三ヵ月後――。
リアンダール王国から遠く離れた、とある商業都市。
燦々と降り注ぐ陽光の下、大通りには街を行きかう人々で溢れていた。
人々はそれぞれが与えられた生命という蝋燭を力いっぱい燃焼させるかのように活気を溢れさせていた。
そんな中、小さな歩幅で歩く一人の少女の姿があった。
陽光を反射して白く輝く石畳に、似つかわしくない漆黒の服を纏い、生気の無い黒い瞳は見るともなく足元を見ていた。
ある店先に差し掛かった時、鼻を擽る匂いを感じて少女は顔を上げた。
店の開け放たれた窓から見えたのは、昼時の食事を楽しむ人々の姿だった。
口いっぱいに食べ物を頬張る少年を、細い目で見つめる母親とおぼしき女性。
昼間から赤ら顔で酒を煽る商人風の男。互いの目を見つめ合い、語り合う男女。
少女は遠い目でその光景をしばらく眺めた後、また顔を伏せて歩き出した。
歩きながら少女の脳裏には、ある男の声が響いていた。
記憶の中で、あれ程までに自分の名を呼んでくれる人は居なかった。
あの声を聞くと、夜明けに朝日が染みこむような温もりを感じていた。
けれど、全ては終わったこと。
自分が醜く終わらせた。
誇り高き結末を剥ぎ取り、望まない未来を押し付けた。
最後に見た彼の顔は絶望だった。
浸ってはいけない、思い出を味わうことなど許されない。
甘さも苦さも、全てを記憶の奥底に埋めてしまえばいい。
――全ては悠久の中に埋もれていくのです。
いつか言った言葉を思い出す。
長い時間が経てば全てを忘れてくれる。全てを忘れてしまえば、胸を握り潰されるようなこの苦しさも、やがて無くなるだろう。
そうすれば、また新しい契約者を探そうと思えるかもしれない。
リリア。
脳裏で声が響いた。
思い出すなと言い聞かすけれど、何故か身体の芯が熱くなっていた。
もう一度、自分の名を呼ぶ声がした。
さっきより鮮明に近くで聞こえた。
ようやく幻聴では無いと理解した。
声の主の気配はすぐ後ろにあるが、振り向けない。
「――おい、リリア。聞こえているんだろ?」
後ろの男は、肩に手を置いてきて、また名を呼んだ。
「……どうして」
男は少女の前に回りこんで顔を覗き込んだ。
「捜したぞ、とは言え、たった三ヶ月だけだけどな」
そう言いながら男は笑った。
「どうして、私を?」
少女は顔を伏せたまま問いかけた。男がふっと笑う気配。
「約束したろ? 俺の魂はお前に捧げるって」
「もう私は貴方の魂を執りたてることはできません」
「ああ、そうだな。だがな、魂は無理でも俺の未来は捧げることができる」
男は胸に手を当てて告げた。
「未来を……、捧げる……?」
「あぁ、そうだ。リリア、お前は俺に生きろと言った。でも、どう生きろとは言わなかった。だから、俺はお前の為に生きることを決めた。だからここに居る」
リリアは顔を上げた。そこにはこの数ヶ月、幾度も想い描いた顔があった。
「何を言っているのですか? ライアンさん」
「だって、お前、すっげえ要領悪いだろ? 要領悪い上に意気地なしだし、そんなんじゃ、いつまで経っても人の魂なんて取れないだろ。だから、俺が手伝ってやるんだよ」
「悪魔の手伝いなんて。人の道に外れる行為です」
「ああ、普通はそうかもしれないが。でも、誰かは俺のこと野良犬って言っていたし。今更、人の道と言われてもなぁ」
ライアンは頭を掻きながら言う。
「ま、とりあえず、そんなことは置いておいて」
ライアンはからりとした笑顔で言う。
「メシにしよう。リリア」
その言葉で胸の中を固めていたはずの黒い氷が、一瞬で蒸発するように消し飛んだ。
――だめ。
そう思ったが遅かった。胸の奥底に閉じ込めていたものは堰を切ったように流れ出る。少しばかりの面映ゆさを含んだ温もりが、みるみると心の中を満たしていく。
もう限界だった。
名を呼ばれた時から、そうならないように全身に力を込めていたが、限界だった。
「どうして……、もう私は……」
瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
拭っても、拭っても、涙は湧き水のように絶え間なく湧き出てきた。
リリアの突然の涙に驚いたライアンは言葉が出ない。
ただ呆然と、陽光に反射しながら頬を伝う光の粒の連なりを眺めていた。
リリアはしゃくりあげなげら、必死に言葉を紡ぐ。
「ライアン、さん。わ、わたし……」
伝えたい言葉がいくつも頭の中に浮かんでは、それを発することを許さない声に否定されて掻き消えていく。
しかし、別れの時から片時も離れることのなかった想いは、涙に押し出されるように流れ出る。
「一緒に、ご飯食べたい」
呆れられるだろうか、そんな杞憂は滲む視界に映る彼の笑顔でかき消えた。
涙で濡れた手が、ライアンの大きな手の平で包まれた。
優しく手が引かれる。その手をリリアはぎゅっと強く握り返すのだった。
~~Episode1:「リアンダールの騎士編」~~[完]~~