ヨハンはナイフで手の甲に傷を入れた。
そして血が滲んでいる傷口に『万療樹の杖』をかざした。杖の宝玉はかすかに光が灯った後にすぐ消えた。
すると時間が巻き戻ったかのように傷口は消えていた。
その様子を覗き込んでいたライアン達は感嘆の声を上げた。
「すごいな、跡形も無いぞ」
「ああ、俺もこれの効果は初めてみるが、これは凄い逸品だ」
ヨハンは得意気に微笑んだ。
すると、ヨハンは杖を布袋で包んで上着を着込んだ。
「どうした? 杖持って、どこか出掛けるのか?」
「ああ、もう少し杖の効果を試したい。出掛けてくる。お前ら今日はもう帰って良いぜ」
言うが早いか、ヨハンはさっさと工房を出ていってしまった。
**********
アイゼンフェルの奥まった細い路地――。
小さな男の子が土の地面に木の枝で絵を描いて遊んでいる。
その絵は人や動物の絵ではなく、幾何学的な模様――魔法陣のようであった。
描き終わった男の子は木の枝を投げ捨てて、地面の魔法陣もどきに手を当てる。
そしてうんうんと唸る。
それはここアイゼンフェルの街でよく見かける、子供の錬金術師ごっこだった。
ヨハンはその男の子の様子に目を細めた。そして大事な魔法陣を踏んでしまわないように、気をつけながら子供の横を通り過ぎた。
やがてヨハンはとある木造りの家の前で立ち止まった。
そして周りの家々を見渡す。ここが目的の家であるかを確認するように。
ヨハンは木造りの家の扉をノックもせずに開けた。その家には突然の訪問に応対する者は居なかった。
構わずヨハンはそのまま家の奥へと歩を進める。
そして家の最奥の扉の前で立ち止まり、そこで目を閉じて深呼吸をした。
そっと静かに扉を開けて、部屋の中を窺い見る。
簡素な部屋の窓際にはベッドが置かれていて、そこには誰かが寝ているようだ。
物音を立てずにヨハンは部屋に入り、ベッドに近づく。そこで寝ていたのは白髪頭の老婆であった。
ヨハンは布袋から杖を取り出す。そして老婆へ向けて杖を構えた。
その時――。
老婆は人の気配に気づいたか目を覚ました。
そのまま焦点の定まらない眼でヨハンを見ていたが、その表情が驚愕に変わる。
「お、お前! ヨハン! ゴホッ、ゴホッ!」
老婆は思わず声をあげて、激しく咳き込んだ。
彼女はヨハンの来訪にひどく驚いている。
「動くな」
冷たい声音でヨハンは告げた。
老婆がその声音にたじろいでいると、杖の先端の宝玉が光り始めた。
ヨハンは杖の先端を老婆の胸辺りにかざす。しばらくすると宝玉の光は消えた。
それを確認したヨハンは、杖を布袋の中に戻し始めた。
「お前、何をしに来たんだ。今何をしたんだい?」
老婆の問いかけにヨハンは答えない。杖をしまい終わった後、そのまま踵を返して部屋を去ろうとする。
「ま、待て、……ん?」
老婆は言葉を発した後に異変に気づいた。思いの外、喉から滑らかに声が出たのだ。
ヨハンは肩越しに視線だけを老婆に向ける。
「咳、止まったか?」
ヨハンの問いに、老婆は喉に手を当てて、短く声を発する。
少ししゃがれているが、はっきりと声は出る。老婆は起きた時と同じように驚愕した表情でヨハンを見つめた。
「止まったみたいだな。じゃあな、婆さん」
そう言い、老婆の返事を待たずにヨハンは部屋から出ていった。
**********
ヨハンがちょうど家から出たところ、一人の赤毛の女性とばったり出くわした。
その女はヨハンと同じくらいの年かさで、ヨハンを見るなり血相を変えて叫んだ。
「何しているのよ、あなた! どうしてここが判ったの!」
「元気な赤毛の女の子の家くらい、すこし調べれば判るさ」
「会いにはこないって約束だったでしょ!」
女の金切り声に鬱陶しそうな顔をしながら、後ろ頭を掻くヨハン。
「別に、お前らに会いに来たわけじゃねえ」
「じゃあ、何で!」
「そう、きゃんきゃん喚くなよ。いいモノができたから、効果の実験に来ただけだ。婆さん以外に相手が思いつかなかったからよ」
女はその言葉を聞いて青ざめる。
「……お義母さんに、何かをしたの?」
「ふん、心配すんな。婆さんならぴんぴんしている。嘘だと思うなら、家で確かめてみな」
ヨハンが親指で家の中を指す。
女は家の中へと駆け込んでいった。
それを見届けたヨハンは、憂いを帯びた顔で女が消えていった家の奥を眺める。
そして名残惜しそうにその場を後にした。
しばらくして、赤毛の女が家から飛び出してきた。
きょろきょろと周りを見回して、ヨハンの姿を探すが後ろ姿すら見つけることはできなかった。
**********
オスカーの道具屋にて――。
ハルは手渡された布袋を、小さな手で慎重に受け取った。
そして、それを足元のカゴの中に詰める。それからカゴを持ち上げて重さを確かめて首肯した。
「大丈夫だよ、オスカーさん。持っていけるよ」
オスカーはにっこりと微笑む。
「そうかい、じゃあ、今日も配達を頼むよ。道中気をつけてな」
「うん!」
ハルは元気よく返事をすると、カゴを持って店を出た。
店の前の通りを少し歩いて、細い路地へと入る。
そこでハルはカゴの中の布袋を見つめる。
そしてしばらくの間立ち止まって悩んだ後、カゴを地面に置いて布袋に手を伸ばした。
布袋の口を解くと、中には大きな水晶が入っていた。
ハルはその水晶の輝きを恍惚の表情で眺める。
「――うーん。配達品の中を開けるのは、あまり感心しないね。ハルちゃん」
後ろから声を掛けられたハルは、飛び上がるように驚いた。
振り向くとオスカーが少し困った顔で立っていた。
「中身が気になったのかい?」
オスカーはしゃがみこんでハルと視線の高さを合わせて問う。
ハルは涙目になりながら、こくんと頷いた。
「……ごめんなさい。大きな水晶を間近で見てみたくて……」
素直に謝るハルに店主は緩やかに笑う。
「ここで、少し待っていな」
オスカーはそう言って立ち去ると、ややあって戻ってきた。
「はい、これをあげるよ。そんな大きな水晶じゃないけど、これも同じ種類の水晶だ」
オスカーがハルの親指ほどの小さな水晶を差し出した。
ハルはそれを恐る恐る受け取ると、手の中のその水晶の輝きに眼を輝かせた。
「……いいの? オスカーさん」
「その代わり、しっかりと配達をしてね」
ハルは嬉しそうな顔に涙を浮かべて、大きく頷いた。
「あ、あのね、ハルね、作りたいものが――」
「――お父さーん。お客さんが呼んでいるよー」
オスカーの後ろから女の子が声を掛けてきた。オスカーはハルの言葉を最期まで聞くことなく、振り向いた。
「ああ、すまない。今、戻るよ。じゃあねハルちゃん」
オスカーはそう言うと、足早に去っていった。
ひとり路地に残されたハル。貰った水晶を握りしめて地面を見つめている。
だがすぐに顔を上げて、ぐいっと目元を拭った。
そしてカゴを持ち上げて、路地の奥へと歩き出すのであった。