目を覚ましたライアンが見たのは、広間の天井だった。
「……地獄じゃないみたいだ」
「そうですよ。天国でもないですけど」
天井との間に割り込むようにリリアの顔が現れた。
その顔には天使のような柔らかな微笑が揺れている。
「わざわざ、俺が起きるのを待っていたのか?」
眠りから覚めて身体の感覚が戻ってきたライアンは、少女の膝枕に自分の頭が置かれているのを知った。
「俺が寝ている間に契約を終らせてしまえば、良かったのに……」
ゆっくりとライアンは身を起した。
悪魔の力の代償なのか身体のあちこちが酷く痛んで、うまく動かない。
「俺は使命を果たした。次はお前の番だ、リリア」
そう告げられたリリアは、困った顔で苦笑いを浮かべた。
その顔を見て、ライアンも少し困った顔をした。
「もう終わらせよう。終わらせて欲しいんだ」
意識が遠のく前に見た、あの光景が脳裏に浮かんだ。
暗く深く沈むだけで、浮かび上がることのない冷たい暗い水の中。
「もう、疲れた。疎まれるのも、裏切られるのも、もう味わいたくはない。もうオサラバしたいんだ。最期に騎士らしいことができたから、お前には感謝している。だから、この魂はお前の為に使いたい。これが俺の最期の誇りだ」
リリアはゆっくりと立ち上がり、手の平を差し出した。
「ごめんなさい。ライアンさん」
リリアの手の先から蒼い魔法陣が浮かび上がった。
ライアンは魔方陣越しに、リリアの顔を見つめていた。
蒼く発光する魔方陣の光が微かに波打った。
その時が来たかと目を閉じようとしたライアンだったが――魔方陣の異変に気が付いた。
よく見ると、空中に浮かぶ魔法陣には至る所に亀裂が入っており、見ている間にも亀裂の数は増えるばかりだ。
ひときわ大きく魔方陣が揺れた。次の瞬間、蒼い魔方陣は音もなく砕け散った。
魔方陣の光の欠片はきらきらと空中を漂いながら虚空へと消えていった。
「なんだ? どうしたんだ、リリア」
「ライアンさん。貴方と私の『魂の契約』は破棄されました」
「どうしてだ。何故そんなことを!」
リリアは苦笑いを浮かべてかぶりを振った。
「私の意思ではありません。破棄せざるを得ないのです。私とライアンさんの契約には、重大な矛盾が生じてしまいました」
「矛盾だと?」
「ライアンさん。今更ですが、私たちが導き出した『脅威』の定義とは何でしょうか?」
しばし逡巡の後、ライアンは答える。
「リアンダール王国に対する敵対行動だ」
「敵対行動ならば、誰でも『脅威』となりうるのでしょうか?」
「いや違う。ザウスベルクのダニエラ妃の謀略に関わっているのも条件だ。この条件以外の敵対行動にはお前の力は反応しなかった」
問いかけに答えながらも、リリアの意図が判らず困惑するライアン。
リリアは苦笑いを消して、冷淡な表情でライアンを見つめた。
「その通りです。ではライアンさん、先程貴方が打ち倒したのは、どこのどなたですか?」
誰と問われてライアンは視線を泳がした。
そして彷徨った視線の先には、ルドルフが着けていた――リアンダール王国騎士団の紋章が描かれた真紅のサーコートが落ちていた。
ライアンは息を呑んだ。
「そうです。貴方はリアンダール王国の騎士団長に剣を向けたのです」
「ま、まさか……」
「貴方は、この国の騎士団の団長を屠るという明確な意志を持ち、そしてその意志に従い、行動を起こしたのです。いわば、リアンダール王国に対する敵対行動を」
「まさか、俺が脅威だと言うのか!」
気色ばんで立ち上がろうとするライアンだったが、すぐに何かに思い至った。
「……いや、違う。違うぞ。俺の行動は確かに敵対行動だが、俺はダニエラ妃の手下なんかじゃない。俺は『脅威』の定義には当てはまらない」
「ええ、ここに来る前はそうでした」
「ここに来る前?」
何がなんだか分からないといった表情で、ライアンは必死に思考を巡らした。
ここに来てからの出来事――ルドルフが現れて本性を表して――いや、その前。
視線は虚空のままに、震える手を襟元へ伝わせた。
指先に触れるのは小さい金属塊。
「なんだ。この徽章は? お前がくれたこの徽章はなんの証だ!」
「一緒に書状をお渡ししました。ライアンさんはお読みになりませんでしたが」
はっと気付いて服の中を弄り、くしゃくしゃなっていたそれを取り出して、そこに書かれている文字を凝視した。
「……レーゼマイン卿付き、特別近衛兵を任ずる……?」
読み上げてから数拍の後に意味を理解したライアンの指が震えた。口は言葉を紡ぐことができずに空を噛むばかりだった。
「レーゼマイン卿。今は捕囚の身ではありますが、ダニエラ妃を起点とする謀略の実行役の一人。
私の悪魔の力が反応する『脅威』の存在です。貴方は形だけとはいえ、その方の部下となったのです。
そして貴方は、その身をレーゼマイン卿の麾下に置きながら、リアンダール王国の騎士団長を討った。
ライアンさん、貴方はレーゼマイン卿を通して、繋がったのです――ダニエラ妃の謀略に」
ブチリと布が裂ける音とともに毟り取った徽章をライアンは投げ捨てた。
小さな金属塊は綺麗な音を立てて石床を転がった。
それを視界の端で捉えながら、リリアは冷淡に続ける。
「もうお分かりですね? 契約の矛盾とは、『脅威』の排除を願う契約者自身が『脅威』そのものになってしまったこと。
これでは私は契約を履行することができません。
だって『脅威』である貴方を排除すれば、願いの対価である貴方の魂は消えてしまうのですから。
貴方がレーゼマイン卿の徽章を着けて、ルドルフさんに剣を向けた時、あの時に既に契約は破棄されていたのです」
ライアンは言葉が届いているのか判らない茫洋とした表情で虚空を見つめている。
「わざとなのか」
ぽつりとライアンが呟く。
「……わざと俺を師匠にけしかけたのか」
茫洋とした表情から一変、殺気立った顔つきでライアンは言った。
しかしリリアは動じず、淡々と答える。
「わたしは、お任せします、と言いました」
それを聞いて、ライアンは愕然とした。そして、手元の書状へ視線を落とす。
「……シェリーの仕業か?」
ぼそりと吐いたライアンの言葉に、リリアはぴくりと反応した。
「この任命書は誰でも彼でも用意できる物じゃない。王国が発行した正真正銘の本物だ。お前一人じゃ用意できない。このからくりはシェリーの差し金か?」
「いいえ。任命書はたしかにシェリーさんに用意してもらいましたが、筋書きを書いたのは私です。全て私の意思です」
リリアの脳裏に昨日のテラスでの会話が蘇る。
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「――何か、私に話したいことがあるんじゃなくて?」
澄み切ったシェリーの翠緑の瞳は凛とした輝きでもって、漆黒の瞳に問いかけた。
しばしの逡巡の後、リリアは沈痛な表情のまま頷いた。
そして幾度かの深呼吸の後に、罪を告解するかのような面持ちで口を開く。
「己の死に意味を見出し、それを望んでいる人がいます。それなのに、その人の名誉を剥ぎ取り、失望を与えて、罪さえも背負わせて、その上で生き永らえさせる。そんな行為に意味はあるのでしょうか」
シェリーは息を飲む。
誰の話なのかはすぐ判った、この話が意味するところ――朧げながらリリアの葛藤の正体が掴めた。
思索の途中、不意にある光景が頭に浮んだ。
夕暮れの人気のない場所で、感情を露わにする自分の姿を思い出して、ふっと笑みを零すように息を吐いた。
「己の死に意味を見出すか……。そういえば、少し前に似た話をする人が居たわ」
「え?」
驚いたリリアの視線を受けながらシェリーは続ける。
「その人はね、命を使い切る機会を得たって言っていたわ。私もその時は少し混乱していて、何も言い返せなかったのだけれど。もう一度言われたら、きちんと言い返そうと思っている言葉があるのよ」
誰の話だと分からないほどリリアの勘も鈍くはないが、黙って耳を傾けている。
「アンタは何様だって、言ってやろうと思っているわ」
シェリーは微笑みながらリリアの反応を見た。
思惑通り唖然となった少女の顔に満足して話を続ける。
「だって、そうじゃない? この世界の人はみな、神様からもらった儚い命を必死に守りながら生きている。
どんなに頑張っても明日には消えてしまうかもしれない、そんな無情さも知りながらみんな懸命に生きている。
それなのに、自分の役目はここまでだとか、勝手に決めて、勝手に幕を引こうとしている。
命の使い道や価値なんて、誰も教えてくれないから、みんな悩みながら生きているのに、自分は答えに辿り着きましたなんて、おこがましいにも程があるわ。
あのね、断っておくけれど、自分以外の誰かや国の為に命をかけた人を侮辱しているつもりは無いのよ。
そんな英霊とも呼べる人たちの崇高な死を穢すつもりは無いわ。
私はね、そんな人たちとアイツを並べたく無いだけ。英雄的な死を選んだ人でも、本当は死にたくなんてなかったはずで、自分が死んで悲しむ存在に胸を痛めていたとも思う。
それなのにアイツは生きているのが面倒くさいから、英霊の真似事をしようとしているだけ。それが気に食わないのよ」
皇女の辛辣な言葉にたじろぎながらもリリアは口を開く。
「そ、その方も、悩んだ末に決めたのではないでしょうか……」
「そうね、少しは悩んだかもしれない。でもね、私にはどうしても納得できないの。
アイツは本当に自分で選択したのか、それとも選択したことにしたのかって。
要するに、似合わないのよ、アイツにはこんな結末は似合わない」
きっぱりと断言されてリリアは何も言えなかった。しかし、不思議と自分の胸を締め付けていた感触が和らいでいくのを感じていた。
シェリーは紅茶で喉を潤して、正面のリリアを見据えた。
「リリアちゃん。貴方の苦しみや痛みは全て私が引き受けるわ。だから教えて。ライアンの命を救う方法を」
シェリーの強い眼差しを避けるように、リリアは膝上の握りこぶしに視線を落とした。
両の手は強く握られ、何かを訴えかけているように微かに震えていた。
嫌われる、疎まれる、蔑まれる、そんな声が頭の中で暴風雨のように荒れ狂っている。
そんな嵐が吹き荒れる中に、怯えて縮こまる自分の姿が見えた。
だが、嵐に切り刻まれるのも覚悟の上で、勇気を奮って小さい自分に手を伸ばす。
その瞬間、一陣の風が吹いて透き通るような静寂が満ちた。
いつのまにか固く握っていた両手。その力を解いてリリアはゆっくりと顔を上げた。
「はい」
リリアは澄み切った漆黒の瞳を輝かせて告げた。
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「ライアンさん」
リリアははっきりとした口調で、目の前で佇む剣士の名を呼ぶ。
気の抜けた表情の剣士は、不機嫌そうな顔を悪魔の少女へ向ける。
「生きてください」
悪魔の少女は、らしからぬ言葉を口にした。
「以前、貴方は言いましたね、『俺の代わりに輝いてくれ』と。でも、それは無理な相談です。
貴方はとても温かくて優しくて、私にとって貴方は輝き以外の何物でもなかった。
とても輝いている貴方の代わりなんて、私には無理です。私はそんな役目を引き受けられません。
この先、貴方に明るい未来があるかなんて私には解りません。
生きていれば良いことありますよ、なんて無責任なことも言えません。
この世界は冷たくないなんて、口が裂けても言えません……でも、それでも……」
冷淡だった悪魔の少女の顔は、痛みを堪えるような険しい表情に変わっていた。
しかし漆黒の双眸は、顔の険しさが増すごとに強く輝く。
「貴方は生きてください。生きて、生き抜いてください。
悪魔ではなく、貴方たちの神さまに最期のときを告げられる、その時まで生きてください」
全霊を賭した、祈りにも似た言葉だった。
余韻で唇は微かに震え、胸を大きく動かして息をしている。
そして、全ての力を使い切ったかのように、リリアの表情は沈んでいった。
「ごめんなさい。これが本当に最期のお願いです……」
消え入るような声だった。
少女の言葉の聞いたライアンは、項垂れてポツリと言葉を漏らす。
「俺は、お前を人にしてやりたくて。それなのに、裏切りを見せつけて、恩人を殺させて、その上で生きろ、だと?」
諦念に満ちた語り口の中に微かに怨嗟の色が混じる。
「これだけ、嫌な目に合わせておいて、生きろだと? こんなの――」
言いながらライアンは顔を上げた。
見つめた先の悪魔の少女は、苦悶を必死に押さえつける表情をしていた。
「私は悪魔。古来より人々から忌み嫌われる存在なのです」
耐え難き苦痛を堪えるような眼差しで、しかし口元には微かな笑みを作り、誇らしさすら感じる表情だった。
「さようなら。ライアンさん」
そう言って踵を返して悪魔は去っていった。
ただの一度も振り返ること無く。
騎士は虚ろな顔のまま、その遠ざかる背中を見送るだけだった。
由緒正しきラウンド騎士団は、壊滅的な状況から奇跡の復活を遂げると思われていた。
しかし、騎士団の再興を誓った新団長ルドルフは、叙任式から行方知れずになってしまった。
騎士団再興を願う貴族や兵士達の手によって捜索が行われたが、その足取りは掴めなかった。
唯一、団長の証である真紅のサーコートが、城壁外の山裾にある彼の家から発見された。
綺麗に折り畳まれたサーコートには、紋章の部分に剣で切られた跡があり、それは彼が自ら団長を辞任する意図と解釈され、それ以上の捜索は打ち切りとなった。
時を同じくして、ラウンド騎士団の唯一の生き残りであった騎士ライアンも、エディンオルから姿を消した。
貧民街にある彼の家は綺麗に片付けられていた。
ルドルフとライアンの間柄を知る市民たちは、師弟連れ立って気ままな旅にでも出たのではないかと噂していた。
そして、もう一人、人知れずエディンオルから消えた人物がいた。
その人物はライアンと連れ立って酒場に良く出入りしていたのだが、ライアンが姿を消したこともあって、さして話題にはならなかった。