目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

№17 シャングリラ

 ほどなくして『調律』の終わった無花果さんが暗室から転がり出てきた。


 そして、僕にすがりついてくる。


「マジ! あいつ! 最悪!!」


「落ち着いてください、無花果さん」


「落ち着いてられっか! まひろくーん、どうにかしておくれよー!」


「その点は僕、ノータッチなんで」


「そんなあ!」


「はいはい、いちじくちゃーん、出前来たからご飯にするよー」


「わあい! とんこつラーメン!」


 即座に機嫌を治した無花果さんの意識は、もう完全に出前に向けられている。


 僕は事務所の戸口で出前を受け取って代金を支払うと、ネクタイを直しながら暗室から出てきた三笠木さんに一礼し、全員にとんこつラーメンを配る。


 無花果さんの前に、三笠木さんの前に、所長の前に、そして事務所の奥の『巣』から伸びる手に。


 最後に自分の前にもとんこつラーメンを置いて、準備は整った。


「はい、今回は大阪出張お疲れ様でしたー」


「それは出張という名の観光でした」


「観光じゃねえよ仕事だよ!」


「その割には、ずいぶん楽しんでましたよね?」


「うう、いいじゃないか! 大阪なんて楽しむためにある街なんだから!」


「それには同意です」


 くす、と笑うと、無花果さんはイタズラがバレた子供のような顔をした。


「さて、それじゃあ、みなさん手を合わせてー」


 いつものように所長が音頭を取ると、全員が箸を手にして、


『いただきます』


 箸を割って、一斉にとんこつラーメンをすすり始めた。


 湯気が立ち上る熱々のとんこつラーメンはいつも通りに濃厚で、ジャンキーで、油っこくて、容赦なく胃袋を殴りつけてくる。


 それでも抗えない魅力に取りつかれて、僕は懸命に麺をすすった。


「そういえば、お土産あれで良かったですか?」


「ああー、たこ焼き味のジャンボじゃがりこねー。僕あれ好きだよー、ありがとねーまひろくんー」


「ねえねえ! 小生のお土産は!?」


「いちじくちゃんはねー、正直センスを疑ったよねー」


「なにゆえ!?」


「だってー、あんなクソダサご当地Tシャツ、外国からの観光客だって買わないよー」


「いいじゃん! クールでクレイジーじゃん!」


「あれはねー、もう部屋着にするのもためらうよねー」


「私は止めました」


「僕も止めたんですけどね」


「くっ! 小生のハイパーセンスは未来を先取りしすぎたか!?」


「未来永劫あんなものがはやることはありませんから、安心してください」


「それはディストピアです」


「あんなもの渡された僕の身にもなってよー」


「小生集中砲火浴びてない!? じゃがりこなんてありきたりでつまんないじゃん!」


「無難、と言ってくださいね」


「たしかに面白みはないけど、まひろくんらしいよねー」


「ね!? つまんないでしょ!?」


「お土産にネタを仕込むほど、僕は笑いに毒されてないんで」


「笑いの街に行ってまで、君はつまんない男のままだね! オマケにめんどくさくて童貞だ!」


「童貞は関係ないですよね?」


「あー、つまんなくてめんどくさいのは認めるんだー」


「だって実際、つまんなくてめんどくさい自覚はありますからね」


「自覚あるんなら直したまえよ!」


「これで事足りてるんで、その予定はないです」


「君ってやつは!」


「まあまあー。それも含めてまひろくんでしょー」


「日下部さんは事務所の最後の良心です」


「あれれー? 僕にだって良心くらいあるよー?」


「それならば、今すぐその配信をやめてください」


「だってさー、視聴者のみなさまー?」


「ぎゃはは! もうビョーキだよねビョーキ!」


「それを言うなら、いちじくちゃんだって充分病気だよー」


「あなたは性病をもらってきました。その事実は存在します」


「るっせー小生そんな過去は忘れましたよ!」


「あなたは学習すべきです」


「かたくなに学ばないですからね、無花果さん」


「なんかさー、学んだら負けとかー?」


「左様! 外的要因に左右される小生ではないのだよ!」


「少しは引くことを覚えてくださいよ。じゃないと僕たちが苦労するんですから」


「退かンヌ! 媚びンヌ! 省みンヌ!」


「フランス語風に言ってもダメです、省みてください」


「まったくー、懲りないんだからこの子はー」


「しーらね! あーあーあー、キコエナーイ!」


「とうとう現実逃避し始めちゃいましたよ」


「それは非常に非生産的な行為です」


「君たちが小生のこといぢめるからだろ!?」


「全部正論なんだよねー」


「正論棒で袋叩きにするのやめてよう! 小生のちっちゃなガラスのハートが爆裂四散しちゃうよう!」


「問題ありません。あなたの心臓には毛が生えています」


「ああん? だれのツラの皮が極厚だって!?」


「だれもそこまでは言ってませんよ」


「けど実際、厚顔無恥だよねー」


「あなたは恥という概念を知るべきです」


「小生、なにも恥じることないもん!」


「それにしたって、ちょっとは恥じらいってものを覚えてくださいよ」


「満天下に自分のおまんじゅうを晒しても、なにも恥じることなどない!」


「はーい、それ恥ずかしいと思わないのはひととして致命的な欠陥だからねー」


「無花果さん、それはケダモノすぎますよ」


「それは犬畜生にも劣ります」


「なんだよなんだよ! 寄ってたかって小生のこと罵倒してさ! 小生のことを傷つけるやつは、小生が許さないからな!? お前ら覚えてろよ!?」


「あははー、いちじくちゃん根に持つからねー」


「まあ、僕たちも言い過ぎな気がしましたけど」


「そうだろう、まひろくん!? やはり君だけは小生の味方だよね!?」


「同類ではありませんけどね」


「そこまで堕ちたら人間の尊厳がねー」


「日下部さんを道連れにしないでください」


「ひとでなしどもが!」


 わいのわいのと、普段通りにとんこつラーメンの儀は執り行われていく。粛々と、とはとても言えない賑わしさだ。


 あらかた具と麺を食べ終えた僕は、どんぶりを傾けてスープを飲み始めた。他のみんなはまだそこまでたどり着いていない。それくらい、くだらないおしゃべりに夢中になっている。


 ……このやりとり、寄席でやったらウケるんじゃないだろうか。


 ふとそんなことを考えている僕も、どうやらすっかり『笑い』のちからに毒されてしまっているようだ。


 こんな風に、『笑い』なんてものは日常のどこにでも転がっている。それを素直に笑えるかどうか、しあわせなんてものはその程度のものじゃないか。


 だれにでも使える簡単な魔法は、だからこそ最強だ。


 笑ったもん勝ち、とはよく言ったものだ。


 ニンゲンは、笑うことができる唯一の動物だ。


 『笑い』のしあわせこそが、ニンゲンをニンゲンたらしめている。


 ニンゲンの尊厳にまで踏み込むのが、『笑い』のちからだった。


 ……だから、僕は笑う。


「……あっはは!」


「どうしたんだい、まひろくん? 今の、そんなにおかしかったかい?」


「……いえ、なんでもないです……ふふっ」


「ぎゃはは! 変なまひろくん!」


 みんなが笑顔になる。三笠木さんさえ、口元が微妙に緩んでいるような気がした。


 『笑い』は伝染する。


 次の『笑い』を、しあわせを連れてくる。


 そんなしあわせな連鎖が世界を照らす日が、きっと来る。


 ラーメンのスープを飲み干して、どんぶりを置きながら、そんなことを考えた。


 いや、これはもう『祈り』『願い』に近いのかもしれない。


 そんな世界がやってきたら、きっと不幸なひとなんていなくなる。


 『笑い』の理想郷だ。


 だから、僕は笑う。


 それが他のだれかの笑顔を呼び覚ますと信じて、たとえバカみたいなことでも、こころの底から笑うのだ。


「あはは!」


「あー、またまひろくんが笑ってるー」


「とうとう壊れたか!?」


 どよめきの中、笑いが止まらなくなって、僕は思わず腹を抱えるのだった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?