緒にいようね、それで10年後もこの鐘を鳴らしにこよう」
「それ、いいな……俺らの思い出の場所ってことで」
何年経っても隣にいるのが恭ちゃんだといい。
そしてずっとずっと大好きの気持ちを持っていたらうれしいな。
すると、ふと恭ちゃんがポケットに手を入れた。
「渡したいものがあるんだ」
「……ん? なに?」
その仕草に、なんとなく違和感があって、あたしは自然と彼の顔を見上げた。
彼の手の中には、小さな箱があった。
明らかに見覚えのある、あのサイズと形。
恭ちゃんは真面目な顔で、あたしの前に向き直る。
教会の柔らかい光が、彼の髪と肩にふわりと降りている。
「彩乃、お前は今、合格して、大学にも進学が決まって……こうして旅行にも来られて。たぶん、これからいろんな道が開けていくとこなんだと思う」
「……うん」
「だから、これは決まりってわけじゃないんだけど……未来の約束をさせて欲しい」
未来の約束?
そう言って、箱を開ける。
中には、細くてシンプルな、でもどこか品のある銀のリングが入っていた。
「これ……っ」
指輪だ。
「ウソ……」
あたしは口もとを手で覆った。
「彩乃。ずっと俺と一緒にいてください」
恭ちゃんはひざまずいて、そう誓った。
あたしは口もとを手で覆った。
丁寧で、まっすぐで……恭ちゃんらしい、飾らないけど強い告白だった。
「恭ちゃ……っ」
胸の奥がじんわりあたたかくなって、あたしは目尻を押さえた指先で、もう止められそうにない涙をごまかす。
「泣くなよ」
でもやっぱり恭ちゃんは気づいていたみたい。
「泣かせたの、恭ちゃん、じゃん……」
小さな声でそう言うと、恭ちゃんの手がそっと伸びて来る。
「じゃあ責任とらないとな」
冷たい風にふかれて、少し肌寒かったはずなのに、手のひらも、胸の奥も、どうしようもなくあたたかい。
「……こんなの、ずるいよ」
あたしは思わず、恭ちゃんの胸に飛び込んだ。
彼の胸の前で、声にならないほど、涙があふれて止まらなかった。
「大好き……恭ちゃん、だいすき……!」
「それで?告白の返事を聞いてないけど?」
恭ちゃんにそう言われ、あたしは恭ちゃんから離れまっすぐに目を見て言った。
「はい……ずっと一緒にいます」
「よかった」
恭ちゃんがそっとあたしの左手を取って、薬指にそのリングをはめてくれる。
「今はまだ仮の指輪だけど……将来、ちゃんと本物を渡すから、それまで、俺を信じて待っててくれる?」
「もちろんだよ」
ずっと信じてる。
なにがあっても必ず。
指輪はするりと指を通って行き、ピッタリのサイズだった。
「キレイ……」
きらりと光っているリング。
指輪を付けた自分を見て胸がいっぱいになった。
「……似合ってるよ」
「ほんと?」
「うん。俺が選んだんだ。間違いない」
恭ちゃんが照れくさそうに笑って、あたしは小さく笑い返した。
これがあったら、大学生になっていそがしくて会えない日々が増えたとしても頑張れるね。
きっと大丈夫だと思わせてくれる。
「ずっと“見て“られる~」
「彩乃、泣きすぎ。鼻水出るぞ」
「出てないもんっ……!」
「ふっ……かわいい」
「うるさい……っ」
涙で顔ぐちゃぐちゃなのに、それでも恭ちゃんがそっと笑って、頬に指をそえる。
教会の鐘の音がまだ心のどこかに残っていて、この日のことは、きっと一生忘れないだろう──。
教会をあとにして手を繋いで歩き出すと、後ろで風が鐘のロープをかすかに揺れもう一度、小さな音が鳴った気がした。
次に来る時は、あたしたちの未来が確定された未来だといいな。
結婚を決めて、ふたりで歩んでいく未来。
そうだったらいいな……。
そして次の日。
麻美に電話をした時。
「ええー!!エッチしなかったの!?」
大きな麻美の声が響いたのは言うまでもない。
「あんた……それ、相当大事にされてるわね」
「そ、そうかな」
「いい?彩乃。男がね、そういう手を出したいという欲を我慢するのは相当なことなんだってこの前千葉さんが言ってたわよ」
麻美、そんな話を千葉さんとしてるの!?
「だからそれは本当にすごいことなの」
「な、なるほど……」
あたしはごくりと息をのむ。
すると、麻美が言った。
「相手に対しても自分に対しても誠実であること。きっと恭ちゃんは、それをずっと意識してるんだろうね」
「誠実?」
「うん、彩乃を不安にさせないためにずっと自分の言ったことを守る人間でいるんだと思うよ」
「そっか……」
麻美の言葉はなんかすごく心の中にしっくりと来た。
正直、もう高校生じゃなくなったからいいのに~なんて思ったけれど、相手に誠実でいることって将来のあたしたちの関係を築く上でも大事になってくると思う。
「また相談乗って、麻美姉さん」
「任せなさい」
なんて大人な麻美姉さんに相談をしながら、あたしたちはあたしたちらしくゆっくり歩んでいこうと思うんだ。