「あーあ。やっぱり目を離すべきじゃなかったな。仙帝なんか引き受けたばかりに、やたら忙しい。しかもはるは仙人島じゃなくて尚の新しい島に移る話になってるし」
新しい尚の島へ来るなり、ぶつぶつと愚痴の止まらない櫂を見ながら、つい笑いが込み上げる。
「櫂さんが愚痴をこぼすって、珍しいですね」
「何だかやること多くてね、嫌になるよ」
「それであの様な場所をうろついていたというのか」
癒しの大岩を探して島をうろうろしていた櫂を見つけて、こちらに連れてきたのは尚だ。
「そうさ。せっかく癒されに行ったのに、跡形もなく消えてて……本当に参ったよ」
改めて大岩の上で癒されながら、ようやくいつもの櫂が戻ってきた。
「其方の為に置いてあったわけではない。勝手にやってきては、勝手に座っていただけだろう」
櫂の文句に呆れつつも、岩の上に陣取る櫂を退かそうとはしないところが、尚の優しさなんだと思う。
「あっちの島に置いたままではだめだったの?」
「さすれば、はるが気軽に使えはしないだろう?」
それはそうなんだけどね。
「櫂さんの為にも置いておけば良かったのに」
「はるの言う通りさ。どうせ二人ともこちらに住むんだろう? あちらに使い道などないじゃないか」
「其方はどうせこちらに来るではないか……いや。あちらにも置いてあれば、こっちまで来る必要はないのか」
あちらに
少し考え込んだ様な顔は、そのうち何か企みを含んだものに変わって。
尚が大きく頷いた。
「櫂のために、もう一つ運び込んでやろう。こちらに来る理由を無くしてやろうではないか」
「もう一つって、君はどれだけ規格外なんだ。僕にもそれぐらいの力があれば、こんなに苦労しなかった。今からでも代わらないか?」
「冗談はよせ。誰がその様な立場に望んでなるものか」
「君が僕に押し付けたんだろ。君に頼られて舞い上がってしまった自分が愚かだと思うよ」
愚痴っても、文句を言っても、どこか楽しそうな櫂の顔からは、望みが叶ったことを嬉しく思ってるのがわかる。
尚とこんな風に笑い合いたかったんだもんね。
つい溢れてしまった私の笑い声に、二人の顔がこっちを向く。
「ねぇ、はる。やっぱり仙人島で暮らさないかな? 何も不自由させないよ?」
「櫂さん」
「尚なんて放っておいて、どう? 僕と一緒に」
「はるは、ここで私と暮らすだろう? 私の側に居てくれると、そう言ってくれたではないか」
「尚」
「ようやく並べて比べることができるね。僕と一緒においで」
櫂が差し出してくれた手。いつでも私を助けてくれて、仙人になって右も左もわからない私に色々なことを教えてくれた。天馬に乗って、後ろから支えてもらう時間は、何よりも安心できた。
「私と一緒にいこう」
尚が差し出してくれた手。この世界に落ちて来た私を見捨てても良かったはずなのに、ずっと見守っていてくれた。最も幸せになって欲しいと望む人。優しくて不器用で、放っておけない。
この二人を比べるなんて、なんて贅沢。
櫂への想いは、間違いなく恋。天然王子様に惹かれない女子はいないよね。
差し出された手を取ろうと一歩足を出した。
春の精が風に乗って、私の背中を押してくれる。
「一緒に……」
私、尚と一緒に生きていきたい。
「はるには、もう二人会いに行かなきゃいけない人がいるよね?」
「もう二人ですか?」
「仙人には、結婚って概念はあまり浸透してないんだけどね。やっぱり彼らには会いに行かなきゃいけないでしょ?」
櫂の王子様スマイルは、いつだって心臓に悪い。高鳴る鼓動に、自分の気持ちを勘違いしちゃいそうになる。
「誠弦と緑弦の二人か?」
「決まってるだろう? 二人で行っておいで。僕はもう少し、ここで癒されておくよ」
「結婚……」
「尚と一緒に住むならね。きちんと挨拶しておいで。その方がはるの心にも整理がつくだろう? 尚は誠弦殿と顔を合わせたことすらないかもしれない」
父さんや緑に会ったことのある櫂だからこその気遣い。緑の結婚式を一緒に見たからってのもあるのかな。
「櫂さん、すいません」
「はるに謝られては、僕の立場がないな。ほら、早く」
「櫂……」
「早く行けって!」
櫂の強い声に尚が馬を作り上げて、私も素直にそれに跨った。
私たちが飛び上がってもこちらを見ようとしないのは、櫂なりの強がりかな。
あんなに大切にしてくれたのに。
「櫂さんに、悪いことしちゃった」
ふらふらとどっちつかずの態度を取っていたのは私。尚を忘れて、櫂に惹かれて。それなのに、思い出したらまた……
「櫂は、はるの気持ちも分かってたんだろう。だからこそ、今日まであの時間を引き延ばした。櫂らしい」
清々しいぐらい正々堂々としてて。
「櫂さん、かっこいいなぁ」
その凛々しさに、思わず口からこぼれ落ちた。
「私など、足下にも及ばぬ」
「ご、ごめんなさい」
「それでも私の手を取って、こうしてここにいてくれるのだから、構わぬ」
尚が手綱を持つ腕に少し力を入れたのがわかった。回された腕がまるで私を包み込むようで、安心感とそれを覆う気恥ずかしさ。
お互いに意識してしまって、聞こえるのは風の音だけ。
馬は一直線に、それでもゆっくりと懐かしい家を目指していく。
沈黙が続く時間も、妙に居心地が良い。
「はるか! よく来たなぁ」
畑から戻る父さんを待って家を訪ねれば、いつもの笑顔で出迎えてくれる。
「父さん。久しぶりだね」
「さぁ、入った入った……」
私の後ろに立つ尚の姿を見た途端、父さんの笑顔が消えた。眉間には深いしわが浮かび上がって、尚のことを睨みつける。
「父さん。彼、尚っていうの」
「誠弦殿。突然訪ねて申し訳ない。尚と申す」
今や仙帝となった櫂よりも強いはずの尚が、父さんに向かって深く頭を下げているのは、何ともおかしな光景なんだけど。
「あんたも、仙人様?」
父さんの不躾な態度は、尚がどれだけ強いかを知らないからだと思う。
「あぁ。遥香に世話になっている」
世話? お世話になってるのは、私よね?
「父さん! 早く中に入ってもらいなよ」
玄関先で立ち話したままだった私たちに、後ろの方から緑が声をかけてくれる。
「緑! 久しぶり」
「はるか。また大きくなった?」
「まさか。変わってないよ」
桃を食べた後も何度か二人には会いに来てる。仙力を扱う様になって成長し続けていた体も、またぴたりと止まってしまった。
「あの……はじめまして」
「貴女が緑の……はじめまして。私、はるかです」
控えめに声をかけてきてくれたのは、結婚式の時に緑の隣で笑っていた綺麗な人。
美男美女の素敵な夫婦。
緑って、わりと面食いだ。
「
こんな綺麗な人に可愛らしいなんて言われても。お世辞にも程がある。
「はるかは、今日はどうしたの?」
「そうだった! あの……」
玄関から一歩入ったところで、未だに尚を睨みつけてる父さんと、それを平然と受け流してる尚の側に戻って、尚の袖を掴んだ。
「私、この人と一緒に暮らすね。そう伝えに来たの」
「何だと?!」
私の言葉に、怒声を返したのは父さんだ。
「このっ。はるかをたぶらかしやがって!」
声の勢いそのままに、父さんの拳が尚の顔目がけて飛んでいった。
「っ……」
一瞬、避けようと構えたはずの尚が、そのまま殴られて床に倒れ込んだ。尚の手からこぼれ落ちた氷の
それすらも抑え込んで、父さんの拳を受けた。
「尚っ! 大丈夫? 父さん! 何てことするの?!」
尚に駆け寄って、父さんを睨みつける。
流石に仙力でもってやり返すわけにもいかないし、それぐらいしかやれることないじゃない?
「遥香。構わぬ。其方を大切に思っていればこそだ」
尚の白い肌に、赤い痕が痛々しい。
「緑っ。酒を持って来い!」
不機嫌そうな大きな足音をたてて、父さんが食卓の椅子に座る。
「飲みすぎないでよ」
緑の声は父さんの態度に呆れたと言わんばかりで。父さんにお酒を出して、そのままこっちへ近づいてきた。
「やっぱり、尚だった」
私と尚の側にしゃがみ込んだ緑は、初めて会ったはずの尚のことを知ってるようで。
緑の言葉に少し照れた様に笑う尚の顔と、どこか悔しそうな緑の顔を見比べた。
二人は知り合いなの?
「緑弦も、私を殴りたければすれば良い。それで遥香の側に居ることを認めてもらえるのであれば、どうってこともない」
「そうだなぁ。殴りたい気もするけど、尚の情けない面も見てるし、結婚式の時の雪花で免じてやる」
「私だと、気づいて?」
「あの日はそんな雲もなかったし。あんなことできるの、仙人様ぐらいだよ」
緑が懐かしそうに目を細めるのを見ながら、二人の間に流れる穏やかな空気にほっとする。
緑まで尚のことを殴ったらどうしようかと思った。
「はるか。父さんは今夜はやけ酒になっちゃうだろうから、また今度僕が上手く言っといてあげる。もうすぐ暗くなるから、今夜はお帰り」
「緑。それで良いの?」
父さんには、ちゃんと報告できたとは言いづらい。
「大丈夫。それに、はるかが側に居てやりたい奴は彼のことだろう? 幸せになるんだよ」
緑の手が、そっと私の頭を撫でる。小さな頃から何度もしてもらっていたのに、久しぶりの手の感触は小さな頃とは全く違っていて。
少し硬くなった緑の手のひらは、父さんと同じ男の人だ。
「うん。緑ありがとう。私、幸せになるね」
いつまでも緑の手を懐かしんでちゃだめだ。
緑の手は、もう春麗さんを守るためにあるんだし、私の隣には尚がいてくれる。
「また遊びにおいで。いつでも待ってる。尚のことも待ってるから」
緑の笑顔に見送られながら、玄関を出ようとするれば、食卓で父さんが背を向けたままお酒を流し込んでるのが垣間見えた。
本当は、父さんにも笑って欲しかったんだけど。
「また来い!」
私が小さく肩を落としたのがわかったのか、父さんのぶっきらぼうな声が後ろから聞こえてきた。
慌てて振り向いても、やっぱり父さんは背を向けたまま。
「うん! またね!」
大好きな父さんの大きな背中に向けて、そう返事をした。
家を出て二人で馬に跨り、見えたのは地平線に沈む夕陽。
真っ赤な夕陽に当てられて、尚の顔も私の顔も赤く染まる。
「綺麗だね」
「陽が沈むときも、また陽が昇るときも、遥香と一緒にいられたら、こんな幸せなことはない」
それが当たり前になる日が、いつかやってくるだろう。
夕陽を見ながら空中で止まっていた馬が、そのまま地面へと足を降ろした。
「どうしたの?」
「こんな場所では、もったいないかもしれぬが。またいつ邪魔が入るかわからぬ」
「どういうこと?」
「仙人界に結婚式はない。そもそも、誰かと添い遂げることに重きをおいてはいない。そのようなことをすれば、自分の中に記憶が積み重なる。それを嫌がる者も少なくない」
友人すら、切り捨ててしまう人もいるぐらいだもんね。
「ただ、私たちができる唯一の誓いがある。相手に自分の命を預けたも同然の行為だ」
「命?」
「遥香にも私の名を覚えていてもらいたい」
「名前って……操られちゃうよ?」
「わかってる。だからこそだ」
尚が真っ直ぐに私を見つめてくる瞳の中に、私が写ってるのが見える。
夕陽で赤く染まっていく景色の中で、尚の言葉が少しずつ私の中に染み込んできて。
「名前、教えてくれるの?」
「私だけが知っていては、不公平だろう?」
「そんな風には、思わないけど。でも、教えてくれるなら嬉しい」
尚が私の名前を知ったのだって、ただの偶然。こんなに大切なことだって、知りもしなかった出会いの日。
ここまで色々あったなって、今更しみじみ思う。
こんな風に尚と向き合うことになるなんて、思ってもみなかった。
「私の名は、尚
怜櫻。
私はもう二度と、その名を忘れない。
これからどれだけ思い出が増えようとも、忘れようなんてしない。
この綺麗な夕陽の下で教えてもらった尚の名前。
この景色と共に胸に刻み込む。
今、尚が幸せだったら良いな。
この時間が無駄だなんて、そんな寂しいこともう二度と言わせない。
神様すら出てこないこの世界に私がやってきた理由。
尚に会うためだったって、今なら自信を持って言えるよ。