月が上り、夜も更け始めた時刻。
眠気に襲われていると、突風が吹いて髪の毛が靡く。その風は2人の帰還を告げる合図だったみたいで、入った鏡とは反対の鏡から体を出した。
晴太は泥だらけで、洋も同じ。洋に至っては帰って来るなり口から泥を吐いて、苦しそうな嗚咽を何度も繰り返した。
ただ事ではないとすぐに駆け寄って背中を叩き、水で口を濯がせる。
顔や体にも擦り傷や切り傷が沢山あって、あの綺麗な肌は泥と血で見えなくなっている。
タオルなんかじゃ拭き取っても取りきれない。
「何をして来たらこうなるのよ!」
思わず怒鳴ってしまった。過去に戻るとかなんだか知らないけど、こんな死にそうになりながら犯す禁忌ってなんなのよ。
洋についた泥を落としていると、晴太は自分の汚れをタオルで拭きながら静かに話し始めた。
「洋が亡くなった人の死因を経験する事でその魂は救われる。その魂を救えば、一定帰還だけど、ほんの少しだけ呪いから逃れられるんだ」
「他人に思いやりの気持ちや同情が出来ない沖田だが、自分が経験すると救えるようになる。そのための儀式だ」
守も淡々と答える。目の前で起きている事は何なのかわからない。鏡に入って、死にそうになりながら戻って来て、それが必要な儀式だっていうの?
こんなに苦しそうに泥や汚れた水を吐いているのに、誰も止めてあげないの?
晴太が洋を好きと言う気持ちも、守が洋とずっと一緒にいる気持ちも説得力がない。大切ならこんな辛いことさせないでよ。命の灯火が消えていく様を見るくらいなら、生意気で我儘な方がマシだわ。
洋は全てを吐き切り、水に濡れて冷えた体を震わせながら気絶するように眠ってしまった。
私が着ていた上着やブランケット、ビニールシートなど、ありとあらゆる物を体に巻いて車に乗せる。
守の運転で家路に着くことになった。私は2人に沸々と怒りが湧いて、洋を担いで帰ろうかと考えるくらい冷静ではない。重たい空気の車内で、守が沈黙を破った。
「酷だって、思ってるんだろう」
「そうよ。こんなの非人道的だわ。アンタ達の大切って痛ぶる事なのね」
「そんな訳ないよ! 僕らだってこんなことさせたくないんだ!」
晴太は助手席から上半身を乗り出すようにして後部座席を見る。
深い眠りについた洋は起きないけれど、私は軽蔑の意味を込めて晴太を思い切り睨んだ。
「祈が怒るのもわかるよ……でも僕らにはこの方法しか見つからない」
「やらなきゃいいじゃない! 呪いって死なないことと、同情出来ないことなんでしょ!? 不確かな呪いをかけられて、こんなことまでさせられて……可哀想だと思わないの!?」
「……そう、だね」
私は間違えてない。晴太が否定されたからしょげたようにしたって構わない。晴太は私に言い負かされて、ゆっくり前を向く。
対向車線の車のヘッドライトが車内を照らすけれど、何の慰めにもならない。明るい場所に行ったって、穏やかに気持ちになんてなれないと思う。
洋の頬に触れると、血の通わない冷たさが指先に伝わる。
「
「どうだかね」
もう都合のいい説明なんか聞きたくない。綺麗な事を言って丸め込もうとしてるのがわかる。守なんて鏡の前で座ってるだけで、苦しさなんてわかるわけがないのに。
「救うことを怠れば、沖田は夢の中で先祖に責め立てられる。毎晩うなされて、泣けば先月の地震のような災害を起こす。周りには呪われてると煙たがられて、親は相変わらず帰ってこない。
あげくに神霊庁の監視下から逃げ出せば八幡宮の修繕費が請求される。寝ても覚めても地獄。沖田が寝てマシになるならって、今の道を選んだがな」
言葉だけ並べられても、怒りは鎮まらない。私は返事もせずに、洋の手を握って外を見た。すれ違う車に乗った人達はこんな非常識を信じないだろうし、誰が聞いたって作り話だと思うでしょう。
寝ても覚めても地獄。そんな状況に、人はきっと耐えられない。死にたくなる。選べる道がなかったら、きっと逃げ出したくなる。
私が宮城に居る理由だってそう。逃げ出したいからここに来た。
我儘で自己中で、救いようがないくらい協調性がなくて。義理子さん達が困るのは当たり前だって、イライラしてたのに。
強い怒りに震え、下唇を強く噛みしめた。
◇
その日、洋は目を覚まさなかった。
病院に行かなくていいのかと2人を突いたけど、毎度行っていたら事件性を疑われ始めたと言って断られた。洋も病院には行きたくないと駄々をこねるみたい。
その理由は、変わってしまった苗字を認めたくないからだって言う。
私としては病院に連れて行きたいのが本音だけど、それ自体が洋の心の負担になるのなら避けるべきだとも思った。
家で私が一通り出来ることを施してベッドで眠らせる。呪いの力なのか、致命傷は癒えてきている。
晴太曰く、台風が原因の土砂崩れに巻き込まれて来たって。洋は窒息しそうになりながらも声を上げ、それを晴太が懸命に掘り起こしたと言う。
2人はいつも目が覚めるまで隣にいるというけれど、私が一緒の空間に居たくなくて帰ってもらうことにした。
眠っていても、鴨みたいないびきは聞こえない。空気の漏れるような、か細い呼吸がうっすらと聞こえるだけ。
時々口元に手のひらを当てて、ちゃんと息をしているか確認もする。死なない呪いがかかっているって言われても、目の前で死にそうな洋を見ると不安でたまらないの。
そして夜の暗さにぼんやりと明るさが見えはじめた時、掛け布団が動いた。
「あ……」
「おは、よ……」
目が開いていないに等しいくらい薄らと、洋は意識を取り戻してくれた。口の端が切れている洋は、挨拶一つでも眉間に皺を寄せて痛がっている。
「無理に話さなくていいのよ」
すかさず保湿剤を塗ってあげる。
「怒る、じゃん」
「今は話が違うでしょ。話さなくていいから、答えが"はい"なら瞬きしてね。お腹は空いてる?」
やけに素直なのが、また私の心を抉る。
「唐揚げ……食べたい」
「唐揚げ? 今は食べられないでしょ。もう少し体が良くなってからね」
「お母さんの、唐揚げ」
洋は絞る様な声でお母さんを求めた。唐揚げが食べたいんじゃなくて、お母さんに会いたいんだって解釈するのはドラマ脳なのかしら。それとも、家庭環境を聞いた後だから?
きっと食べれるわよ、なんて無責任なことは言えない。答えが見つからなくて目が泳ぐ。
消え入りそうな声はまだ続く。
「祈は、ずっと、ここに居てくれる?」
私が答える前に、再び眠りについてしまった。洋が私に初めて見せた、素直な気持ち。
まるで小さな子供が怖い夢を見て、母親に隣にいてほしいと求めるようだった。
洋は泣きたくても泣けないのに、私の目からは涙が落ちる。どうにもしてあげられないもどかしさが苦しい。
私はなんて答えたら良いの。この子のそばにいて、死にそうになるのを毎度支えてあげる覚悟なんてない。あんな恐ろしい禁忌を支援してあげられる自信がない。
会いたくなかったけど、この2人には洋に寄りそう覚悟がある。私はあくまで短期のお世話役。
夏の日差しのような眩しい朝日に照らされると、どこかに隠れたくなる。
仕事だと割り切らないといけないのに、洋の不遇さを知ると今までのように振る舞えない。
私は自分が生きたいように生きるだけ。そのために此処に来たのに。割り切りたい頭と洋を助けたい気持ちは裏腹。けれど、感情が勝るのは当然の事。
私は居ても立っても居られなくなった。スカートのポケットから携帯を取り出し、義理子さんへとコールを鳴らす。
私は此処に来る際に、義理子さんから教えてもらったことがある。別に興味もなかったから提案をパスしたけれど、今となっては後悔だ。
義理子さんのもしもしに被せるよう、勢いに任せるように言った。
「洋の両親に、会わせていただけませんか」
私、知ってるの。
洋の両親は神霊庁の職員だって事。