八坂さんが去ったあと、僕は掃除機をかけることにした。
すでに宇宙服との邂逅を果たしていた無花果さんは、たぶん事務所のどこかにはいるのだろう。三笠木さんも席を外しているところを見ると、『懺悔室』での『調律』中だろうか。
ぶおーん、と昔ながらの掃除機で事務所の床を吸っていると、背後に気配を感じた。
なんの気なしに振り返ると、そこには宇宙服姿の小鳥くんが立っていた。
「どうしたんですか、小鳥くん?」
『……なんでもない……』
もじもじした小鳥くんの声が聞こえてくる。
なんでもないならいいけど……
引き続き掃除機をかけていると、背後からとことこと足音がする。
再び振り返ると、僕が進んだだけ近づいた小鳥くんが立っていた。
「ええと……どうしました?」
『……なんでもない……気にしないで、まひろ……』
……いや、なんでもなくはないだろう……
僕は掃除機を止めて小鳥くんに向き直った。
「別に僕に付きっきりじゃなくてもいいんですよ」
『……違うの……小鳥が、そうしたいだけ……』
それで僕の後を追いかけていたらしい。
まるで、インプリンティングされた子カルガモのように。
……なんだこれ、ちょっとキュンと来るな……
「まひろくーん!!」
そんな僕の感慨をぶち壊しにするように、無花果さんが横あいから抱きついてきた。わあわあわめきながら僕にすがりつき、
「聞いてくれたまえよ! あいつったら最悪最低なのだよ! 小生、ぜってーそのうちアイツボコるでござるよ!」
……いつものことだ。『調律』でまたなにかあったらしいけど、これが無花果さんの通常運転だった。
「慰めておくれよー、まひろくーん!」
ずりずりと僕に頬ずりしながら、無花果さんは大袈裟に嘆いている。
「今掃除機かけてるところですから、どいてください。邪魔です」
「君までそんなことを言うのかい!? 小生、君までボコることを視野に入れたくはないよ!」
「ボコらないでください。僕は真面目に雑用をこなしているだけですから。とにかく邪魔です」
「そんな! 日曜日に爪を切っているだけのお父さんを邪険に扱う専業主婦みたいなこと言って! 小生はねえ……」
無花果さんが言いかけたところで、もうひとつ、からだに重みがかかった。
びっくりして見下ろすと、いつの間にか小鳥くんまで僕に抱きついている。宇宙服に覆われた状態だけど、こんな風に接触することは慣れていないだろうに。
ぽかんとしている僕と無花果さんを見上げながら、小鳥くんはぽつりとつぶやいた。
『……無花果ばっかり、ずるい……』
そして、僕の腰あたりにぎゅっとくっついてくるのだ。
……またしても、不覚にも、キュンとしてしまった。
同い年の同性相手にだ。
いかん、いかんぞ、僕。しっかりしろ。
一足先に我に返った無花果さんは、僕になついて甘える小鳥くんを見下ろして、
「まひろくんばっかり、ずるいじゃないか! 小生にも少しはなつきたまえよ、小鳥くん!」
『……無花果はうるさいし、くさいから……』
「くさくないよ!? さすがに正論棒で殴られたら、小生もダメージ受けるからね!? いいかい小鳥くん、無花果はくさくない! リピートアフターミー!」
『……くさい……』
「うわあああああああああん! まひろくうううううううううん!!」
「風呂キャンばっかりしてるからですよ……」
「だって! 小生グレムリンの血を引いてるから、水に濡れると大変なことに!」
「前はマイメロちゃんだって主張してましたよね?」
「それはそれ! これはこれ!!」
「まったく……小鳥くん、無花果さんがさみしがってますよ。ちょっとだけ、仲良くしてあげてくれませんか?」
腰を屈めてヘルメットの向こう側に笑いかけると、小鳥くんは渋々うなずいて、
『……わかった……じゃあ、ちょっとだけ……無花果が、さみしくないようにする……』
そして、小鳥くんは僕から一旦離れると、今度は無花果さんの腰に抱きついた。ぎゅ、と腕を回し、シスター服にヘルメットを埋める。
『……これで、さみしくない……?』
上目遣いに見上げると、最初ほうけていた無花果さんもハートを撃ち抜かれたらしい。きゅーん!となって尊さに歯噛みすると、
「ああああああああいとしいいいいいいいいい!!」
ぶっ壊れた。
身悶えしながら小鳥くんの宇宙服を抱きしめ、ヘルメットにずりずりと頬ずりをする。
「ああ、いとしい、いとしいねえ、かわいいねえ小鳥くんってやつぁ! このこのぉ!」
『……無花果は、やっぱりうるさい……』
「小生のハートを泥棒しておきながらそれかい!? 逮捕だよ! 逃がさんぞルパーン!」
『……小鳥はルパンじゃない……泥棒なんて、してない……』
「いーや! 小生は小鳥くんに首ったけさ! まひろくん? そんな釣れない童貞のことは忘れたね!」
『……まひろのこと、忘れちゃやだ……』
「きゅぴーん! 思い出した! 忘れてないよ! なんか童貞がいた! ってことで、ふたりでまひろくんに甘えようじゃないか!」
『……うん』
そうして、またふたりして僕に抱きついてくるのだ。
「まひろくーん!」
『……まひろ』
……僕はどうすればいいのか……
とりあえず、これ以上掃除機はかけられない。
「はいはい……」
ふたりの頭をぽんぽんと叩いて、僕は苦笑いを抑えきれなかった。
無花果さんはいつものこととして、小鳥くんがこんな風に接してくれるなんて、思いもしなかった。
外に出て、ひとと接するということを、小鳥くんは早速学習し始めている。『暴露療法』の成果がすでに表れ始めているのだ。
こうして見ると、無花果さんと小鳥くんはまるで子カルガモのきょうだいのようだ。無花果さんは大きいしやかましいし若干うざったいけど。
微笑ましい、とはこういうことを言うのだろう。
小鳥くんだって、確実に事務所のメンバーになっている。
『協奏者』としての役割を与えられた、魔女の『庭』の一員に。
『巣』にこもっているときは、どこかよそよそしさがあったけど、今小鳥くんは全力で僕たちに向き合っている。
ひととひととの縁を繋ごうとしている。
外の世界に出るということは、なにも危険な事ばかりではない。冒険の果てには、ちゃんとお宝が用意されている。
「いいなー、僕も混じっていい?」
「所長、それはさすがに気持ち悪いです」
「えー、僕だけ仲間はずれー?」
年甲斐もなく、所長がぷっくりと頬を膨らませている。さすがにメンソール中毒のダメダメ中年男性に抱きつかれてよろこぶシュミはない。
「あなたたちは騒がしいです」
ネクタイを直しながら『懺悔室』から出てきた三笠木さんが、いつも通りの無表情で言う。
「騒音は小鳥遊さんにとって有害です。あなたたちの存在は小鳥遊さんの教育上良くないです」
「るっせメガネマシン! どうせまじれなくてすねてんだろバーカバーカ!」
「私はあなたを無視します」
「てめっ、まださっきのこと根に持ってんのかよ!? キッショ!」
「小鳥遊さん、無理をしてはいけません。疲れたらすぐに休んでください」
宣言通りに無花果さんの存在をシカトすると、三笠木さんは小鳥くんに対しても同じような事務口調で告げた。それでも、小鳥くんの身を案じていることはよくわかる。
『……ありがと、国治……大丈夫、小鳥はまだ疲れてない……』
「でしたら、『暴露療法』を続行してください」
そう言ったっきり、三笠木さんはデスクについてまたキーボードを叩き始めた。
……小鳥くんも、すっかりこの風景になじんでしまったものだ。
それがいいことなのか悪いことなのかは、今のところわからない。
けど、小鳥くんは今、ひとりきりでないことは確かだ。
あの小さな『巣』にこもっているよりは、ずっといい。
「ねえねえ小鳥くん! 君は精通は済ませているのかい!?」
「……なんてこと聞くんですか、無花果さん……」
『……ん、まだだよ』
「小鳥くんも、真面目に答えなくていいですから」
そんなやりとりを交わしながら、掃除は長いこと中断されるのだった。