放課後の廊下を千隼は走っていた。逃げるように階段を駆け降りる中、少し後ろを和樹が追いかけてきている。
風吹を教室で待っていた千隼だったが、やってきた和樹と会話にならない会話を繰り広げていたわけだが、直哉が作ってくれた隙をついて逃げ出すことに成功していた。
ぐるぐると校舎内を走り回り、旧校舎の中へと入る。そのまま一階の奥のほうまでやってきて、和樹に腕を掴まれた。
そのまま近くの教室へと引き込まれると、投げ出されて床に転がされてしまう。打ちつけた腰の痛みに堪えながら千隼は顔を上げた。
息を荒げながら和樹は「やっと捕まえたぞ」と呼吸を整えて言う。どうにか逃げられないだろうかと身体を起こすけれど、彼の背後にある扉から以外は出られそうになかった。
和樹はにやにやと気持ち悪い笑みを浮かべながらネックレスを掴む。宝石のようなものが淡く光ったように見えた。
「すぐに虜になるさ」
彼はそう言ってネックレスをいじっているけれど、何か起こる気配はない。特に変化もなくて千隼が和樹を見遣れば、彼の様子がおかしかった。
和樹は苛立っているというよりは困惑している様子で、「なんでだよ」と呟いている。焦ったようにネックレスを掴みながら和樹が近寄ってきて――ばちりと電気が走った。
火花が散って和樹は掴んでいたネックレスを首から引き剥がす。床に転がった宝石がばちばちと光り、ヒビが入った。
何が起こっているのかわかっていない様子の和樹は慌てたように内ポケットから古びた手帳を取り出した。
「あぁ、やはり術が記された古書の類を持っていたのか」
低い声だった。振り返った先、教室の扉に風吹が寄りかかっている。彼の眼光は鋭く、どんなものも逃さない強さを感じた。
「魅了の術をかけようとしたようだけれど、千隼には効かないよ。私が呪詛返しを施しているからね」
「な、お前……」
風吹の圧に和樹は一歩、下がる。千隼は今だと彼の傍から少し離れた机の後ろに隠れた。
これは風吹の指示だった。もし、行動に起こすようならば、旧校舎へと誘導し、この教室に引き入れなさいと言われていたので、千隼は勘づかれないようにわざと校舎内を走り回ってから、旧校舎へと逃げたのだ。
和樹の手に持っている手帳を源九郎がひょいっと浮いて確認し、返答を聞いた静代と透が腕を使って丸を作る。
どうやら手帳に術が書き留められていたようだ。古びた見た目からしてかなり昔の時代の手記といったところか。風吹がそれを見て「術の記載された手記を渡しなさい」と手を差し出す。
「お前、なんだよ。知ってるのか」
「少なくともキミよりは専門家だ。人間が秘術を使うのは危険な行為に当たる。大人しく渡してほしい」
風吹がそう言うも、和樹は手帳を持つ手を上げて渡すものかと声を荒げる。
これはオレのモノだ。これさえあれば、オレの自由にできる。和樹の口から出る言葉は私利私欲に塗れていた。
だから、いけないのだと風吹は呆れたように息を吐く。手荒な真似はしたくないのだがと言いたげに。
「痛い目を見るのはお前だ!」
和樹が殴り掛かるように近寄って――千隼の肩から影が飛び跳ねた。
ぴょいんと宙を舞い、きなこが猫の見た目に似合わぬ兎の耳を伸ばして和樹の頬を殴った。物の怪であるきなこの姿が視えていない和樹は突然のことに固まってしまう。
何が起こったのかと困惑する和樹の顔面にきなこが張り付き、彼は悲鳴を上げながら何度も顔を払う。
張り付いた何かを取るような仕草をするも、妖怪に触れることができないのできなこを掴むことはできない。
傍から見れば何もないところでもがいているだけなのだが、千隼は和樹がきなこに夢中である隙をついて、机の後ろから飛び出すと彼の手から手帳を奪った。
手帳を取られたことに和樹は気づくも、千隼は風吹の背後に隠れてしまっている。あっと声を零したのと同じく、きなこはぴょいんと跳ねて近くに居た静代の腕の中に収まった。
「お前、いったい何をした……」
「何をしたのだろうね? キミに教えることはないかな。さて、この手帳なんだけど」
誰に貰った。風吹は鋭い視線を向けながら和樹に近づく。彼の圧に恐怖を感じたのか、和樹が拳を振り上げるも、妖力の籠められたタロットカードによって跳ね返されてしまう。
跳ね返された勢いで床に転がった和樹は打ち付けた身体の痛みに呻いた。勝ち目がないということを理解しつつも、風吹の質問には答える気が無い。
なんと頑固なのだろうか、それともプライドか。風吹は眉を下げながら、「あまり、手荒な真似はしたくないんだ」とタロットカードを構える。
「痛い思いはしたくないだろう?」
「わかった! わかった、話す!」
風吹の冷めた言葉に恐怖を感じた和樹は「祖父の家で見つけたんだ!」と話した。父方の祖父の古い蔵を漁っていたら見つけたのだという。
面白そうだからと試したら本当にできてしまったので、これは良いものだと軽い気持ちで使ってしまっていた。後先など考えていなかったと言う和樹に、風吹は「これだから欲深い人間は」と呟く。
呆れを含むその言葉は和樹には聞こえていないようだ。悪かった、もうしないと謝る和樹にもう情報を得ることはできないと判断したのか、彼の額にタロットカードを翳す。
ひいっと怯えた表情を見せる和樹だったが、がくりと床に頬をつけて動かなくなった。千隼が恐る恐るといったふうに風吹を見れば、彼は「大丈夫ですよ」と何でもないように言った。
「この時の記憶を消して眠っているだけだよ」
このままにはしておけないので、記憶を消す術を使ったのだと教えてくれた。目が覚めたら此処で起こった出来事は全て忘れているらしい。
記憶を消す術というのは短時間であれば、効果を失うことないようだ。人間の感情や意思というのは動き続けるものなので、永遠にとはいかないが記憶は違うとのこと。
「人間は簡単に物事を忘れてしまう。そうでない者もいるけれどね」
「なるほど……。あ、手帳」
これと千隼が手帳を渡すと風吹が中身を確認する。数ページ捲ってから「これは簡易的なものだね」と手帳を閉じた。
簡単な術を書き留めていたもののようだ。ネックレスの作り方が載っているが、詳しくは記されていなかった。
「これは見過ごせなかったとはいえ、千隼を囮にするような指示だったね。すまない」
「え? 大丈夫ですよ。一応は助手ですし」
「でも、怖かっただろう?」
作戦だったとはいえ、何かされてしまうかもしれない恐怖はあったはずだ。風吹の言葉に千隼は「怖かったですけど……」と認める。
怖さというのはあった、失敗したらどうしようかという不安も。それは嘘ではないので素直に答える千隼だったが――
「でも、風吹先輩はちゃんと来てくれたじゃないですか」
だから怖さなんてもうないんですよ。ふわっと千隼はは微笑む。来てくれた安心感のほうが今は大きくて。それよりも助手として上手くできただろうかという不安のほうがある。
えへっと笑むに千隼に風吹は目を瞬かせること数秒、はーっと息を吐いた。それはもう深く。安堵したというようには何かに気づいたふうに。
「……なるほど、これがそういうものか」
「え、どうしました急に」
そうか、そうかと一人で納得する風吹に千隼は首を傾げる。彼はひとしきりそうしてから、うんと頷く。
「なんですか、風吹先輩?」
「いや、何でもない。千隼は私の助手としてちゃんとやれているよ。まさか、手記を取ってくるなんて思ってもいなかった」
「褒めてますけど、何でもないようには聞こえませんよー?」
じとりと千隼は見遣るも、そんな視線に風吹はにこりと笑みで返すだけだ。これは教えてくれないなとすぐに諦める。無理して聞こうとは思わないからだ。
「これで大丈夫だと思う。しかし、これからは私もしっかりしないといけない」
「と、言いますと?」
「教室に迎えに行くのは当然として、下校時も寮の部屋まで送ろう」
「いやいやいや! そこまでしなくても!」
「別に二階にある一年の寮室と、三階にある二年の寮室は通り道だから何の問題もない」
確かに通り道ではあるのだが、こまでしなくてもいいと千隼は思う。けれど、風吹はやる気のようで、どうしてそうなったのだと疑問を抱く。
そんな疑問に答えるように風吹は「そのほうが丁度いいだろう」と言った。
「私が常に側にいれば絡んでくる生徒もいないはずだ」
「……何処から突っ込めばいいですか?」
風吹の当然なのではといった表情に一つ一つに突っ込まないといけないのかと、千隼は思わず頭を悩ませた。