ほどなくして『調律』の終わった無花果さんが暗室から転がり出てきた。
そして、僕にすがりついてくる。
「マジ! あいつ! 最悪!!」
「落ち着いてください、無花果さん」
「落ち着いてられっか! まひろくーん、どうにかしておくれよー!」
「その点は僕、ノータッチなんで」
「そんなあ!」
「はいはい、いちじくちゃーん、出前来たからご飯にするよー」
「わあい! とんこつラーメン!」
即座に機嫌を治した無花果さんの意識は、もう完全に出前に向けられている。
僕は事務所の戸口で出前を受け取って代金を支払うと、ネクタイを直しながら暗室から出てきた三笠木さんに一礼し、全員にとんこつラーメンを配る。
無花果さんの前に、三笠木さんの前に、所長の前に、そして事務所の奥の『巣』から伸びる手に。
最後に自分の前にもとんこつラーメンを置いて、準備は整った。
「はい、今回は大阪出張お疲れ様でしたー」
「それは出張という名の観光でした」
「観光じゃねえよ仕事だよ!」
「その割には、ずいぶん楽しんでましたよね?」
「うう、いいじゃないか! 大阪なんて楽しむためにある街なんだから!」
「それには同意です」
くす、と笑うと、無花果さんはイタズラがバレた子供のような顔をした。
「さて、それじゃあ、みなさん手を合わせてー」
いつものように所長が音頭を取ると、全員が箸を手にして、
『いただきます』
箸を割って、一斉にとんこつラーメンをすすり始めた。
湯気が立ち上る熱々のとんこつラーメンはいつも通りに濃厚で、ジャンキーで、油っこくて、容赦なく胃袋を殴りつけてくる。
それでも抗えない魅力に取りつかれて、僕は懸命に麺をすすった。
「そういえば、お土産あれで良かったですか?」
「ああー、たこ焼き味のジャンボじゃがりこねー。僕あれ好きだよー、ありがとねーまひろくんー」
「ねえねえ! 小生のお土産は!?」
「いちじくちゃんはねー、正直センスを疑ったよねー」
「なにゆえ!?」
「だってー、あんなクソダサご当地Tシャツ、外国からの観光客だって買わないよー」
「いいじゃん! クールでクレイジーじゃん!」
「あれはねー、もう部屋着にするのもためらうよねー」
「私は止めました」
「僕も止めたんですけどね」
「くっ! 小生のハイパーセンスは未来を先取りしすぎたか!?」
「未来永劫あんなものがはやることはありませんから、安心してください」
「それはディストピアです」
「あんなもの渡された僕の身にもなってよー」
「小生集中砲火浴びてない!? じゃがりこなんてありきたりでつまんないじゃん!」
「無難、と言ってくださいね」
「たしかに面白みはないけど、まひろくんらしいよねー」
「ね!? つまんないでしょ!?」
「お土産にネタを仕込むほど、僕は笑いに毒されてないんで」
「笑いの街に行ってまで、君はつまんない男のままだね! オマケにめんどくさくて童貞だ!」
「童貞は関係ないですよね?」
「あー、つまんなくてめんどくさいのは認めるんだー」
「だって実際、つまんなくてめんどくさい自覚はありますからね」
「自覚あるんなら直したまえよ!」
「これで事足りてるんで、その予定はないです」
「君ってやつは!」
「まあまあー。それも含めてまひろくんでしょー」
「日下部さんは事務所の最後の良心です」
「あれれー? 僕にだって良心くらいあるよー?」
「それならば、今すぐその配信をやめてください」
「だってさー、視聴者のみなさまー?」
「ぎゃはは! もうビョーキだよねビョーキ!」
「それを言うなら、いちじくちゃんだって充分病気だよー」
「あなたは性病をもらってきました。その事実は存在します」
「るっせー小生そんな過去は忘れましたよ!」
「あなたは学習すべきです」
「かたくなに学ばないですからね、無花果さん」
「なんかさー、学んだら負けとかー?」
「左様! 外的要因に左右される小生ではないのだよ!」
「少しは引くことを覚えてくださいよ。じゃないと僕たちが苦労するんですから」
「退かンヌ! 媚びンヌ! 省みンヌ!」
「フランス語風に言ってもダメです、省みてください」
「まったくー、懲りないんだからこの子はー」
「しーらね! あーあーあー、キコエナーイ!」
「とうとう現実逃避し始めちゃいましたよ」
「それは非常に非生産的な行為です」
「君たちが小生のこといぢめるからだろ!?」
「全部正論なんだよねー」
「正論棒で袋叩きにするのやめてよう! 小生のちっちゃなガラスのハートが爆裂四散しちゃうよう!」
「問題ありません。あなたの心臓には毛が生えています」
「ああん? だれのツラの皮が極厚だって!?」
「だれもそこまでは言ってませんよ」
「けど実際、厚顔無恥だよねー」
「あなたは恥という概念を知るべきです」
「小生、なにも恥じることないもん!」
「それにしたって、ちょっとは恥じらいってものを覚えてくださいよ」
「満天下に自分のおまんじゅうを晒しても、なにも恥じることなどない!」
「はーい、それ恥ずかしいと思わないのはひととして致命的な欠陥だからねー」
「無花果さん、それはケダモノすぎますよ」
「それは犬畜生にも劣ります」
「なんだよなんだよ! 寄ってたかって小生のこと罵倒してさ! 小生のことを傷つけるやつは、小生が許さないからな!? お前ら覚えてろよ!?」
「あははー、いちじくちゃん根に持つからねー」
「まあ、僕たちも言い過ぎな気がしましたけど」
「そうだろう、まひろくん!? やはり君だけは小生の味方だよね!?」
「同類ではありませんけどね」
「そこまで堕ちたら人間の尊厳がねー」
「日下部さんを道連れにしないでください」
「ひとでなしどもが!」
わいのわいのと、普段通りにとんこつラーメンの儀は執り行われていく。粛々と、とはとても言えない賑わしさだ。
あらかた具と麺を食べ終えた僕は、どんぶりを傾けてスープを飲み始めた。他のみんなはまだそこまでたどり着いていない。それくらい、くだらないおしゃべりに夢中になっている。
……このやりとり、寄席でやったらウケるんじゃないだろうか。
ふとそんなことを考えている僕も、どうやらすっかり『笑い』のちからに毒されてしまっているようだ。
こんな風に、『笑い』なんてものは日常のどこにでも転がっている。それを素直に笑えるかどうか、しあわせなんてものはその程度のものじゃないか。
だれにでも使える簡単な魔法は、だからこそ最強だ。
笑ったもん勝ち、とはよく言ったものだ。
ニンゲンは、笑うことができる唯一の動物だ。
『笑い』のしあわせこそが、ニンゲンをニンゲンたらしめている。
ニンゲンの尊厳にまで踏み込むのが、『笑い』のちからだった。
……だから、僕は笑う。
「……あっはは!」
「どうしたんだい、まひろくん? 今の、そんなにおかしかったかい?」
「……いえ、なんでもないです……ふふっ」
「ぎゃはは! 変なまひろくん!」
みんなが笑顔になる。三笠木さんさえ、口元が微妙に緩んでいるような気がした。
『笑い』は伝染する。
次の『笑い』を、しあわせを連れてくる。
そんなしあわせな連鎖が世界を照らす日が、きっと来る。
ラーメンのスープを飲み干して、どんぶりを置きながら、そんなことを考えた。
いや、これはもう『祈り』『願い』に近いのかもしれない。
そんな世界がやってきたら、きっと不幸なひとなんていなくなる。
『笑い』の理想郷だ。
だから、僕は笑う。
それが他のだれかの笑顔を呼び覚ますと信じて、たとえバカみたいなことでも、こころの底から笑うのだ。
「あはは!」
「あー、またまひろくんが笑ってるー」
「とうとう壊れたか!?」
どよめきの中、笑いが止まらなくなって、僕は思わず腹を抱えるのだった。