事務所の郵便受けを覗いて、届いた郵便物を回収する。これも僕の立派な雑用のひとつだ。
DMやチラシ、督促状や請求書……必要なものと必要でないものを分けながら、ボロ雑居ビルの階段を上がる。
事務所に戻っていらない郵便物を処分すると、僕は所長に要る郵便物を差し出した。
「今日の分です」
「はーい、ありがとねー」
どうせロクにチェックもしないくせに、受け取るだけ受け取る所長。そういうことは三笠木さんに丸投げなのだ。
「……あれ?」
その郵便物の山から、所長は封書を一通、つまみ上げた。手紙だ。宛名は印刷したものではなく、達筆の手書きだった。
「このご時世にお手紙とは、珍しいねー」
たしかに、封書には切手が貼られ、消印が押され、達筆で『安土探偵事務所御中』と書かれている。間違いなく手書きの手紙だ。
たいていのクレームやら依頼やらはメールか電話でやってくる。それもそのはず、所長のリスナーがメールアドレスを拡散しまくっているからだ。
そう考えると、なんともオールドファッションな通信手段だった。令和の時代に手書きの封書とは。
一体なにが書いてあるのか、僕も気になった。
「差出人は……書いてないねー」
「なになに!? カミソリレター!?」
「あははー、それは勘弁してほしいなー」
目をきらきらさせて食いついてくる無花果さんと、手紙というものの実物を初めて目撃して興味津々な小鳥くんの視線に晒されながら、所長が封を切る。
事務所宛の手紙ということは、クレームか依頼か、それともまた『模倣犯』のときのような『挑戦状』か……
いずれにせよ、なにかが起こる予感があった。
拳銃の弾倉に弾丸が送り込まれるような、そんな感覚だ。
所長が封書の中身を取り出す。中に入っていたのは、朝顔の柄が入った便箋だった。なんとも風情のあるチョイスだ。僕は、まだ見ぬ手紙の送り主に少しだけ好感を持った。
「ええと、なになにー……」
全員が息を詰めてその内容を聞いている。
老眼が入ってきている所長は、手紙を少し離しながら内容を読み上げた。
『拝啓、蝉の声も聞こえぬ暑さの中、いかがお過ごしでしょうか。時候の挨拶はこれくらいにしておいて、早速本題に入らせていただきます』
だれも、なにも言わない。そんな中、す、と所長が便箋をめくる。
『私は、歌をなくしたとある歌い手です。声を失った私にはもう意味などありません。この世になんの未練もありません。ですので、ここで終わらせることにします』
急に喉が鳴った。これは、絶筆だ。歌えなくなった歌い手の、最後の手紙。
そんな手紙はまだ続いた。
『最後に同じ『表現者』として、私の死体を装飾してはいただけませんか? これが私が最後に世界に残す爪痕となるでしょう。お願いです、私を見つけてください。そして私の歴史を芸術で終わらせてください。よろしくお願いいたします。敬具』
所長の声が途切れる。
……手紙は、そこで終わりだった。
署名もなにもない、簡潔極まりない『お願い』。
声を失った歌手からの、それは静かで切実な依頼の手紙だった。
手紙を読み上げた所長は、便箋を畳んで封筒にしまうと、ふう、とため息をついて、
「……だ、そうだよー」
「これって……自殺予告じゃないですか?」
とんだ依頼に、僕は真っ先に声を上げる。
『人生を終わりにする』とは、つまり自分で自分のいのちを断とうとしている意志のもと、書かれた言葉だ。
そして、その死体を装飾してほしいという依頼……間違いなく、これは自殺予告じゃないか。
依頼人がすでに死んでいるのか、まだ生きていてこれから自殺するところなのか、それはまだわからない。
しかし、依頼人は『見つけてください』と書いている。
これはある意味で、『挑戦状』だ。
探偵・春原無花果への、そして『死体装飾家』・春原無花果への。
見つけ出して装飾しろということは、そういうことだ。
「……無花果さん……」
当の本人に視線を向けると、無花果さんは、ふうんとバカにしたように鼻を鳴らしていた。
「死にたがりの元歌い手ねえ。どこで小生のウワサを聞きつけてきたんだか」
「……ってことは、まだ依頼人は生きてると思ってます?」
一縷の希望を見出した僕は、無花果さんに問いかける。その問いに、無花果さんは気のなさそうな返事をした。
「おそらくね。こんなカマッテチャン全開の手紙寄越してくるんだから、首に縄かけながら今か今かとそわそわしてるんだろうよ」
無花果さんはどこまでも冷たく依頼人を突き放した。この様子だと、依頼を受けるかどうかもわからない。
……しかし。
別に無花果さんでなくとも、読み取れた。
この依頼人は、本当は『生きたい』と願っている。でなければ、『見つけてください』なんてことは書かない。わざわざ知らせなどよこさず、死体はこうしてくださいと遺書にでも書けばいいものを、死ぬ寸前でこんな手紙を送ってきた。
ぎりぎりで踏みとどまっている。少しでも背中を押せば奈落に真っ逆さまだ。けど、引き戻すなら今しかない。
生かすも殺すも、僕たち次第なのだ。
だけど、無花果さんはイマイチ乗り気ではらしい。肝心の探偵兼芸術家がこれでは、依頼人の願いなど叶わない。
なんとなく、わかり始めていた。
無花果さんは、この手の『カマッテチャン』が大嫌いだ。どんな『死』であっても平等に扱う無花果さんだけど、その『死』をチラつかせてこっちの反応をうかがうような輩は、いっそ見下している。蔑んでいる。
けど、今まさに死のうとしているひとがいる。放っておくわけにはいかない。
手紙には、声を失った歌い手とあった。ということは、どこかの歌手だろうか。有名人なら話は早いけど、無名の歌手なら見つけるのが大変だ。
……歌えなくなった歌手は、『表現』の手段を失った、いわば死人だ。歌に人生を捧げてきたのなら、その歌を歌えなくなったら、もう死ぬしかない。人生の意味を見失い、もうそれしかなくなってしまったのだ。
たとえば、僕の場合。
カメラのファインダーをのぞくことが、シャッターを切ることができなくなったら、どうなるのかわからない。
それでも生きるかもしれないし、死んでしまおうと思うかもしれない。
それは当事者にしかわからない選択であって、心中を推し量ることなどできない。咎めることなど、なおさらできない。
しかし。今まさに終わろうとしているいのちをそのままにしておくことは、『死』を想い『生』を想う魔女の『庭』の住人としては、できない相談だった。
『死』に貴賎はない。それが自殺であっても、それは立派な『生き様』だ。
しかし、『生』と『死』の間で揺れ動いているいのちがあるとしたら、そっと『生』の側に引き戻す。
それは、『モンスター』であると同時にニンゲンである僕たちにとっては、至極当たり前のことだった。
別にいのちが美しいだけのものだとは思わない。苦しんでもがいて、みっともないいのちだってある。
……それでも。
『死』を扱う『庭』に存在しているからには、そんな中途半端な状態をそのままにはしておけない。
生きるならきっちり生きろ。死ぬならさっさと死ね。
それが、この『庭』の、そして無花果さんの基本スタンスだ。
だからこそ、無花果さんはこんなハンパな手合いをひどく軽蔑する。
……さて、どうやって無花果さんをやる気にさせるか。これは骨が折れそうだ。
ふいに所長と目が合った。その苦笑は、『どうするー?』とでも言いたげだ。
厄介なことになったな、と僕は肩を落とすのだった。